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腹で考えている気がする――尼ケ崎彬『ことばと身体』を読んで

理解する、考える。

これは頭あるいは脳の仕事だと思っていました。

ですが最近、私は自分の身体で物事を考えていて、
頭ででてくる言葉や論理はそれを後付けているだけなのではないか、
と思うようになりました。

そのきっかけの一つとなったのが、尼ケ崎彬という美学者が1990年に書いた『ことばと身体』(勁草書房)という本です。


尼ケ崎はこの本で、私たちの思考回路には二つの種類があるといいます。

①論理的思考と②レトリックの回路です。


論理的思考では物事は論理的な定義で決まります。
ここで問題になるのは常に「真偽」です。

一方レトリックの回路では、ものごとは「~らしさ」という全体イメージとしてふんわりと理解されます。
ここで問題となるのは「納得」です。


たとえば、「あいつは狼だ」という言葉で考えてみましょう(*1)。

「あいつ」はおそらく誰か特定の人間のことですから、論理的思考でいえば人間≠狼なので「偽」となります。

しかしレトリックの回路であれば、「狼」は「あいつ」のメタファーとして「納得」し得ます。

ここで納得するかどうかを決めるのは、あなたにとって「狼らしさ」と「あいつらしさ」が一致するかどうかです。

例えばもしあなたが狼に「凶暴さ」や「貪欲さ」のイメージを持っているのだとしたら、「あいつ」は「凶暴かどうか」「貪欲かどうか」で「納得」の判断が下されます。

重要なのは、「凶暴さ」「貪欲さ」という「狼らしさ」は、「狼」の側にラベルのようについているものではない、ということです。

尼ケ崎によれば、「狼らしさ」とは「狼」に対するような心身の構えであり、実際に見たり襲われたりしたか、「狼男」などの文化的な使われ方を通しての、身体的な経験の蓄積が基盤となって全体的なイメージとして納得されます。

だからこそ、例えばもしあなたが狼写真家で、狼に「孤高さ」「美しさ」のイメージを持っているのだとしたら、「あいつは狼だ」という言葉の意味は先ほどとは全く違うものとなります。

「~らしさ」とその納得感を決めるのは、「~」の側の特徴ではなく、(その特徴ゆえの)あなたの心身経験、すなわち身体なのです。


もちろん、論理的思考とレトリックの回路は完全に分かれたものでも相容れないものではなく、私たちはその両方を必要とし混ぜ合わせながら思考していると考えられます。

ただし事実として、現代社会では(そして特に学問世界では)論理的な方が良いとされ、身体の直観からくるようなレトリックの回路による思考は「科学的でない」とか「うさんくさい」などと劣位におかれてきたのではないでしょうか。


しかし尼ケ崎は言います。私たちが何かを「わかった」と感じたときは、論理的にではなくて、納得感として「わかった気になる」ということではないか、と。「腑に落ちる」「腹に入る」などと言われるものではないか、と。

●●とは●●のことである、と言われても全くピンとこないけど、~~という具体的なエピソード(すなわち事例として「例え」)や、~~のような哀しみ(すなわち比喩としての「譬え」)で言われると、急に「納得」できるというのは珍しいことではないでしょう。

尼ケ崎が言うように、その納得感の源が身体経験にあるのだとしたら、思考の出発点は論理ではなく身体の方にあることになります。
特に、「腑に落ちる」「腹に入る」といった表現が暗に示しているように、その中心点の一つはお腹のあたりなのではないか、と、それこそ直感的に思うわけです。

私の思考は腹が先、頭が後。
そんな風に、私の身体が納得しています。


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(*1)この「あいつは狼だ」の説明は、原文p.205~206にかけて用いられているこの言葉の例を、本全体の趣旨を組み入れながら加筆整理したものです。

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