小4国語『初雪のふる日』

 小学4年生の国語といえば真っ先に『ごんぎつね』が思い浮かぶのですが、負けず劣らずの名作がこの安房直子『初雪のふる日』です。


物語の概要

 ある田舎町に暮らす女の子が、晩秋の寒い日に道路に描かれた石けりの輪を見つけます。長く続くその石けりの輪を辿っていくうちに、女の子の前後には真っ白なうさぎたちが列を成し、女の子を連れてどこまでも行こうとします。曰く、「雪を降らせる雪うさぎ」。このまま帰れなくなってしまうのではないか、最後は雪のかたまりになるとかうさぎたちは不穏なことを言っているし、と恐怖に震える女の子ですが、偶然見つけたよもぎの葉と昔おばあさんから聞いたおまじないを思い出します。おまじないの力なのか、うさぎも石けりの輪も、よもぎの葉さえも突然消え、気づけば女の子は遠く離れた町までやってきていました。住民たちが驚く中、一人の老人が「この子はうさぎに攫われそうになったところを、なんとか助かったんだ。」と呟きます。

 小学校国語で頻出の“行って帰ってくる系ファンタジー”であり、“神隠し”の一形態として読むことのできる物語です。ある意味4年生で学ぶには不穏な雰囲気がありつつ、それでも最後は柔らかく落着する、軽やかな読後感があります。そういうわけで、『プラタナスの木』ほどではないにせよ結構印象に残りにくい話ではあるように思います。

 では、この物語教材を扱いながらどんなことをしていたかというと、ざっくり「読み方」について、です。なんじゃそりゃ。

単元の概要

 いろいろな何もかもをすっ飛ばして書いています。

 物語を読む上で、もっと言うと、物語を味わう上で“何を見るか”を定める必要があると考えました。
 この“何を見るか”はかなり漠然としており、漠然としているが故に多くの人が漠然と物語を眺めているのかなと思います。ただこれは私が侮り過ぎている/過小評価している傾向があるかもしれません。小学生だって自分なりの視点をもって読んでいるには違いないので、むしろ「視点を定めて」と言うより「子どもが自力で定めたであろう視点に対して適切に名前を付けたり、補助線を引いたりする」という姿勢が大事だろうなと思っています。ある視点から放射される視線に対して、教師としてどのような補助線を引くことができるか、あるいは、補助線を見出せるか。見出した補助線を子どもに提示するかどうかさえも適切に判断していかねばならないのは留意するとして。

 ただ、一度物語を読んで「どう思った?」と問いかけてもどうにもならんので、物語を味わう最初の一歩は用意します。物語を眺める視点の土台(なんじゃそりゃ)ともいうべき足がかり。『初雪のふる日』がファンタジー作品であることを考慮して、視点の土台を「なぞ」の一言に集約しました。“この物語に散在する「なぞ」は何か”。なんだか古臭い手法だなと自分でも思います。ええねん、別に。
 そういうわけで、「なぞ」を集めたところ、予想よりも芯を食った「なぞ」が集まり、楽しい話になりました。ここでICTの出番になります。

ICTの効力

 知見の集積/拡散におけるICTの力。私が勤務する自治体では学習用のアプリケーションとして「ロイロノート」が採用されています。ロイロノートは「集積/拡散」においては非常に効力を発揮してくれたなと感じているところです。ロイロノートでは文章や手書きのイラスト、画像をカードにして並べて表示できます。カードは色や大きさを変えられますし、カード同士を連結させることもできます。この色変更と連結機能を使うことで、子どもたちはじっくり「なぞ」に向き合うことができたのではないかと見ています。
 ピンク色のカードに「なぞ」、そこに連結する水色のカードに「教科書本文から見つけた謎への答えや手がかり」、場合によっては黄色カードを追加して「自分が考えたこと」を記す。これを蓄積させていくことで、子どもたちはやいのやいの言いながら自分なりに教科書本文を読み込んでいき、物語を味わっていく……いけた……んじゃないかな……うん……多分……きっとそうだよ……。

湧いてくる危機感あるいは恐怖について

 物語を味わう、などとそれっぽく粉飾しているわけですが、読書だったり鑑賞だったりの営為について何か傲慢に語っているような空気を自分に対して感じています。
 学校教育や、国語科教育における「読解」「解釈」「豊かに読む」「物語を味わう」などのふわふわワード、略してふわふワードがふわふわしたまま私の目の前を通過していきます。自分の中でこれらの言葉が錨を下ろしてくれていればいいのですが、残念ながらそうではないようです。何ができれば“読み解けた”のか。“解釈”とは何か。どうなっていれば“豊かに読”めていて、どういう感覚が“物語を味わ”っているのか。そしてそれを子どもたちに実感させるとはどういうことなのか。正直な話をすると何もわかりません。この仕事をしていて「何もわからん」という態度が不誠実であることは重々承知していますが、ふぅ〜……。
 これらの「物語が読めた」とか「物語が分かった」という感覚が強固になればなるほどに、きっと単元や授業や各種教育活動における“据わりの悪さ”が発生してしまいます。錨を下ろしたことで動かなくなる観念。軽やかさもしなやかさも失われることには少し恐怖を感じます。「こうすることが“読めた”ってことだろ。」というどでかい旗が私の中に立つことで、何かが私のどこかから流れ出てしまうのではないか。そんなことを予感しています。そしてそれは“教師の権威”みたいなものを後ろ盾にしながら肥大化する可能性が非常に高く、それにこそ危機感と恐怖を感じます。

 私たち教師にこそ、自分が発する視線に対する補助線を見出さねばならないのではないか。そういう感じもします。

 単元名で検索してこの記事に辿り着いたみなさん。単元や授業や発問の具体もない、こんな感じの記事ですいませんね。

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