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「『罪と罰』を読まない」を読んで、「罪と罰」をいますぐ読みたい。

罪と罰。

ロシアの文豪、ドストエフスキーによる古典長編作品の名前である。

正直に告白すると、わたしは「罪と罰」を読んだことがない。あらすじすら、知らなかった。

海外の翻訳小説をあまり手に取ることがないのだけれど、それにはいくつか理由がある。そのうちの大きな理由として「登場人物の名前が覚えられない」というものがある。「えーっとこの人誰だっけ?」と、ページの始めあたりにある「登場人物紹介」をなんどもぺらぺらめくって、いちいち確認しながら読まなくっちゃいけないという、なんとも情けない事態におちいり、結局のところストーリーが頭の中に入っていって行かず、挫折してしまう。

また、古典作品だと、(これは大いなる偏見だとは思うのだけれど)大げさなそぶりとか、言い回しなどが馴染めないというのがある。もっとも、これは翻訳されたときの日本の背景とかもあるだろう。新訳として、新たに訳されたのもだと、読みやすくなっているのかもと、ふと思い当たった。

少し話が逸れたけれど、わたしはこれまでに「罪と罰」を読んだことがない。しかし、最近になってなんとなく恥ずかしいことのように思えてきたのだ。

こうして、あれこれ文章を書いたり、小説を書いてみたりしているのに、過去の大作を読んでいないなんて。古典作品からは、学ぶべきことがたくさんあるし、それは日本の古典文学に限ったことではない。食わず嫌い、読まず嫌いをしていないで、もっと色々と読まないとなあと考えていた。

そんなとき、「『罪と罰』を読まない」という一冊の本を知った。すごいタイトルだ。しかも、この本の成り立ちがすごい。

メンバーは小説家の三浦しをんさん、翻訳家の岸本佐知子さん、装丁やグラフィックデザイン、文筆もされるユニット、クラフト・エヴィング商會の吉田篤弘さんと吉田浩美さんの名だたる四人。この四人が「罪と罰」を読んでいないことから、「罪と罰」とはどんな話かを推理しながら、想像していく座談会形式の本である。

この本の存在を知ったとき、ものすごく安心した。現在の日本文芸界をリードしている四名が、「罪と罰」を読んでいないとは。いや、もちろん「罪と罰」を読んでいないだけで、それぞれ突出した分野をお持ちなのだから、読んでいなくても問題ないだろうし、おおやけに公表しなくてもいい。

ただ、それをネタというか、一冊のコンテンツにまとめ上げるほどの妄想力というか、想像力というか、ストーリーの組み立て方がすごく勉強になる。6部に分かれているなら、わたしならいつ主人公に殺人を起こさせるか、とか。これは捨てキャラか? とか。

エピローグと、プロローグを一ページずつ、岸本さんが翻訳し、各部ずつ指定したページを、立会人(本の編集者さん)に朗読してもらい、少しずつヒントを得る。そのヒントから「え? 2部はこんな話では?」といった推理を広げていく会話でこの本は成り立っている。読まずに読書会を開催する、というのである。

最後には、四人とも「罪と罰」を読んで、その後に「あの推理はだいたい当たりといってよくない?」とか、「推理をはるかに超えてきた」とか、まとめていく。

わたしはこの本を読んでいた間に、ロシアが舞台となる歌舞伎をみたばかりで(正確にいうと、歌舞伎座に向かう電車で読み始めて、帰りの電車と、翌日で読み終えた)

「ああ、ここでもサンクトペテルブルグが出てきた」などロシアの地名が身近にあった。また、「罪と罰」は人形浄瑠璃や、歌舞伎の演目としてかけられるのではないかとか、登場人物の一人が愛之助さんをイメージして読んだ、など謎のリンクがあり、遠いロシアのサンペテに思いを馳せることになった。

この「『罪と罰』を読まない」にも、簡単なあらすじと、登場人物紹介がなされているし、一冊まるまる「罪と罰」について語っているのだから「なんとなく読んだ」気になってしまう。けれども、やっぱりおもしろそうで、「罪と罰」を読みたい気持ちがものすごく湧き上がってきた。罪と罰は一旦置いといて、ドストエフスキーの著作、「カラマーゾフの兄弟」とかも読んでみたいなあと気持ちが傾いている。(意外とさらっと読めた、という四人の方々の後押しもある)

昨年の夏は、日本の古典作品の面白さに目覚めつつ、江戸川乱歩の小説ばっかり読んでいたけれど、今年の夏は、ロシア文学に染まってしまいそうで、ちょっとこわい。


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