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古典はめんどくさい。けれど、なんだか気になる。

「もっと早く、この本を読めれば良かったな」
もっと早くといっても、20年くらい昔の、わたしが中学生とか高校生くらいのころにだ。

ただ、残念ながらこの本が出版されたのは2014年7月とのことで、20年前のわたしが手にとることは、タイムマシンでもない限り、今のところむずかしい。

橋本治さんが書かれた「古典を読んでみましょう」という本を購入したのは、あるイベントだった。

2017年の年末に開催された「ほぼ日の学校」開校プレイベント「ごくごくのむ古典」に参加した際、ロビーで販売されていたこの本を手に取った。

恥ずかしながら、橋本治さんはお名前は知っているものの著作を読んだことはなかった。ほぼ日の学校のイベントに登壇されていて、そのときに「古典なんてめんどくさい」というようなことをおっしゃっていたのが、とても印象的だった。

めんどくさい、めんどくさいといいながらたくさん研究されているし、「古典を読んでみましょう」なんてタイトルの本も出版されている。

なんとなく「おまえのことなんて、何とも思ってないからな!」と言いながらも、好きな女の子にちょっかいを出したり、ときには助けてくれる、ちょっと皮肉屋な男の子みたいなそぶり。

古典はおもしろい、けれどもめんどくさい。橋本治さんのお話から、そんなふうなことを感じた。

この本は購入してから「積ん読」の棚に入ってしまい、なかなか手をのばせなかった。

「古典」とひとくくりにされている日本文学のことは、たくさん読んでいるとは言えない。けれど、好きか嫌いかと聞かれると、どちらかといえば、わたしは好きだと答えられる。

たらればさんがツイッターで「枕草子とは」とか「清少納言は」なんてつぶやきを見るのも好きだ。角田光代さんが新訳されている「源氏物語」も、下巻が発売されたら買い求めて、上、中とあわせて読もうと決めている。

ただ、それでも古典はむずかしい。

読むときには「よしっ、読もう」と向き合わなくちゃいけないような気持ちになる。わからない言葉も多いし、時代背景があんまり分からないまま読んでしまって「どういうこと?」と、ページを飛ばしてしまうこともある。そのくらいの距離感がうまれてしまうのは、良いのかどうか、よく分からない。

けれど、この「古典を読んでみましょう」を読んでみて、ああそうかと、納得した箇所がたくさんあった。

「古典なんてめんどくさい。それは仕方ないし、本音をいうと、そういう気持ちは私にもあります。」と、まえがきに書かれていた。

橋本治さんでもそう思うのなら、つまみぐい程度にしか古典を読んでいないわたしが「むずかしい、めんどくさい、わからない」と思うのは、あたりまえだよなとむしろ開き直ってしまえるほどだった。

なぜ、「古典ってめんどくさい」と思うのか。
それは「慣れてないから」だと、この本には続けて書かれてあった。

「古典」は今のわたしたちがつかっている、書き言葉や話し言葉なんかと全然ちがう。それを理解するのがめんどくさく、またむずかしい。(むずかしいから、めんどくさいとも言える)

この本には「古典ってひとくくりにされているけど、いろーんな種類があるよ」と、さまざまな角度から教えてくれている。

たしかに、「古事記」も古典だし、樋口一葉の「たけくらべ」も古典に位置づけられる。時代の幅が広すぎるのも、めんどくさい一因だろう。時代によって、文章のルールがずいぶんとちがっているからだ。

この本はこれから授業として「古典」に取り組む中学生や、「古典、めんどくせー」になっている高校生が読むと古典に対する意識がちょっと変わるんじゃないだろうか。南総里見八犬伝とか、「え? なに? そんな話なら読んでみようか」と思いそうだ。(わたしはがぜん、読みたくなった)

2019年のセンター試験に出題された「玉水物語」が、ちょっと世間をざわつかせていたのも、記憶にあたらしい。古典作品には「えっ、そんな設定あり?」と思わせる内容のはなしが結構ある。古典は意外と、なんでもアリで、小難しい話から、ラノベ的展開の話までたくさんある。

むずかしくないか、と問われるとむずかしい。
めんどくさいよね、と言われると、たしかにめんどくさいだろう。

けれど、とっかかりになる作品がひとつでもあれば、ちょっとは好きになれると思う。ちょっとは好きだという人は、もっと身近に感じられるかもしれない。「古典を読んでみましょう」という本のなかには、そのとっかかりになりそうなエッセンスがたくさん散りばめられていた。

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