時間の感覚はなかった。入院が決まってからどれくらい時間が経ったのか、今が一体何時なのか。間隔の狭まる激しい陣痛に顔を歪めながら、その瞬間が訪れるのを必死に耐え続けていた。 そして気が付けば、わたしは分娩室の天井を見上げていた。激しい痛みと、自分のものではないような声が喉の奥を破るように吐き出される。今にもちぎれそうな意識の中で「がんばって!」、と輪郭のない助産師の声が聞こえてくる。手すりを握る手はすでに限界をこえていた。けれどもう、そこに恐怖や不安はなかった。早く声が聞き
いつだったか、わたしは母の夢を見たことがある。 ちょうどわたしの妊娠が分かった頃だったと思う。表向きは子供を授かったことに喜んでみせてはいたけれど、内側には不安と恐怖が入り混じった塊がごろりと重石のように心を抑えつけていた。 その日の夜もなかなか寝つくことができずに、布団にもぐったままただ真夜中の静寂に潜む時間の流れに耳を澄ましていた。ぼんやりとした意識の中、突然目の前に光が射したように一面真っ白に覆われた。「眩しい」。そう感じた瞬間、今度は暗闇に包まれた。動くものすら
「妊娠しないほうがいい」 母を昔から知っている主治医の先生は、はっきりとそう言い放った。 「可能性は?」 「低いです。それもかなり。それは母子ともに無事に生まれる可能性のはなしです。あくまで医者として言いますが、妊娠して出産することはおすすめしない。子供やあなただけでなく、その両方の命が失われる可能性だって高い」 父はそれを聞いた時即座に母を見て、やっぱりやめようと声を掛けようとした。けれど、その時の母の視線は微塵も揺らぐこともなく、先生をまっすぐ見据えたまま父よりも早く
つるんとでもなく、すとんとでもなく。それは想像していたよりも遥かに難渋した。 厳密には、わたしがそうさせてしまったのだから。 母の胎内から出ることに力足らずも抵抗し、もがき拒んだからだ。さぞかしわがままな子なのだろうと思ったにちがいない。それでも、わずかに残された母の命の終わりを知っていたわたしは、そのぬくもりを手離してまで生きてゆくことに、ただ朽ち果てていくだけの無意味さを覚えた。 それならばせめてこのまま、母の中で眠るように寄り添っていたい。そう願う方が唯一の幸なの
「何かプランはあるのか?」 「施設の図面は手に入れました。施設内であれば内部からわたしがあなたを何とか手助けすることはできます。問題はあなたがどうやって施設内へ侵入するかです」 「そうだな。見る限り不可能に近い。まるで軍事施設のような警備体制だからな」 彼女は小さく頷いたが、その目の力強さは変わらなかった。 「施設には入口が二つあります」 「二つ? それは知らなかった。壁に囲まれて入口と分かる箇所は一つしか見あたらなかったな」 「一つはあなた方家族が面会に来られる正面入り口
「なあ、あんた。あの施設でいったい何が行われているんだ?」 「それはわたしにもわかりません。施設は警備や職員の仕事などそれぞれが完全に分断されていて、同じ施設内でもお互いが干渉することはいっさいありません。ただ……」 今まで淡々と話していた彼女がはじめて視線を落とし言葉を濁した。それからすぐに顔を上げ、誰かに監視でもされているのだろうか、執拗にあたりを見まわした後再びまっすぐわたしに視線を向けた。 「ただ、一度だけ。施設に収容されている子供たちを見たことがあります」 彼女
わたしは落ち着くためにすっかり冷めきったコーヒーをゆっくり喉に通し、彼女を見た。 彼女の左目はじっとわたしの目を捉え、わたしが何か言うのを待っているようだった。 「あんたも子供を奪われたのか……?」 「いえ」 「じゃあなんであそこでおれを見たんだ?」 「わたしはあの施設で警備を担当しています」 わたしは思わず立ち上がっていた。握った両手に力が入る。店内にいる数名の客の視線を浴びているのが分かる。 「どうか座ってください。今から話すことは極秘です。関係者にばれてしまえばわ
『児童保護教育特設法』 何年か前に国が新たに打ち出した法律。ただでさえ少子化の進む国内において、その多数が年々増え続ける少年犯罪や虐待などにより国の意向と逆行するように進んでいる中、その根源を「可能性」の段階で絶ってしまおうというものだった。しかしそれは、児童保護とは名ばかりの、まったくもって冷徹で非情たるものだった。 結婚して数年。不妊に悩みそれでもやっと授かった息子だった。 その息子の五歳の誕生日。奴らは突然やってきた。 インターホンが鳴り玄関を開けると、そこに
目に映る平穏な日常が、必ずしも自分を含めたものであるはずがない。 公園で無邪気に遊ぶどこかの誰かの子供を眺めていると、まるで巨大なスクリーンで映画のワンシーンでも見ているような感覚になった。背筋を伸ばしベンチにもたれかかると、腰のあたりにごつりと硬質で重厚なものが確かにそこにあった。中には銃弾が十発。それが余計に目の前の情景と、自分との間に空間を隔てるものを作り上げているのかもしれない。 彼女に会ったのは二週間前。妻を失ってから、一カ月後のことだった。もし、彼女に会うの
何も持たず、靴も履かずにわたしは歩き続けた。素足のままでひたすら歩き続けた痛みだけが、わたしが生きていることの証明だと思った。こうして波打ち際に立って目を閉じれば、あの日の思い出が鮮明に蘇る。幼い頃、母と二人でこの浜辺から見た、遠い街で打ち上げられる花火を――。 ――見てみいほら。花火めっちゃ綺麗やろ? 遠くからでもちゃんと見えんねん。 膝のあたりまで海につかると、夜の海の冷たさに、わたしの体にまだ体温があったことを思い出させてくれた。 ――なあお母さん。花火
妊娠が分かった時、久ぶりに史穂へ電話をかけた。ずっと拒み続けてきたくせになんて都合がいいのだろうと自分自身を何度も咎めたけれど、もうすでにその頃には心身ともに憔悴しきってしまい、ほとんど無意識だった。しばらく聞いていなかった史穂の声は穏やかで、電話越しであっても、わたしの体に開いた穴の淵をそっと撫でるように触れてくれた。空っぽのわたしが潰れてしまわないようにやさしく包んでくれた。わたしを咎めることも、悲観することもせず、わたしの体に史穂のぬくもりを滲ませた。 「久しぶりやね
暗闇の中でわたしの体を粗雑に這う骨ばった薄い手と、汗の匂いに混じって鼻につく甘ったるいフレグランスの香り。生温かい吐息と共にねじ込められたきついジントニックの味がする舌。 もしお腹の子が生まれて父親について訊かれた時、わたしの記憶にあるのはたったこれっぽっちの薄弱としたものでしかない。運命的な出会いでもなければ、月日を重ねて育んだものすら何ひとつない。ただ、酒に酔ってその場に居合わせた顔も思い出せないような男がこの子の父親なのだ。男の名前? そんなもの知らない。わたしに似