バッグの中身は決して悟られてはいけない。
もしもいま、警察にばったりと出くわして職務質問されたらどうしよう……。緊張から、持っているトートバッグをぎゅっと握りしめる。バッグの中には、そう、包丁が入っている。
トートバッグの中を尋ねられでもしたら、取り返しがつかないことになるかもしれない。バッグの中身は、絶対に隠さなければ。
この前の週末のこと。町内会で開催される防災訓練の準備に駆り出された。防災訓練では豚汁の炊き出しを行うことになっている。しかし、その前日に豚肉はすでに茹でておき、大根やら人参やらは切るなど、すべての下処理を済ませておく。正直なところ、これではまったく防災訓練の意味をなしていない。災害時にのんきに豚汁を作ったりはできないだろうし、下処理やらなんやら気を配れる状態ではないだろう。そもそも生の豚肉が流通していないはずだ。
ただ、町内会の防災訓練は「非常時に意識を向ける」ことがメインである。定期的に行うからこそ意義があるとして、当日は消火器の使い方などの実地訓練も行われている。豚汁は参加者へと振る舞うオマケのようなものらしい。
そのオマケの準備に向けて防災訓練前日から駆り出されるのだ。しかし、私は心配なことがひとつあった。
それは、豚汁を作る際に使用する包丁はそれぞれで持参する、ということだった。
心配の方向性は二種類あった。ひとつは、包丁を持っているときに転んだりして、うっかり刺さらないだろうかということ。いくらキッチンペーパーやらタオルやらでぐるぐる巻きにしていても、鋭利な刃物を持ち歩くのだから、うっすらと不安があるのは仕方ないだろう。
そして、もうひとつの心配は「銃刀法違反」で警察に捕まらないだろうか、ということだった。
ずいぶん大げさな心配のように聞こえるかも知れない。ただ、以前に夫と銃刀法違反になるにはどんな事例かと話し合ったことがある。そのために、少し過敏になっているのだろう。
夫は釣りが趣味で、春先から秋口までは川で釣りをすることが多い。川で釣りをするには、いろいろとルールがある。地域によって設定されている日は異なっているのだけれどこの魚は何月何日から何月何日まで釣って良い、という決まりがある。そして、その川を管理している組合の人に釣りの許可証を申請して釣りの権利を発行してもらう必要がある。
夫が釣りに出かける場所は山あいに流れる渓流で、人通りはほとんどない。たまに同じく釣り人に出会う程度だ。そうした人の気配が少ない静かな山あいには、野生動物が住んでいる。できる限り野生動物には会いたくないのだけれど、その中でも一番恐れている野生動物はやはり、クマである。今まで釣りをしていた場所でクマの出没情報がでたから近づけない、というようなセリフを夫の口から何度も聞いてきた。
しかし、クマの出没範囲はどうやら広がっていて、いつ何時クマに出会うかわからないらしい。登山グッズを販売しているお店でクマ除けのアイテムを一緒に選んでほしいと言われたこともある。
クマ除けのアイテムには限界がある。そのため「空手の達人、クマを撃退!」というニュースを見かけるたび、「空手か……」と真剣に考えながらニュースを見ていて、もしや空手を習う気だろうか? とひやひやしていた。しかし、やはりクマを撃退できるほどの腕前になるまでに随分と時間がかかると思い至った夫は「護身用(クマよけ)のナイフとか、大きめのハサミを持ち歩いて釣りをしようか」と言い出したのだ。
そのときに、もし護身用といってもナイフを持ち歩いていたら銃刀法違反になるんじゃないかという話になった。釣りあげた魚をその場でさばいて食べるためにナイフを持ち歩いている、と言えば大丈夫だろうか、とかハサミならば小さいものなら釣りに使う道具でもあるし怪しまれないだろうか、などとあれこれ議論しあった。いくら釣り人の姿をしていても、刃渡り5.5センチ以上の刃物を持ち歩くと罰せられる恐れがある。
利用の目的がはっきりとしている場合(移動料理人の人など)であれば罰せられないとのことだ。夫の利用の目的ははっきりしている、とは思うけれどクマよけのための護身用といって、警察に通用するのだろうか?
夫は銃刀法違反にあたる例を、ネットであれこれ検索していた。また、結局は小さな刃物程度を振り回したところで、クマを逆上させるだけにしか効果は発揮しないだろうという結論になり、護身用ナイフの類は携行しないことに決定したのだった。
話を私の防災訓練に戻そう。
防災訓練の前日におこなう豚汁の準備には、包丁を持参しなければならない。
しかし、私は過去に銃刀法違反で逮捕された例をあれやこれやと夫から聞かされてしまったせいで、たかだか五百メートルほど離れた自治会館へ包丁を持ち歩くという行為に対して心配していたのだ。正当な理由があれば、所持していても罰せられることはない、というもののはたして「正当な理由」とは一体何かと考えると「護身用」は正当な理由にはあてはならない。また、今回の私のように「一時的な調理のために包丁を持ち歩いている」というケース。これも、すぐ近くの自治会館でおこなっていることだし、同じように包丁を持ち寄って調理をする人たちが複数名いるのだから「正当な理由」として認められるかもしれない。けれども、たとえば海辺で、ひとりバーベキューを行ったとする。コンロや炭などはレンタルして、食材とナイフだけを持参した場合。お酒も軽く飲んじゃったりして、気持ちの良い帰り道。帰り道にはナイフしか持っていない。ふらふらと歩いていて、職務質問にあったら、おそらく銃刀法違反にひっかかる可能性もあるのだ。
そんなケースをあれやこれやと聞かされていたため、たかだか厳重にくるんだ包丁を携えながら五百メートル先まで歩くのに心底くたびれてしまった。すれ違う人に怪しまれないように、しかし、バッグがひったくりにあわないようにとしっかり握りしめ、目だけをきょろきょろ動かしてあるくのは、本当に疲れた。
自治会館で行われた豚汁の下ごしらえは、思いのほかサクサクと進んだ。二時間程度で二百食分の豚汁の下ごしらえは完了しただけれど、帰り道を思うとまた厄介だった。
「包丁を持ち歩くのが怖くて、ここまでくるのにひやひやしました」と、一緒に作業している人にこっそり伝えた。すると「ああ、銃刀法違反とかありますもんねえ」と、思いのほか賛同を得られてちょっとびっくりした。しかし、私ばかりが不安になりすぎているわけでもないと感じ、思わずホッとしたのだった。
「お疲れさまでしたー」と、作業にあたった数人は爽やかに自治会館前で挨拶し、それぞれの自宅に帰って行った。そうして、私はまた五百メートルの道のりをひやひやとした気持ちと包丁を抱えながら歩いて帰ったのだった。
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