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カプセルホテルで考えること

カプセルホテルに入るといろんなことを考えてしまう。
今回はまとまりのない、アイデアと思いが迷走した文章である。

私が好きなカプセルホテルだけかもしれないが、まずロッカーが狭い。異常なほどに狭い。なぜこんなに狭いものを作ったのかと思ったが、面積の割に人を多く入れるために必要なことなのだ。逆にその狭さに感心してしまう。

次に貴重品ロッカーがたくさんあり、貴重品をしまうことができる。あまりにも多くてどこに入れたのかを忘れそうになる。そして紙が出てくるのだが、その紙が小さいのでなくしそうになる。心配だ。そして、紙をなくせば貴重品も分からなくなる。ではどうすれば?覚えられる人がうらやましい。

館内は共通の制服があり、私たちは衣服の自由がなくなる。といっても、デイリーの人とお泊りの人では制服の色が異なるので、見分けがつく。何かしらのことを思いつきそうだが、ここはやめておく。

泊まるところは番号で区切られているものの、「私の」という意識をごっそりと削り取っていく。そして、明日はまた別の人の寝床になるのだろう。そういえば、「家」という概念も不思議なものである。家を買った場合、「私の」または「私たちの」家という意識が湧くが、それはなぜだろうか。もちろん土地を購入して家を建てたからだろう。紙にもそう書いてある。自分の名前も書いてあるからだろう。ただ、それを担保しているのは国なのである。国が認めなければ、お金も家も土地も自分のものではない。この区切りはいったい誰のためなのか、こう考えると思考の渦に入り込む。

別の観点から家を見てみると、「先祖代々の家」という言い方がある。そうすると、ここは借り物であり、共通の家であり、自分の家でもある。はて、そんな一緒に括ることができるのだろうか。いや、よく考えてみればいつからそれらが「切り離された」かを考えるべきなのかもしれない。そうすれば、エリックホブズボウムの名前も浮かんでくる。うん、もう一度読んでみよう。

次に考えるのは共通浴場と住居である。共通浴場では我々は嫌という顔もせず、みんな一緒に入ることができる。ただ、不思議なことに寝るところは別の方が良い。プライバシー?命の危険?いびき?どうやら、人は交流することも、密閉空間で一人になることも求める若干ややこしい生き物なのかもしれない。家族とは一緒に寝られるという人もいれば、別々に寝る人もいる。他にそんな生物がいるのか気になるところだ。

さて、この区切りを考えるきっかけというのを振り返ると、小さい頃の校区まで戻すことができるかもしれない。

私の家(ここでは便宜上そのまま使う)は団地にあった。それは町境にあり、境は団地の真ん中できれいに真っ二つだった。そのため、隣の家の同級生と通う学校が違うという珍しい現象を体験できた。小学校は隣町の方が近く、私は遠くまで通学しなければならなかった(といっても両親には車という利器があったのでお願いした。ありがとう)。理不尽な線引きに憤ったものである。あっちの学校の方が近いし、友達とも勉強できる。こっちも友達ができたし、帰ってきたら遊ぶがどうしても線というのが微妙に心に残る。

しかも、学校の先生は「町を出て遊んではいけません」と言う。そうしたら、ほぼ毎日、町を出ている私は「悪い子」なんだろうか。小学生ながら罪悪感を覚えたこともある。教育や言い方は難しいと改めて感じる。ただ、中学校はこちらの方が近く、溜飲が下がった。

今思えば、そうした「なぜ」が身近に転がっていたのだろう。理不尽ななぜは今でも付きまとう。

カプセルホテルに戻るが、部屋に戻り一人の空間に満足していると、余計な概念を取っ払ってもよい気がしてくる。ここは、「寝る場所」であって、「住居」ではない。そう考えれば、「家」の存在も薄れてくる。どこでも、寝る場所だけなのであって、そうした「個」の意識がなくなってくる。そうすれば、もう少し大きな根源にたどり着きそうな気もする。個が小さくなった「群」にはいったい何があるのか、カプセルホテルならば、それは「一つの建物」ということになろう。それを物質的にも拡大解釈できるし、精神的な方角へベクトルを向けて思考してもおもしろい。


長々と書いてしまったが、カプセルホテルは考えを生む宝庫であると私は考える。


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