短編小説 陽炎(完結)
何も持たず、靴も履かずにわたしは歩き続けた。素足のままでひたすら歩き続けた痛みだけが、わたしが生きていることの証明だと思った。こうして波打ち際に立って目を閉じれば、あの日の思い出が鮮明に蘇る。幼い頃、母と二人でこの浜辺から見た、遠い街で打ち上げられる花火を――。
――見てみいほら。花火めっちゃ綺麗やろ? 遠くからでもちゃんと見えんねん。
膝のあたりまで海につかると、夜の海の冷たさに、わたしの体にまだ体温があったことを思い出させてくれた。
――なあお母さん。花火って何のためにしてるん?
浜辺を振り返ると、あの日のわたしと母がいた。遠くの空を指さし、恐怖や孤独なんか微塵も感じさせない笑顔で空を見上げている。
――そらあもうみんなを祝福するためやないの。たくさんの人のしあわせを祝福するために盛大にやってんのや。
肩まで海に入れば、わたしから重さが消えた。わたしにはしっかりと体があったのだ。ゆらゆらと陽炎のように歪んでなんかいなかった。いつだってしっかりとそこにわたしは存在していたのだ。
――そやったら、わたしとお母さんは何を祝福してもらってるん?
涙が溢れてくれば、生きているのだと感じることができた、どれだけ自分を咎めても、どれだけ自分を否定し続けても、まだこんなにも愛に涙することができる。
――それはな、あんたがここにいることや。あんたが生まれてきてくれて、こうしてわたしの隣に元気でおってくれることを祝福してくれてるねん。
わたしの名前を呼ぶ声が聞こえる。何度も。何度も。
――ほんなら。花火にちゃんとお礼言わなあかんねお母さん。
「ありがとう」
わたしはそう小さく声に出してから、深く冷たい暗闇の中へわたしのすべてを晒した。
暗闇と静寂が、隙間なくわたしを包み込んで、冷たい波に揺られながら、わたしがわたしであることを認めてくれる。
微かに鼓動が聞こえる。わたしの鼓動と、わたしの内臓を揺らす小さな鼓動。この子も暗闇の中でわたしとおなじ音を聞いているのだろうか。
まただ、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえる。何度も繰り返しわたしを呼び続けている。
そして突然、わたしの体は暗闇から連れ出された。
「なにやってるん! 何考えてんのよ!」
「……史穂ちゃん?」
「なんでなん! なんでこんなこと……。ごめんってなんなん! あんたは何も悪ない!」
わたしは史穂に会いたかったのだ。会って、お互いの体温を感じていたかった。いつも隣に史穂がいることで、わたしはわたしであることが許される。そんな衝動的で単純なことが、わたしには怖くてできなかった。
「史穂ちゃん……。ごめん。ごめんなさい」
「ちがう。ちがうねん。なんも悪くない……。悪いことなんてなんもない」
揺れる波がわたしたちにぶつかって砕けていく。
わたしたちは、しっかりとここにいるのだ。
「史穂ちゃんようここがわかったね」
「だって、あんたと一昨年ここで花火見た時言ってたやん。ここはわたしの大切な場所やって」
「そっか」
あの日母と二人で話した場所に座って、史穂がそっとわたしのお腹へ手を添えてくれた。
「もうゆうてる間やね……」
「うん」
「からだ、しんどない?」
「うん」
「なんか飲む? 買ってくるで」
「いらん。ここにおって」
「だいじょうぶ。おるよ」
「なあ史穂ちゃん」
「ん?」
「わたしな……」
そこまで声に出すと、涙が溢れて止まらなくなった。心を偽って、体までも偽って、わたしをくしゃりと潰していたのはわたし自身だった。すべてから目を逸らそうと必死になって、咎めることでその痛みを和らげようとした。そしてわたしは中身を捨て去った。
「わたしな……。もう空っぽはいやや。わたしはわたしで、ちゃんとここにおるのに、わたしが一番それを許されへんかった……。信じてもらわれへんかもしらんけど、死にたいとか、そんなんやなくて。わたしな、わたしなんにも空っぽになって、ほんで、そしたら、体もあるかどうかわからんくなって、生きてるんか死んでるんかもあやふやになって、わたしがなんなのかわからんくなった。空っぽをなんとかしたくて、お酒たくさん飲んで、し、しらん男と寝て、そしたら……。そしたら……。でも、でも……、わたしはずっと空っぽのまんまやった」
「ちがう! あんたは最初っから空っぽなんとちがう」
史穂がわたしを強く抱きしめてくれた。わたしの体はくしゃりと音を立てることもなく、しっかりと史穂の腕に抱きしめられることができた。
「わたし、わたしな、この子を祝福してあげたい……。わたしのお腹にいて、これから生まれてくることを、祝福してあげたい。幸せにしてあげたい。この子だけやない。史穂ちゃんも、お母さんも……みんな。やから、もう、わたしは自分を捨てたりなんかしやん」
――それはな、あんたがここにいることや。あんたが生まれてきてくれて、こうしてわたしの隣に元気でおってくれることを祝福してくれてるねん。
「うん……。うん。祝福しよ。生まれてきてくれてありがとうって。ちゃんと言おう。やから、もう空っぽなんて言わんといて。あんたはそんなんじゃない。それでも、それでも空っぽやって思うんやったら。わたしがそれを全部埋めたるから、ずっと一緒におってずっと埋めたるから。もう、ごめんなんか言わんといて。お願いやから……。一緒におってや」
わたしの名前を呼ぶ声が聞こえる。何度も。何度も。
それは母の声だった。わたしが生まれるまだ少し前。とても深い場所にある記憶なのだと思う。あたたかい母の体温に包まれて。真っ暗で何も見えなかったけれど、少しも怖いとは感じなかった。何度も名前を呼ばれるたびに、わたしは早く会いたいと思った。
母がそう言ってくれたから。
「なあ、来週またあそこで花火大会するねんて。一緒に見にこようや」
「うん。見よ。なあ史穂ちゃん」
「どうしたん?」
「お母さんも、一緒に誘ってもええ?」
「ええなあ。そうしよや、そうしよ」
「お母さん。ここから見る花火大好きやから」
――わたしのところにきてくれてありがとう。今すぐにでも早く会いたい。
そう言ってくれたから。
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