見出し画像

中国と日本の住みやすさの違い その2(1の抽象化)

自分あっての他人か、他人あっての自分か。

ここに来て感じることは、自分と他人との比率が日本で暮らしていた時とは大きく異なるということだ。

例えば、友達と約束したとしよう。友達が用事でその予約がなくなり、次回ということになる。そうすると、私の感覚でいえば、「友達側」から私にアクションを起こし、次はいつにしようか、この日はどう?といったことがなされる「べき」と感じてしまう。

しかし、ここで不思議なことが起こる。友達からのアクションはないのだ。日本でも同じようなことが起こるかもしれないが、それがしょっちゅう起こってしまうと、さすがに違いに気づく。

ここで、再度約束しようとすると、友達は「最近忙しいからまた来月」と言われる。これまた問題はないが、そうならば事前に私に言っておく「べき」ではと考えてしまうのは、日本人的思考の始まりかもしれない。

こうした、「他人あっての自分」思考に傾くのが、日本では感じられていたように思える(といっても中国に来てから意識し始めたので、間違いがあるかもしれない)。

それに対し、中国では「自分あっての他人」である。他人を巻き込みながら、新しいものを作り上げるというよりは、自分が「そうしたい」から他人を巻き込んでいくものに近い。

たとえば、「来週の何曜日空いていますか」と聞くのは日本ではよく聞かれるがその期間が、中国では短い、例えば「明後日空いているか」などである。「今日の午後」というのもある。もちろん、そうした行事やイベントが突発的に起こるというのが中国らしさというのを認識しておく必要がある。

こうした「自分あっての」があると、友達付き合いというのも難易度が変わってくる。例えば、積極的に誘い続けなければならない。もしくは、誘いを待ち続けるということもありえる。

日本語を教えていると、突然学生から「明日までにこれを修正してくれ」といったコメントがくる。それまでにどれだけ関係構築していたのかを無視して、そうしたコメントを送れるのはたしかにすごいが、考えずに良い結果が得られるというのも中国がなしえた技なのかもしれない。

中国と日本は飛行機で2~3時間の距離だが、こんなにも違う。それは、自分の意識を相対化するのには、非常におもしろいことである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?