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「子どもを○○に育てる」ことへの違和感〜習い事の悩みを添えて〜

子どもを「医者」に育てる。
子どもを「アスリート」に育てる。
「大谷翔平」や「藤井聡太」に育てる。
こうした極端な例でなくとも、
「読書好き」とか「運動好き」とか、「優しい子」とかも含めて、子どもの教育に何らかの方向性を持っている人は多いのではないでしょうか。

しかし、親のエゴ、願い、想い……言い方は種々あれど、なんというか、違和感を拭えなくて困っています。

当然、子どもは自分の教育方針は選べず、事後的に認識するしかない。
そのときに感謝するか恨むか、それすらも教育の影響を受けるとあっては……

教育というのがいかに恐ろしいものかを痛感します。

かくいう僕も、当たり前のように子どもには
「優しく思いやりがあり自他を認め健康でなんなら音楽に造詣があってできればetc……」
無限に「想い」を押しつけています。

この違和感は何なんだ。

とはいえ、まったく方向性のない育児というのも無理な話。
絵本を選ぶ(少なくとも買うか買わないか読むか読まないかを決める)のも、外で遊ぶかどうか、ボールを使うかどうか、何であれ初めのうちは親が選択するしかありません。
まだサッカーを知らない子どもが「サッカーをしたい」と欲することは不可能なので。

知らない世界を見せ、選択肢を増やしていくことは大事だと思いますが、どこを見せてどこを見せないかも、なあ……。

この違和感から派生して、最近は習い事のことでも悩んでいます。

子どもが生まれた当初は、習い事は不要だと考えていましたが、この頃は何かやってみてもいいかなーと思っています。

理由は、
・子どもの好きそうなことが見えてきたから
・なんでもいいから新しい世界に入って選択肢を増やすため
です。

うだうだ悩んでいないでやればいいじゃん

という自分もいるのですが、どうにも余計なことを考えてしまう性分です。

ちなみに、習い事に関して、これだけは、と決めていることがひとつあります。
それは

子どもの意志を尊重しすぎないこと

です。

「違和感」との闘争と矛盾するようですが、決して「あれをやれ」「これをやるな」と強制するという意味ではなく、
辞めるときに責任を押しつけない
という意味合いが大きいです。

子どもの意志を尊重した結果、
「あなたがやると決めたのだから」
という言い方をしてしまうことを避けたいのです。
これは、子どもには大変痛い言葉です。逃げ道を塞がれるから。

子どもの意志というのは、大人の意志とはやはり違います。子どもの意志は、社会的、道徳的責任を持ちません。
でも、責任は、社会で生きていく以上、少しずつ伝えていかなければならない概念です。
成長する中で、いずれこの責任と向き合わなければならないときはやってきます。

しかし、そのときまでは。

子どもが本気で逃げたいと思ったとき、その逃げ道を塞いでしまいたくない、と思うのです。
子どもからすれば「親に言われてやってんだ」くらいでちょうどいいのかな、と。


親の責任については、また別の機会に考察してみたいと思います。

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