「辛い」を乗り越えた先生こそ“良い教育”ができる理由
こんにちは。まどりです。
限りある時間、我が投稿をタップしてくださり、ありがとうございます。
あなたの寿命を無駄に奪うことはしたくないと、今日も一生懸命キーボードを叩いています。
わたしは、病休中の20代教員。
うつと診断されるまでの胸中を赤裸々に綴った日記の中身を少しずつ投稿しています。
題名にある内容は、《あとがき》から始まります。
ので、題名に興味をもっていただいた方は飛ばして読んでいただいて構いません。
まえがき
今朝は、カルシファーを名乗りたくなるほど美味しそうにベーコン
エッグが焼けました🔥
病休に入る前は、こんな優雅な朝を迎えることも、
窓を開けてゆっくり伸びをして深呼吸をすることもままなりませんでした。
深呼吸どころかもはや普通の呼吸もままならなかった(笑)
学校に行ったら、
これをやって
あれをやって
優先順位はこうで、ああで、
あの子にはなんて声をかけよう
どのタイミング?昼休み?放課後?
などいっつも仕事のことで頭がいっぱい。
現実からどう逃げるかを考え、そして考え、また考え、さらに考える工程が必要となるため、数10分トイレで考える人にならないと出勤できませんでした。
そして、考えに考えた結果、家を出る時間が近づいてきて気づくのです。
ニゲラレナイ。
考える人タイムで朝食の時間も削られ、
病休前のわたしの朝食シーンと言ったらもう無双している時のカオナシ状態。
病休に入る2ヶ月前あたりからは、食欲もなくなり、食べないことも多かったです。
とはいえ、今のこの生活にも「病休から戻った時、どのように生きていこう。」という不安が常に頭の中にあります。
わたしも、ゼニーバに拾ってもらって、優雅にティーを飲みたいな。
今日の日記は、わたしの三日坊主モードが発動し、前回の日記から5日ほど経っています。
では、以下、日記の引用です。
2023.8.28(月)
笑。本当に3日坊主だ。笑
努力が続かないというのは真実だな。確証を得た。
24日は、部活。
25日は、午後おやすみをとって同僚と焼肉。
部員の成長を言葉にして伝えてくれてうれしかった。
私に自信をつけさせるために言ってくれてるのかもしれないけれど。
26,27日で母の還暦祝い。
私の家族が、夫に好感をもってくれているようでうれしかった。
そして今日はまた部活。
だけど、○×先生(副顧問)にお願いした。
どうせ部活に力を入れても私にはできない。
そう思ったら、全部どうでもよくなってしまった。
「ほどほど」を見つけないと。
おべんちゃらも言えないつまらない先生だと自覚してますます自分が嫌になった。
帰ってきて、夫と微妙な雰囲気になった。
夫の友達との電話が原因で。
会話は特になく、ただ一緒にバスケの試合をみているだけの電話。
私は、母の還暦祝いから帰ってきて話せるのも久しぶりだから、夫と2人で話したい。でも、それをうまく伝えられなかった。夫の友達をむげにもできなくて中途半端に電話に付き合ってしまった。
夫も胸の中では、同じことを考えていたみたい。けれど、私の中途半端な対応に苛ついたらしかった。
結局、途中で電話を抜けて2人で話したけれど、会話も雰囲気も最悪な状態で終わった。
反省。
《あとがき》
今日の日記は、あまりうつとは関係のないプライベートな内容も書いてありました。
正直、この部分を投稿するかとても悩みました。
わたしのプライベートなど誰も興味がないからです。
それでも、載せた理由は、
というなんとも当たり前なことを伝えたかったからです。
学生時代、わたしは先生のプライベートにとても興味がありました。
この先生、休日ピクルス漬けてそう。
この先生、登山するときにもとんがり靴履いてきそう。
この先生、奥さんに常にマウントとってそう。
など、独断と偏見にまみれたとても意地の悪い妄想を繰り広げては、
心の中で笑う薄汚れた人間でした。
と、そんな妄想を幾度となく繰り広げているわたしでも、
中学時代に理科の先生が結婚報告をされたとき、
「へー!恋してる顔してるなー、幸せそうだなあ。この先生、こんな表情するんだ!」
と大層驚いたことを覚えています。
先生には、わたしたちの知らない顔がある。
そうわかってはいても、いざそれを垣間見ると、
もっと知りたいような、知りたくないような、
のぞきたいような、のぞきたくないような、
そんな不思議な感覚がしました。
そして、自分が教員となった今は、
そりゃあもう、教員もプライベート色々あって当然よぉ。
だって、
と思います。
これは、教員だけに関わらず、
生きとし生けるもの全て、
生きてりゃなにか起きるものですよね。
当たり前だけど、
失恋した日に6時間授業が入っていることも、
朝お子さんとケンカして世紀末みたいなメンタルで出勤することも、
障害のあるお子さんがいて、生徒だけでなく我が子の教育に悩むことも、
旦那の不倫の事実を知った翌日が運動会であることも、
旦那が重度のうつで休職していて、それを精神的に支えながら仕事をすることも、
介護と介護の勉強と教職を両立させながら生活することも、
重病を患って、臓器の欠けた状態で教壇に立つことも、
あるのです。
そして、上記のような先生たちと出会ってわたしは気づいたことがあります。
苦しい経験、辛い経験と向き合って乗り越えた、または、乗り越えようと懸命に戦っている先生ほど、素晴らしい学びを生徒に与えられるもの
だと。
その理由、
一つ、
辛い経験と向き合った人は、共感力がバチボコ高い。
前述の通り、生きてりゃなにか起きるもの。
それは生徒も同じ。
生徒ができないことや悩みごとを教員に打ち明けたときに、
「わたしも若い時はこのくらいのこと普通にあったよ。だから大丈夫。」
的なことを言う人がいますが、もーーーーーーすこぶる
ナンセンス😮💨
その人に起きる「なにか」の大小や優劣の規準はこの世にはありません。
わたしは平気だったとか、
わたしの方がつらいとか、苦労しているとか、
そういうんじゃなくて、本人が辛いならそれはもう大変な「ナニカ」なのです。
「辛い」という心の痛みを知っている人は、人の痛みもわかる人が多いと感じます。
心や大切なものは目に見えないらしいので、そこに気づいて手を差し伸べられる人は本当に希少です。
二つ、
辛いときにかけてほしい言葉がわかる。
「頑張れ!」
「無理しないで!」
「休もう!」
人を傷つける言葉がある分だけ、
人を励ます言葉もこの世にはたくさんあります。
だがしかし…
厄介なのは、励まそうとかけた言葉が人を傷つけてしまうパターン。
理由の一つめと通じる部分がありますが、
「辛い」という感情はとてもデリケートで、中二の女子くらい気まぐれなもの。
掛ける言葉によって、
火に水を掛けるか、油を掛けるかくらいの大きな違いがあります。
ここでも、辛い経験と向き合った人は、今求められているものを考える力、与える力があると思います。
そっとしておくのがいいのか、ただそばにいるだけでいいのか、
言葉で寄り添ってあげた方がいいのか、自分じゃない誰かを召喚させた方がいいのか、
などさまざまな視点に立って考えて、適切なアプローチを導き出す方が多いと感じます。
三つ、
生徒との心理的距離が近い。
共感力が高くて、生徒が求めている言葉をかけられて、なんてもうそりゃ、
人との関わりを求めている生徒からしたら、もうそりゃもう、もう、そりゃ、もうですよ。
心理的な距離が近づくのは当たり前な話ですよね。
生徒は、毎日いろいろな先生と関わります。
その中でどのような先生に魅力を感じるかと言ったら、
「自分に近い先生」だと思います。
ここでの「近い」は、
担任をもってるとか
顧問をもってるとかいう
物理的な近さではもちろんありません。
「心理的な近さ」です。
「教科書の何ページを開いてください。」
で始まる授業の内容はとうの昔に忘れてしまいましたが、
「やー、今日奥さんが寝ながらオナラしたんです。わたし意外とそういうの無理なタイプなんですよ。」
で始まった英語の授業の内容はいまだに覚えています。
なぜこの例だした?って感じですが(笑)
わたしは、この嫁の寝っ屁を許せない先生がだいすきでした。
その先生は、不妊治療の末に授かったお子さんを流産で失った経験のある方でした。
だからその先生に同情して好きだった、というわけではもちろんなく、
そういう経験をしても、嫁の寝っ屁に憤って笑っている先生に「人間的魅力」を感じていたのだと思います。
わたし達大人もそうですが、
なにかを学ぼうとするとき、「誰が言っているか」はとても大切な要素だと思います。
「遠くの親戚より近くの他人」ということわざがありますが、
これは物理的な距離だけでなく、心理的な距離でも同じことが言える気がします。
「遠くの教員より近くの先生」ってな感じです。
心理的距離の近い教員の方が、敬意を込めて「先生」と慕い、学びを乞いたくなるのです。
そしてしだいに、「○○先生もこう言っていたし、こうするだろうから♪」と、
誰も不快な思いをすることなく、むしろハッピーに、自然に、
その子がより良い道を選択するようになったら、
これぞ、
まさに、
“良い教育“
と言えるのではないでしょうか。
「○○しなさい!」
「○○しなければ、○○させません!」
「こういう時には、どうすればいいんだっけ???????????こういうことしていいんだっけ??????????(反語)」
という従来の厚かましい、やかましい、綺麗にやる気だけを削いでいく教育の終焉です。
もちろんこの世には、「辛いとか感じたことないけどなあ。」というハッピーマインドをお持ちで、かつ、生徒との接し方もわきまえている素敵な先生もいらっしゃいます。
あくまで、わたしが感じた傾向のお話ですので、悪しからず。
まあ、なにが言いたいかというと、教員も月9の題材にどうかと思うほど、多彩なプライベートエピソードがあるということです。
そんな裏の顔?を持ちながらも、毎日何気ない顔で子どもと対峙している先生たち…めちゃくちゃかっこいいっす…!(泣)と今日も病休中のわたしは空を見上げ、思うのでした。
《あとがきのあとがき》
※ものすごく暇だという方だけ読んでください。
おっと。
「まどりみつを」というこのややかなり盛大にスベっているネーミングについて触れずにこの投稿を終わらせるわけにはいかない。
『にんげんだもの』は、相田みつをさんの作品。
ということで、相田の部分を自分の名前「まどり」にしてみたら、
まど・みちおさんを彷彿とさせるネーミングになってしまったことをここに詫びたい。
『「まどりみつを」って10回言ってみて』
「まどりみつを、まどりみつを、まどりみつを……。」
「じゃあ、『にんげんだもの』を書いたのは?」
「まど・みちお!」
「ブッブー!相田みつをでした〜」
またくだらない遊びを生み出してしまった。
では、また。
まどり
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