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ガウディさん、託しましたね?


子どもの頃、自分の“エリア”は「自宅」~「学校」の間、せいぜいクヌギの山までだった。
大人になって、「うさぎ追いし」も「小鮒釣りし」も比較にならないほど広がって……と思っていた。
だけど、それとは比較にならない広い「命のエリア」を自分で用意した人がいた。
アントニ・ガウディ。スペインの建築家で、彼が建設初期に受け継いでほぼ独力で造っていた「サグラダファミリア」は死後も延々と造られ続けてきた。
命あるすべてのものを祝福する意匠をガウディが丁寧にちりばめたために、大規模かつ複雑化した構造の教会は完成まで300年はかかると言われていた。さすがに機械化される部分も増えて、ガウディ没後100年の2026年には完成するらしい。
「なぜガウディは自分でも完成を見ることのできないものを造ろうと思ったのか?」
こう考えた。
「ガウディは『託す』という選択をしたのだ」
自分の死後も誰かが後を継ぐ。継ぎたくなるものを残す。予測300年、ということは建築する人たちだって自分自身も完成までのリレーの一員になることを分かって造ることになる。
少しずつ出来上がっていく巨大な教会をバルセロナの祖父母、父母、孫、その後も代々、見上げ続けることになる。バルセロナへ観光に来る人たちもだ。
そこまで想像してガウディは「永遠に完成しないサグラダファミリア」を皆に託した。
石工さんも、街の人たちも、写真家も、皆が完成までのプロセスに関わるのだ。数万人、数十万人が一つのプロセスにそれぞれの仕方で関わる。そしていつしか、「自分」が「このサグラダファミリア」を「自分の子孫や後輩たち」に託している気持ちになっている。自分は見ることはできない完成を見届けてくれよ、と。
つまり、ガウディ自身の願いが数十万人に、その子孫に、受け継がれていく。

完全に想像だ。けれど、あながちガウディは否定しない気がする。
なぜなら、これこそ、命というものの願いだから。
「自分」は稼いで有名になりたいと考えていても、「命」は稼ぐことや有名になることを願っていない。ずっと続くことを願っている。亡くなっても「ずっと(記憶の中でも)会いたい」のが命だ。だからずっと思っていてあげるのが最高の供養だ。
命のエリアが時空を超えて300年後にまで及ぶ。これほど贅沢なことがあるだろうか。ガウディは命の使い方を熟知した建築家だ。
ガウディにも天から授かった「寿命」というものはあった。けれど、それ以降の命のエリアを「願い」という自分の意志で後世にまで拡大した。
多くの人が誰かに何かを託すことができる。農林水産業の人たちは必ずそういう目を持って仕事をしている。だから土や山や川や海を大事に使う。
会社員だって、部下に託すことはある。親も子に託すものはあるだろう。顔も知らぬ読者に託す、いずれ卒業していく生徒たちに託す、健康を取り戻してくれた患者さんに託す……そういうことが人はできるのだ。
少しでも託す意識が持てれば、相手の未来も、世の中の姿も、自分のあり方も、まったく違うものがイメージできるような気がする。
逆に、私は何を託されているのか? と考えることは、きっと自分の壁を突破していく大きな力になり得る。

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