教材研究覚書「日常を十七音で」(光村・小5国語)「たのしみは」(光村・小6国語)
小学校で、義務教育で、俳句や短歌を作るのはなぜなのか、というそもそもの問いがあります。学習指導要領に根拠を求めていきますと、こんな文言が見つかります。
3・4年生での俳句や短歌は、音読や暗唱を通して日本の伝統的な言語表現文化に親しむことを目的に設定されています。「昔の人って、たった十七音で景色や気持ちを表現してたんだね。」「お気に入りの俳句を見つけたよ。」などなど、あくまで伝統的文化への入り口を設定するものです。
5・6年生での俳句や短歌は、「書くこと」を一段上のレベルに引き上げるための道具に近くなっていきます。目的や意図に応じた題材設定の仕方、表現の工夫の仕方、表現の整え方などを、様々な種類の文章(報告文、依頼文、感想文、随筆)を書くことを通して体得していくわけです。短歌や俳句は、特に表現の工夫に焦点しています。また児童同士の相互鑑賞にも適しています。
でのすで、この単元でねらうことになるのは「表現の工夫」です。すごくシンプルに感じるのですが、シンプルさゆえの難しさがあるように思います。世の中、シンプル見えるものほど複雑です。きっと。
「『プレバト』のおかげで、俳句や短歌の工夫について伝わりやすくなった/考えさせやすくなった。」という声もありますが、実際はどうなんでしょうね。表現についての「良い/良くない」を明確につけていくことで、工夫された表現とは何かということがはっきりします。表現に対する感覚や、工夫するための技能を高めることにつながるでしょう。
しかし、表現の良し悪しを直截的に断じることは「表現活動」や「創作活動」の幅を狭めてしまうことにつながらないかな、という危惧があります。「この表現は良くないんだ」から「こんなのしか思いつかないぼくは、国語の成績が悪いんだ」までは、思っている以上に近い距離にあります。
“工夫”というふわふわした概念を“基準”として適用してしまっては、表現活動が硬直してしまうのではないだろうか、という危惧です。“工夫”を、教室内の序列のために適用するのではなく、個人内の満足感のために適用していくことが、この単元の教材研究の核であるような気がします。
おそらく、必要なのは「伝えるために工夫した。」という経験です。あるいは、伝える伝えないは関係なく「表現を工夫した。」という経験なのです。なんというかもう、それだけのような気がしてきました。
季語が、音数が、著名な俳人が。
擬人法が、倒置法が、体言止めが。
それらの細々とした知識や技能を「ぼく、表現を工夫してみたよ。」という経験が超越していく瞬間を見たいのかもしれません。