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さびしさに包まれた週末よ

何をしてもいい、何を食べてもいい。
何もしなくていいし、何も食べなくってもいい。
決めるのは自分で、好きに過ごせばいい。

そんな週末だった。

やりたいこともあったし、やらなくちゃいけないこともたくさんあった。

けれど、なんだか身体もうまく動かないし、頭も働かない。何にもしたくなかった。

本当は無理矢理にでも、お風呂場の掃除をしたりとか、庭の草むしりをしたりとか、野菜をザクザクみじん切りにしてみたり、頭を働かす必要もない、単純な動作の繰り返しをすれば多少は調子が戻るだろうことはわかっている。何もしたくなからといって、何にもしないでいると、余計に無力感やら不安感に苛まれてしまう。掃除をしたり、料理をしたり、やり終えた後に明らかにキレイになっているとか、何かしらの達成感を得られれば、少しは心も満たされる。

けれど、頭でわかっていても、それすらもしたくなかった。

身体を動かせずにいる原因も、いくつかわかっている。生理になって身体がだるいとか、最近どうもうまく眠れていないとか、書きたいと思っている小説も、どうも展開がうまく書ききれず、自分の文章力にがっかりしている。数え上げればきりがない。

多分気持ちだけが焦っているのだろう。

やりたいと思っていることはたくさんあるのに、思いの外、自分の身体がついていかず焦っているのだ。

こうして、愚痴なのか、なんなのかも分からないnoteをつらつらと書いているけれど、noteがあってよかったなと思う。

10年くらい前ならば、こうした寂しさというか閉塞的な気持ちに襲われた時には、たくさん食べ物を身体に詰め込んでいた。そうして、指を突っ込んで吐き出す、いわゆる摂食障害の過食嘔吐と呼ばれることを繰り返していた。

何をしてもうまくいかないとか、ストレスと言えるかどうかも分からない、けれども不安な気持ちを一時的にでも抑えるために、わああっと手当たり次第に食べていた。そうして、苦しくなって吐き出していた。食べ物を吐き出すことで、自分の不安も身体の外に吐き出せればいいのにと何度も思ったけれど、吐き出せば吐き出すほど、罪悪感がこみ上げてきて、結局また不安になるだけだった。

歳をとったせい(おかげ?)か、たくさんの食べ物を詰め込もうとも思わなくなった。けれど、無力感にはどうしても争うことはできない。ふて寝をしても、その包まっている分厚い布団にすら不安に感じられて、安らげない。

猫の姿を見ると、少しは安心するのだけれど、猫は外で鳴いている鳥の声に夢中で、そばに寄ってきてもくれない。けれど、バタバタとせわしなく窓のそばで動き回っている猫の姿を見ていると、ほんの少しだけ心が落ち着いた。

まったく生産性のない週末を過ごしてしまったことへの罪悪感を、適当に細かくちぎって、また今週もどうにかやり過ごそう。

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