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ここに光るものはなにもない 

 十字架が光って、哀しいシーンを照らす夜。
 それは目の前にあるわけではない。どこをどう通っても誰かに怒られたり咎められたりすることもない風が、おなじように誰に止められることもなく際限なしに冷たくなった風が、光る十字架のうえから・誰もいない畑から・休む蝶の羽と羽のすきまから、とにかくあたり一帯を通り抜け自分のところまでやってくる。ただそれだけによるもので、実際には十字架どころか、ここに光るものはなにもない。

 停電が起きたと仮定した。あれこれ考えて、哀しくなってすぐにやめた。思いつく全てが哀しみを絞り出そうとしてくる夜がある。今夜は十字架の風が吹いたから、より一層つよくそれを感じる。道端のハート型の石、蹴っておけばよかったかな。そんなことでも胸がちぎれそうになる。こんなのはおかしいと思うけれど、十字架の風のせいだと思えば気持ちが少し楽になる。理由があるというのは都合がいいことだ。でも、もしかしたら辻褄を合わせようと脳が勝手に「冷たい風が吹いたのだから哀しい思いをするはずだ」といって哀しみを助長してしまっている可能性もある。ハート型の石はべつに蹴らなくてもいい、それにこの世に自分が蹴るべきものなんてないはずなのに。

 この、十字架はなにかのメタファではない。哀しい夜に知らない道を歩いていると教会の屋根の上で十字架が青く光っていたのを、8年経っても鮮明に覚えているというだけ。急に自分には酒場で知らない人に聞いたおもしろい話とかがひとつもないなと思ってまた哀しくなってくる。

 哀しいときはチョコレート味のカロリーメイトのことを想像するとすこし気が紛れる。おいしいというのと、カロリーメイトは自分のなかで光のものという感じがするから。光のものと、闇のもの。カロリーメイトは光、こんにゃくは闇、くまのぬいぐるみは光、レンガは闇。太陽は闇、月は光、鳥のユリカモメは光で、ファミリーマートは闇。タオルはグレーゾーン。日常には光と闇が混在していて、それで世界が成り立っている気がする。それでも、実際にカロリーメイトが発光して見えるわけではないから、ほんとうの光を見たいときには、光るもののところにいかなければいけない。自分は8年ぶりに、実際に光るものを見たほうがいいと思う。だからあの十字架を見た都会にいってひとりでただふらふらと歩いてみようと思っている。この辺りの心を哀しく転がるいまの自分には、見える光がなにもないから。まず目を開かなければいけない。

2023/11/12

✴︎ 自分は闇 光になりたい

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