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妄想するにも作法があるらしい

おもしろいけど、なんだかめちゃくちゃな展開だな、という感想の本がある。その本のタイトルは「猫たちの色メガネ」。著者は浅生鴨さん。

めちゃくちゃな展開、と書いてしまうのはいささか乱暴だと思われるかも知れない。

ジャンルとしてはショートショートと言えるだろう。短いお話のなかで、ギュギュギュっと変わっていく。猛スピードで走り出したかと思いきや、急ブレーキでストップしたり。ムチウチになりそうなスピードで変化していく。

ジェットコースターのような怖さか、というとそうでもない。ジェットコースターは乗る前からコース設定が見えている。「あそこで急降下するから怖そうだ」「ぐるっと回転するところがやっかいだな」こんな感じで、こわい場面をあらかじめ予想できる。

どちらかといえば「コーヒーカップ」と呼ばれる乗りもののような怖さだ。ゆっくり回転しながら動く、たいして怖さを感じる乗りものじゃあないと思うだろうか。

しかし、もしも「混んでるんで、相席、おねがいしまーす」などとしらない人が乗り込んできたとしたら。え、なに? ちょっと降りてくださいよ、他も空いてるじゃないですかなどと押し問答しているうちに、乗りものはスルッと動き出す。

相席を決め込んだ人物がにやにやしながら中央にあるハンドルをめちゃくちゃに操作してしまったら? 思いもよらない回転速度で動きだすため、拷問さながらの仕打ちを受ける。乗りものが止まったとしても、目がまわり、すぐには動き出せないだろうし、場合によっては酔ってしまい嘔吐する場合もあるだろう。

コーヒーカップという乗りものと、相席した謎の人物に恐怖を抱くに違いない。得体の知れない恐怖。

ずいぶん話がそれてしまったけれど、「猫たちの色メガネ」という短編小説はコーヒーカップ相席バージョンのような、得体の知れない展開をみせる話がほとんどだ。

どんなふうに創作されているんだろう? と不思議な気持ちになっていたのだけれど、浅生鴨さんはご自身の著書でそのアイデアを紹介されていた。

「だから僕は、ググらない」には、アイデアの出しかた、妄想の広げかたが順序立てて記されている。

妄想なんて、自分の頭の中で繰り広げられているものなんだから、適当でいいんじゃないの?

そう、それは間違いじゃない。

だけど、普段の妄想がスコップでペタペタと砂遊びをしている程度だとしたらシャベルを使って身体全体で掘り下げていく。
シャベルでは掘れそうにない岩盤にぶち当たることもある。もちろんそこでやめても良いけど、せっかくだいぶ掘ったのだから岩盤をどけるか、割ることはできないかな? と考えてあれこれ試してみる。

砂場で山を作っていたなら、土をどんどん盛り上げて、果てはピラミッドを築いてみるか、土壌を固めて城でも建ててみるのも楽しいだろう。ピラミッドの内部はどうするか、とかお城には金のシャチホコではなく何を備えようかとか。

こうして書いていると、妄想は自分の知っているものごとがずるずると引っ張り出されてくる。ということは、知らないことは妄想しようがない。妄想する素材が少ないということだろうか。

「だから僕は、ググらない」には、アイデアの出しかた、妄想の広げかた、妄想の作法がていねいに書かれている。頭のかたすみにある、埃まみれで形が崩れそうになっている記憶を引き出し、アイデアのタネにすることもある。ただ、それだけではなく、まず調べたりメモをして心に引っ掛けておくことも大切だと記されている。

いいアイデアが思い浮かばないなあというのは、妄想を広げたり、掘り起こしたり、叩いてこねたり、オーブンで焼いたりしていないからだ。

それでもちょっと物足りないときには「だから僕は、ググらない」を読み返してみることになるだろう。



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