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クリエイタが制作会社の経営を10年やってみた、経営者目線の学び

こんにちは、株式会社プロモータルの代表、madflashこと福田です。
6月、弊社は創業から第10期を迎えました。一般的に10年間生存する企業は企業全体の6.3%というデータもあり、この節目に来れたということは頑張ったのかなという気持ちです。

現場叩き上げクリエイタが創業社長の制作会社が10期を迎える、というのも世の中的に珍しいのではないかなと思う次第です。
そこで過去を振り返り、経営者になってよかった点と苦労した点、読んでおけば二の轍を踏まないかもしれないエピソードを書いてみました。
率直な経験を言葉として書いたので、誰かの参考になれば幸いです。

会社を作ったきっかけ

2012年、22歳の時にニコニコ動画の株式会社ドワンゴという企業を約4年間勤めて退職した後、1年間フリーランス期間を経て、当時関心のあった企業、面白法人カヤックを友人の道家さん※のご厚意で紹介して頂ける事になりました。

面白法人カヤックの当時CTOであった貝畑さんと面談する機会を頂き、一通りの面談を終えた後「新規事業を弊社でやらないか」という提案を頂きました。

その時の私は「嬉しい、有難い、興味ある」という気持ちがあると同時に「経験のない事で失敗して迷惑をかける前に自分で失敗したほうが後の経験に活かせるのではないか」と考え、
「2年くらいで潰れるかもしれませんが経験の為に自分で会社をやってみます」と答えて3ヶ月程度をかけて50万円の資本金※で法人登記し、株式会社プロモータルをスタートしました。
カヤックさんにはその後いくつか仕事を頂き、今でも会社やお二方には感謝しています。

このような形でスタートした会社ではありますが、自分なりに起業に至った想いはしっかりとあり、具体的には周りのクリエイティブな、職業クリエイタではない当時学生やフリーランスが多かった友人達に仕事をあげれるようになりたいという想いが強くありました。

※道家さん…友人でありflash界隈における当時カヤックの顔役的存在
※資本金…結局貯金を全部キャッシュフローに突っ込む羽目になるので最初から全部入れておくべきだった、後に増額

ルーキー経営者の現実、理想との乖離

最初はWeb系の制作会社としてスタートした株式会社プロモータル。
初めての社長業とバックオフィスを必死にこなしながら、仕事も死にものぐるいで何とかひとづてに探し、皆にも仕事と報酬を渡せて幸せになりました
──となれば人生もシンプルで楽ですが、現実は違いました。

当時、私は九州男児としての価値観が強いせいか「語るより背中で語る」事に憧れすぎて当時のスタッフに自分の状態も会社の事も伝えていませんでした。「大変な事は全て飲み込んで背負う、決定事項だけを伝える」という、一見スマートだけど理想論でしかない経営スタイルでした。これが致命的にいくつもの問題を生みます。

創業から1年経たない頃、当時のスタッフの一人と亀裂が入ります、会社の売上と報酬が見合ってないという話です。

当時私は経営者として駆け出しで、簡易的な事業計画は作れても会社の仕組みについて自分の口で語れるほどには成熟していませんでした。ただ、経営の数字をキャッシュフロー※で見てる人間としては、可能な限り十分な報酬を払っているつもりでした。当時は売上だけ見せていたので彼らからすると、売上と報酬の乖離が理解できないようでした。

経営者として全く褒められた話ではありませんがスタッフに優先的に給与を払う為、会社に十分なキャッシュフローを確保するため貯金を切り崩しながら自分へ社長としての給与を払わない月も沢山ありました。
そんな身勝手な自己犠牲をしている側として、スタッフには自分より優先して多くの給与支払いをすることもあり、話が出るだけでも心中穏やかでない時も事実ありました。

経営的な話になりますが、『社員は給与の3倍稼ぐべき論』があります。すべての人や業種がそうであるわけではないですが、大企業であれば当然3倍以上、中小企業でも2倍以上は稼がないと経営的にすぐ破綻するでしょう。
当時は私自身そうした法則を知りつつも意味を深く理解してた訳ではなかった事に加え、話を満足にスタッフにすることもありませんでした。

今になってみれば、いわゆるPL※を見せながら説明するか、あるいは何らかの形で一応の説得は出来たかもしれません。
ですが当時は結果的に十分なケアができず、意思疎通できず本人は会社を離れていきました。私の場合は、元が大切な友人でもあったので当時はそれだけで大きなショックを受けました。思い出しては悔やまれます。

経営者同士の話を聞く限りに共通して言える事は、望まずしてもこうした人との出会いと別れを度々経験するようになります。

※キャッシュフロー…収入や支出のお金の流れ、単純なものでは銀行残高
※PL…損益計算書

間違った民主主義の経営

その後、現プロモータルの初期メンバーと呼べる数名がジョインし、経営を初めて3年ほど経つ頃にはメンバーも9名へと増えてゆきました。
当時の仕事はWeb制作6割、映像3割、ゲーム1割くらいの割合でした。
2年で潰れるかもという不安はギリギリながらクリアし、経営者や会社として歪ながらも何とか成長してゆきました。

人数が増えるとマネジメントコストも当然増えます。プロモータルは当時から未経験者の人材育成には力入れつつも、当時の会社組織ではリーダーの育成に関してはまだ弱く福田を中心としたワンマン経営を強めていました。
ワンマン経営はよく悪い言葉として使われますが、トップダウン式の意思決定において会社を引っ張る上では最速かつ最強です。会社を創業期から成長させるには必要な事でした。
しかしそうした中、社員たちが成長すると裁量を求めるようになってきます。

「もっとこうしたい」「こうして欲しい」という要望が増えるにつれ、間接的にでもワンマン経営であることが問題になる事が増えました。

「社長が決めすぎないで欲しい」「私達に決めさせて欲しい」という声を受け、私は「社長の決定事項なんていらない」「皆が決めれば全て上手く行く」と考えるようになります。
当時読んでいたアメーバ経営※などにも感銘を受けており、ワンマン経営から、合議制を超えた、上澄みだけの民主主義を経営に取り入れていきます。
こうした裁量に関する私の勘違いが次の未来へ向かっていきます。

※アメーバ経営…京セラ創業者の稲盛和夫氏が提唱する経営管理手法。民主的で裁量を重んじたやり方で今でも素晴らしい内容ではあると思いつつ、ルーキー経営者にとって裁量の扱いが大変難しく、現実的な運用は経験のあるプロ経営者でないと上手く扱えない代物だと感じます

限界突破、経営者として自覚する

創業5期から6期目に差し掛かる頃、ついに節目が訪れます。
辛すぎて、何が辛かったのかすら覚えてませんが、当時の私は経営者をやりつつ、クライアントワークの前線に立ち、正直身も心もボロボロでした。
とくにテレビ業界等の彼ら自身が徹夜当然のような業界に深く携わり、いつ連絡がくるか分からない状況に私もスタッフも疲弊していた気がします。※

泣きっ面に蜂という言葉があるように、状態が悪い時というのは悪い事が重なります、社員の代わりにクライアントに謝罪に行ったり、目に見える赤字が発生した事もこれまでにありました。
会社としてもまさに自転車操業そのものな低空飛行の経営が続き、そうしたストレスフルな状況で、会社を経営する意味も、経営者としての意義も、その全てを見失っていました。
その時の心中としては「どうせこんな会社なくなっても誰も困らないだろう」と、スタッフから自分や会社への信頼を感じられず自暴自棄かつ疑心暗鬼になっていました。
そうして全てに限界を感じた私は、会社の解散を考えている事を当時のスタッフに伝えます。

彼ら彼女らからすると、今の生活基盤を失うわけですから動揺するのも当然でした。その時までスタッフと経営の話をすることを避けていた私は、どうせこれが最後だからという気持ちで初めて、苦しいことも含めて全てを本音で喋りました
するといくつか言葉が返ってきました。それらを要約すると「(意思決定の面で)社長の仕事をやっていない」「会社は嫌いじゃないが未来が見えない」と言われ、面食らったと同時に目が覚めた気分でした。

当時は私が裁量というものに関しての勘違いをしていた、と今なら綺麗にまとめるのですが、民主主義に至った経緯をよく覚えている本人としてはその瞬間の率直な気持ちとして「何て身勝手なんだ」※と感じた事もよく覚えています。

私は十数名のスタッフを全員呼んで、どうするべきかを話しました。ガストや、オフィスでホワイトボードを目の前にして、夜通し話しました。
その結果、業績は伸びてきたものの、安定力に欠け、将来に対する希望がない状況になっている事が問題だと見えてきました
同時に、彼らなりにも会社に対する想いや期待があることが分かりました。
それらを受け、それまでは個人スタジオくらいの心持ちでしたが、明確に自分が経営者として、会社の成長と安定を意識する節目となりました。

※業界の人々の努力には頭が下がる上、仕事関係の方々には感謝してますが精神的や体力的な負荷は凄まじいものがありました
※何て身勝手なんだ…こうした学びは私の中で自他含めた上で「人は都合良いようにしか解釈しないのでその時は理解していないと思って伝えたほうがいい(聞く側も然り)」というマネジメント上の哲学になっています

自他認識のギャップに葛藤、そして社長退任

それから3年、今までにも増して会社の安定と成長を目指して頑張るようになりました。毎月のキャッシュフローも大きくなり、あらゆる職務上のストレスを酒で誤魔化すような毎日でした。

スタッフも増え、役員も数人ほど迎え、その役員候補の中に草野がいました。彼は古くからの友人で親しく、そしてプロモータル設立当時を知っている間柄でした。

ある日、副社長になってもらう予定だった草野と話しました。
そこで衝撃的な言葉を彼から耳にします。それは、
「クリエイティブが好きなだけで経営者を始めたヤツが自己流で創業からここまで頑張ってきた。だからこそ今の福田さんは真っ当に、疲れている
と言う内容でした。
彼が言うには、その頃の私は普段の言動が可怪しくなっていたようです、というのも自分では全く気づけていませんでした。今思えば、おそらくストレスによる感情の振れ幅だったり、不信や不安によるものでした。

人間、壊れてる時は自分が壊れてると気づけないものです。
とくに経営者をやるような人間というのは責任感が強く、自分が故障している等とは夢にも思わない訳です。もっと言えば認めたくない訳です。

私としては最初は全く納得していませんでしたが彼の話を聞く内に、自分には休息と客観的に見直す時間が必要だと、ほのかに理解しました。
そして会長職に退き、草野に社長を任せる事にしました。その時は、プロモータルにおける自分の役目を半ば終えたものだと思っていました。

一歩退いて、見えてきた客観性

8年やってきたことを辞めてみると、様々な事が見えるようになります。

・社員たちとの交流を避けていた事(意識的、無意識的の両方)
・自認してた以上にストレスや負荷が掛かっていた事
・人間性が崩壊しかけていた事(言動、行動の過ち)
・人生の価値観もぼやけつつあった事


今でも思い出すだけで後悔の念が過る事もあります。社員との交流を避けていた点は、当時「社長が社員に関わるのはよくない」という思い込みも関係していたのですが、結果現場との溝は広がるばかりでした。
同時に、経営の引き継ぎの難しさを理解するようになります。

・経営スタイルの違い
・言語化がしづらい、されていない企業文化
・自分以外の経営者から見た会社の評価


そうした最中、新型コロナが猛威を振るい世界を震撼させました。
今まで忙殺されて見失っていた自分の人生の価値観の修復、人間性の修復、1年という休養時間はとても大切なものでした。
当時会長になった時、草野には社長としてゆっくり会社を成長させてもらってゆく考えでしたが、この先に見える荒波を彼に任せるのは無責任であること、自身が社長時代にやり切れていなかった点へのチャレンジ精神も取り戻し
「シビアな経営判断が求められる今こそ陣頭指揮を取らなければならない」と決意して市場の冷え込む真っ只中、9期に社長へ復帰しました。

10期目を向かえて、これから

新型コロナによる影響を少なからず受けつつも、復帰後すぐ目の前に迫る問題解決と経営的な対策を立てました。
社長業に戻って1年、休養の中で得た学びや気付き、それらを踏まえた上でやり方を改めるという原点回帰に近い感覚の中、忙しない日々でした。

これらは自分らしさを経営に投影する、という今の私が考える経営スタイルに落ち着きました。最終的な判断は客観的な正しさや公平さより、経営者がどうありたいかを優先する、そうして責任の所在を明確化する考え方です。ワンマンとの違いは、これらはプロモータルの中で進化した緻密な裁量の上で再構成されたものだという事です。

プロモータルは10期目を迎えましたが、コロナの影響で人を呼んで盛大なパーティをすることも適いませんし、スタッフと現実に集まって喜び分かち合う事も現状し辛いので、あまり実感はありません。

経営者として生きる中で、今回話してない書ききれない程のドラマがあり、それもいずれどこかで書きたいと思っています。
私の信念として「人は誰でもやり直す機会がある」という考えがあります。その時に本人が理解したり反省できなくても、振り返る瞬間があればいずれ分かる時がくるという考えです。他人の過ちは本人にしか反省できませんが、自分の過ちや後悔を最大限学びにし、語れる段階まで昇華していきたいと思っています。

総評:経営を通じて成長、変化した点しなかった点

私が経営者をやる上で重視したのが自己成長で、欠点を洗い出して長所に転換する、効率化するという事を、それこそライフスタイルとして続けてきました。
専門知識でいえば、創業から庶務、労務、法務に対する知識もかなり出来ましたし、保険の仕組みを深く勉強するため保険の免許を取り、実際プロモータルでも保険に加入して運用していたりします。
途中で思い出しましたが、膨大な量の情報セキュリティポリシーの冊子も作りました、あらゆる知識や理解を増やす必要があり相当大変でした。
これらに加えて経営やチームマネジメントに対する理解と知識の強化、等もありますが、大きくトータルで変わった事、成長したと言えるのは社会性です。

私は社会人を経験してたとはいえ、昔は「クリエイティブで結果さえ出していれば全ての欠点が許される」というかなり尖った思考をしていたので、経営者になってから獲得した一般的な社会性や価値観というのは計り知れないものがあります。

クリエイタやアーティストというのは有り体に言えば社会性に欠けた人が多く、だからこその独特な異様さと雰囲気があるわけですが、責任がすべて自分にダイレクトにやってくる立場を経験しないと一生成長しなかったであろうと思います。
そして、私が経営目線も持ちつつ、彼ら彼女らの理解者であれば人生において価値があると考えています。そうした存在や価値観の橋渡し役が圧倒的に少ないからです。
一般的な社会性や価値観を獲得するにつれ、”アーティスティックさ”は失われがちですが、ビジネスの世界で面白い事をやる上では絶対に必要な事だと再認識させられました。

変化しなかった点ですが、私が今も昔も人生の命題にしている「クリエイティブファースト」であることです。意味するところは、クリエイタ目線による企画、提案、発信。
これは時間が経っても変わらない太い軸として存在していて、自身の経営哲学にも深く影響しています。

経営者として会社でやってきた事、やり続ける事

私が経営者をやりつつ、プロモータルとしてクリエイティブファーストに取り組んできた事も書きたいと思います。

・若手、未経験者がクリエイタとして働く機会を提供
弊社は平均年齢が25歳程度と若いスタッフが多い、ちょっと珍しい会社です。実際、制作会社やクリエイティブの世界では即戦力が求められる事が多いのですが、プロモータルでは若手を採用し育成することで未経験者の業界参入機会を増やしています。

・世間にコンテンツとしてのクリエイティブを提供
元々テレビ業界におけるドラマCGの制作、近年のプロモータルでは「神獄のヴァルハラゲート」「黒騎士と白の魔王」「ワールドフリッパー」など、スマートフォン向け有名ゲームタイトルの制作に多く携わっています。
最近ではアニメ86のCGを担当しているスタッフも居ます。
http://promotal.jp/works/2021/05/14/anime-86
 
・世間にクリエイティブの面白さを伝えていく
正直これはまだまだ課題だと感じていますが、弊社でツマヤという自社企画のボードゲームブランドを持ち「あのアレなヤバイ動物」「命鯉」などの商品を発表して多くの方々に遊んで頂いています。
https://www.tsumaya.tokyo/

これらは本当にやりたい事、実現したい事の一部でしかありません。一般的に職業としてのプロ経営者は経営的な、数字的な成果に注目されがちな世界ですが、私自身の目標はそこだけではなく、クリエイタが経営の世界でどれくらい活躍できるか、というチャレンジにあります。

なぜ、これを書いたか

普通はこれを一番上に持ってくると思いますが、個人的な事なので一番最後に書きます。
私は人と関わる上で「お互いがどういう人間かを知ってる人とより深く関わりたい」という気持ちが強い人間です。

これまでの経験上、大切な事をするにも面白い事するにも、お互いを知って、分かっていることがより重要だと感じるようになりました。
知らない事が多ければ不一致が起きますし、逆によくわかっていればお互いの弱点を補って想像以上の結果を生み出すことがあります。
こうして、多少なりとも誰かの役に立つ情報を発信することで、知識の共有と私の価値観が届いて欲しい人に伝えていくのが望みです。
ですから未来のパートナーや仲間になる方がこれを読んでくれる事を期待しています。

「こういう事を一緒にやらないか」「うちでこれやってくれないか」など、一緒出来る面白い事があれば是非気軽に声をかけて下さい。
これからも法人個人問わず、全力でクリエイティブをやっていきます。

画像は友人である架空紙幣作家のoloさんが昔、誕生日祝いで制作してくれたものです。

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