言葉は誰に向けられているのか?
駐車場管理のおじさんが二人、話をしていた。
おじさんA「こんなデカい外車をなんで入れちゃうんだよ! 断っちまえよ! 他の車が迷惑だし、何かあったらオレらが文句言われるんだぞ!」
おじさんB「いやー、断るのは……」
おじさんA「言う通りにしてくれよ!」
おじさんB「………」
二人の横を通過しながら、その内容よりも、似たような会話を自分もやっているなと気づいて、頭から離れなくなった。
この場面で明らかになるほんとうの問題は、大型車と普通の車を別々に駐車する仕組みがこのパーキングにはなかったということ。もしくは、大型車を断ってもいいルールにはなっていなかったこと。
Aさんにしてみれば、Bさんの対応次第で危機回避できたのにそれを怠ったことが問題発生の種になるのではないか、ひいては自分たちが多数の普通車のドライバーから責められてしまうのではないか、と心配している。
だけど、Bさんが職務規定に違反したわけではないし、むしろ規定通りに仕事をしただけで、心配するようなトラブルはこの先も起こらないかもしれない。
こういう場面は、どこにでもある。そして、必ずこんなふうにどちらも悪くはないのに、考え方の違いから問題のなかった二人の間に問題が発生してしまう。そういうことを自分自身もやってしまっている気がする。時にはAさんのように、時にはBさんのように。
気になったのは、もしこの先、同じような状況が発生したとき、Bさんはどんな対応をするのだろう? ということ。
Aさんが何も言わなかったら、Bさんは今後も大型車を駐車場に入れていただろう。だけど、Bさんはこれから自分の対応についてきっと考え込んでしまう。
ルールは今までと同じだから、それに合わせるとAさんに確実に怒られる。でも、Aさんの言う通りにすると、大型車の運転手が困ってしまうばかりか、「そんな決まりはないだろ!」と反論されて会社に伝わってしまえば始末書だけでは済まなくなってしまうかもしれない。
もし、Aさんが少し違う考えを持った人ならば、「大型車を制限する仕組みを会社に言ってつくってもらわないと、会社自体がトラブルに巻き込まれる可能性があるよね」とか「大型車専用の駐車場を別につくるとか、そこには一般車も止めてもいいけれど自己責任で駐車するという決まりにしたらどうだろう?」と言えたかもしれない。そうすれば、Bさんはまったく違う気持ちを持てたはずだ。言葉一つで相手の精神状態は大きく変わる。
自分の口から出るから、自分の手が書くから、自分の頭で考えるから、だから言葉は自分のためにある、というのは誤りで、自分から出て「外へ向かう」ということは、その目的は他者のためだ。
他者のためなのだけれど、その先がある。
言葉は他者へ届いた後、自分へ戻ってくる。他者のためであり、自分に対する突き付け。他者に突き付けて自分のためにあるのではない。
攻撃的な言葉を発すると、気分がすっきりしたり、自分が正しいかのような印象を相手に与えて満足することもあるけれど、相手の気分を害した言葉が自分に戻って心地よくなるなどというのは、何かがいびつだ。感知するアンテナに問題がある。
騙すために発せられた言葉は、それによって利益や名声を得たとしても、必ず自分に戻ってきて自分を騙す。「そのようにやっていると心地よいから続けてみようよ」と。それ、意外と他人には見えている。
どんな自分でありたいか、ということと、どんな言葉を使っているか、ということは相関的なのかもしれない。
だとすれば、言葉遣いを変えれば、ありたい自分像も変わっていくのかもしれない。
あの頃、毎朝、スタッフにさまざまな話をする立場にあって、何が効果的で何が必要なのかと考え続けていたなかで耳にした駐車場の会話だった。
自分への矛先を感じられない自分の言葉など偽物だと知らされることになった。
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