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ことばの理解は態度で決まる

私たちは誰かと何かを話すとき、相手のことばを「理解」し、こちらのことばを「理解させ」ながら、コミュニケーションを進めています。

相手の話していることが「理解できない」とき――特にそれが英語などの外国語のとき――多くの場合人は、自分の理解能力不足か、相手の伝達能力不足として、
すなわち言語能力の不足や知識の不足が原因だと考えます。

しかし、ことばを「分かる/分からない」とは、
本当に能力や知識だけの問題なのでしょうか。


マラ・グリーンという文化人類学者がいます。
彼女はネパールの村に暮らす聾者と聴者のコミュニケーションを調査し、
ことばが「分かる/分からない」というのは、能力や知識(のみ)の問題ではなく、態度による倫理の問題だ、と喝破しました(*1)。

同じようなことが、私が調査した「聾の村」として有名なインドネシアのブンカラ村でも見られました。

ブンカラの聾者たちは、身近であるはずの村の聴者住民たちの多くを「手話ができない」と評価することがしばしばあります。
それは、その聴者住民たちが知識としては現地手話の単語や文法を知っていたとしても、それを使ってわざわざ聾者住民とコミュニケーションしようとしないからであり、
彼らにとって、実際にその言語を使わなければ知らない/できないのと同じだからです。

先のグリーンはまた、現地で聾者が"lāṭo"という蔑称で呼ばれることに着目します。lāṭoとは直接的には「理解できない人」を意味し、聾者以外を指すこともあります。

グリーンに言わせれば、聾であるからといってlāṭoであるとは限らず、理解しよう・させようとしない会話相手の聴者側の態度によって、彼らはlāṭo=理解できない人にさせられてしまう、ということです。


さて、ここまで聴者マジョリティ社会に暮らす聾者が直面する、
理解することと理解しようとする態度の関係をお話してきましたが、
聾でなくとも、誰もがこのような経験をしたことがあるのではないでしょうか。

例えば、私が父に「来週のことなんだけど・・・」と相談を持ち掛けます。しかし父はスマホを見るばかり。私が「聞いてる?」と言うと、「聞いてる聞いてる」と答えます。しかし彼は全く「理解」していない、のです。二人とも同じ日本語のネイティブであり、「日本語能力」は申し分ないはずなのに。

逆に、私がインドネシア語を勉強したてのまま現地に行き、道に迷ったとき。
道行く人にカタコトで声をかけ、地図などを指さしながらなんとか行きたい場所を切迫した顔で説明すると、
相手のインドネシア人はそんな私の様子をじっと見てから、「あそこを曲がって・・・」と実際の道を指さしながら、行くべき道を教えてくれます。
このとき、私の語彙も文法も発音もめちゃくちゃのインドネシア語は、
私のことをしっかり見てくれた相手にちゃんと「通じ」、そして全く聞き取れない相手のインドネシア語もまた、私にちゃんと「通じ」るのです。


私たちは、ことばを使ってコミュニケーションをします。

しかし、その「ことば」とは、辞書と文法書のみでできているのではありません。

先に挙げたような目線や体の向き、指さしやジェスチャー、コンテクストなどを含む様々な記号の絡まり、
そしてそれらを駆使しようとする態度によって、
お互いの「理解」が生まれるのです。

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(*1)Green, E.M. 2014. The Nature of Signs: Nepal’s Deaf Society, Local Sign, and the Production of Communicative Sociality. Unpublished Doctoral Dissertation, University of California, Berkeley.

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