やさしいこはわるいこ
わたしのせいだ。わたしがお金を稼がなくなったから火をつけられたんだ。コートの襟をぎゅっと両手で握った。黒煙の奥から飛んできた火の粉がわたしの頬を焼いた。
わたしの帰る場所、アパートはもうない。黒い柱が立っているだけだ。
どうすればいいのか、ぼーっとしているわたしに、消防の人がなにか言ってくれているのには気がついていたけれど、わたしは何せぼーっとしていたからその場から、ふらあり、と離れた。
ふらあり、離れても行くところがない。持っているのはハンドバッグだけだ。
「はあ」
手袋をした両手に息をこもらせる。寒い。凍えそうだ。ひどく疲れている。ひどく疲れているときは涙が出ないのだと知った。
ああ。けど誰か。
だれかわたしを助けてくれないかなあ。
「ミナちゃん?」
くるり。わたしは振り向いた。だれか。だれかわたしのことを助けて。
「やっぱりミナちゃんだ」
声をかけてくれた彼は笑っていた。その頬が寒さのせいか真っ赤だ。
「にっち」
わたしはそのひとの胸に飛び込んだ。
「にっちー」
彼はわたしの頭を撫でる。
助けて。
それがちゃんと声になって現れ出たのかはわからないけど、それでもにっちは頷いた。
「うん。ミナちゃん。僕にできることなら」
うわあん。
ようやく泣くことができた。足が四本あるということだけでこんなに楽に立っていられることを初めて知った。
「はい。お茶どうぞ」
かたり、とにっちはちゃぶ台に湯呑みを置いてくれた。
「寒くない? 大丈夫?」
手を伸ばして電気ストーブを強にする。
にっちはわたしのアパートに程近いところに住んでいた。木造二階建てのアパート。狭苦しいワンルームだった。お金を持っているようには見えない。
にっちは、にいちゃん、の略だ。ちっちゃいころに一緒に遊んでくれた近所のやさしいにいちゃん。わたしはにっちのことが大好きだった。ラブではなく、ライクの意味で。同年代の女子が彼と遊ぶのをやめてからもわたしだけはやっぱりにっちのあとを追いかけていた。にっちは久しぶりに会ってもやさしい。なにも聞いてこない。ほら、やさしい。
昔ケンカでこさえたという眉の上の傷もそのままだ。唇が上に向いていて口角が下がって見えるのも。だから彼はいつも不機嫌そうにしていると思われて損をしていた。
「にっち」
「んー?」
ぐす。鼻水を吸うとにっちはティッシュを箱ごと渡してくれた。
「ミナちゃん一緒に住む?」
目を見開いてにっちを見つめる。
「焼けたの、ミナちゃんちでしょ?」
どうして知ってるの、と聞く前ににっちは自分の右の袖を引っ張った。
「コート、ここ派手に焦げてる」
脱いで置きっぱなしにしていたコートの袖口が焦げている。全く気がつかなかった。
この人はわたしよりわたしのことをわかっているのかもしれない。わかってくれるかもしれない。
鼻をかんだ。
「住む」
にっちに助けてもらう。
にっちはふは、と口角を上げて笑った。
「そうかそうか」
にっちはそう言って、ひたすらわたしの頭をなでた。
にっちの部屋にだんだんとわたしのものが増えていく。にっちの歯ブラシは黄色、わたしのは赤色。仲良く同じコップに並んでいる。
服も、増えた。コスメも、増えた。なのに部屋が狭くなったという印象はまるでなかった。にっちだけじゃなくにっちの部屋までわたしのことを受け入れてくれているようだった。にっちの部屋は、やさしい。
ひどく寒かったからにっちが新しいコートを買ってくれた。安物だけどふんわりと軽くてあったかい。にっちが選んでくれたわたしのお気に入りだ。
にっちのやさしさにぷかぷか浮かんでいる。これがしあわせというやつなのだろうか。にっちはいつも笑っている。わたしもいつも笑っている。
にっちの部屋には布団が一組しかなかった。わたしは当たり前のようにそこへ潜り込む。にっちは困った顔をして、寝る前はいつもうろちょろと部屋の中で右往左往している。
「一緒にお布団入ろ、にっち」
さらに困った顔をする。
「ほら、あったかいよ」
そうやって誘っているのは、にっちはわたしに手を出さないと思っているからだ。にっちはおにいちゃんなんだから、そんなことは絶対にない。
にっちは結局毎晩、布団の中に入ってくる。
「もう一組、布団いるかなあ。ミナちゃん用のやわらかいの」
確かににっちの布団は薄くて固かった。
「けどわたしこれ好き」
にっちに身を寄せた。あったかい。
「ふふ。しあわせだ」
「ミナちゃんはいいこだね」
にっちはわたしを抱き寄せて頭を撫でた。
「いいこ? わたしが?」
「うん。しあわせになれるこはいいこ。いいこですよ」
なんだかこそばゆい。
「にっちはいいこ?」
こんなにやさしくし頭を撫でてくれるにっちはいいこ?
そう言うとにっちは手を止めて、わたしに背を向けた。かけ布団がそちらに引っ張られて身体がひやりとした。
「ぼくはわるいこだよ」
「そうなの?」
「うん」
弱々しい声だった。わたしに背を向けて、泣いているのかと思った。だからわたしは両手をにっちの背中にぴたりとくっつけて、熱を送った。
「ミナちゃん、僕のこといいこにしてくれる?」
「いいよ。にっちのことしあわせにしてあげる」
にっちはわたしを組み敷いて、捕まえる檻のように手を顔の両側についた。にっちの重みがわたしの身体をつぶす。
かけ布団がひるがえった。
「にっち」
にっちの唇がわたしのそれに重なる。からだがびくりと震えた。にっちの手がわたしの胸をまさぐっている。
「毎日一緒に寝てるからいいよね」
「にっち、わたしはにっちはそんなこと考えないひとだと思ってた」
こんな、ぶちこわすことしないと思ってた。
「にっち、わたしわるいこになっちゃうよ」
「なんて顔してるの」
どんな顔をしているのか分からなかった。にっちがやさしくわたしの頬に触れる。なにかを、封じ込めたような悲しい顔をしている。
「いいこだから泣かないで」
わたしは涙を流していたらしい。そんな顔を、していたらしい。
「僕、ちょっと頭を冷やしてくるね」
にっちはコートを羽織り、リュックを背負って玄関から出て行った。
のどがかわいた。胃もすかすかだ。うとうとと昼寝をしていて、起きたら夜中だった。なんだかいやな夢を見てしまったような気がする。よく覚えていない。
夜中の十一時を少し過ぎたあたりだ。わたしはコートの襟を押さえてそっと出かけた。そっと出かける音も響くくらい周囲は静かだった。
からからなのどとすかすかな胃をどうにかするためにコンビニへ向かう。コンビニは遠かった。にっちのアパートはいろいろと不便なところにある。最寄り駅も遠い。ネオンのある店もなく街灯だけが足下を照らしている。
「ミナちゃん!」
後ろからの声にわたしはくるりと振り向いて答えた。
「にっち」
にっちは肩を上下させていて、わき腹を押さえていた。多分、わたしのいないことを確認して走ってきたのだろう。
「どこ行くの?」
不安そう。置いてけぼりにされた子どもみたいな声だ。
「ちゃんと見ててくれたんだ」
「だって、家にいなくちゃだめだ。いいこでいられないよ」
泣きそうだ。
「にっち。わたしもうお金稼ぎたくないよう」
にっちのやさしさにずぶずぶにせっかく沈み込んでいるのに、もう二本足じゃ無理だ。
ぐうとおなかが鳴った。わたしのすかすかの胃だ。
「はは」
にっちが笑う。笑ってるにっちはいいこですね。
「コンビニ行こうよ、僕肉まん食べたくなっちゃった」
わたしも何事もなかったように笑う。
「手、つなごうよ」
離れちゃわないように。どっか行っちゃわないように。
「うん」
恋人つなぎ、というやつをした。けどそれじゃあお互いの不安は消えなかったのでもっと接着面の多い普通のつなぎ方をした。
「子どもつなぎっていうのかなこれ」
幼稚園で子ども同士がはぐれないように手をつなぐ、そんなつなぎ方だ。わたしは自分の思いつきに笑ったけどにっちはあんまり笑わなかった。
肉まんは冷めちゃうから二人並んでコンビニの前で食べた。
「なんか、ヤンキーみたいだね」
そう言ってわたしはヤンキー座りをしてみせた。にっちは今度こそ思い切りよく笑って隣に座ってみせた。
「月がきれいですね」
にっちが空を見上げて言った。ああ。本当だ。まんまるい。
「そうだね。満月かな」
月はすぐに雲に隠れた。薄墨色のカーテンの向こうで、鈍い光を灯している。
「帰ろっか」
にっちは立ち上がった。
帰りも、手をつないで歩いた。
「ふふ」
にっちが笑った。わたしは不思議だった。
「なあに」
「いや、こうしてると昔よくミナちゃんが僕の指かんできたときのこと思い出して」
「そんなことしてたっけ」
「してたよ」
にっちはぎゅっとつないでいる手に力を入れる。
「あのときミナちゃんは小さかったからね。『にっちの方が背が高くてずるい』って」
「そんなこともあったような気もする」
記憶をたどる。
「ああ確か、こんな風に」
わたしはにっちとつないだままの手を上げて、にっちの親指にかじりついた。
「いたっ」
「昔も血が出るほど痛くすることはなかったでしょ?」
「うん……」
にっちはかまれた親指を見ながら、しばらくぼうっと歩いていた。手は離さない。
「あ。ろうばいが咲いてる」
わたしは通りがかった大きな住宅の庭にろうばいが咲いているのを見つけた。
「あの花、ろうばいっていうの?」
「うん。そうだよ」
「よく知ってるんだね」
「昔、田舎のおじいちゃんちによく預けられてたから。その家に咲いてた」
胸いっぱいに匂いをかぐ。
「おかげで植物のこと詳しくなれた。ろうばいの匂い、わたし大好き」
「へえ」
にっちはくんくんと鼻を鳴らして匂いをかぐ。
「僕はあんまり好きじゃあないなあ。線香臭い。じじむさい」
じじむさい。そんなこと思ったこともなかった。
「あっ。にっちもしかしてろうばいの『ろう』は老人の『老』の字だと思ってるんじゃない?」
「ちがうの?」
にっちは首を傾げる。
「全然ちがうよ。ろうばいの『ろう』は蝋燭の『蝋』だよ」
「そうなんだ」
彼は目を丸くした。
「けど蝋燭だとしても不吉な花だね」
にっちは花に手を伸ばす。
「本当だ。蝋燭みたいにつるってしてるね」
そのままぱきっと枝を手折る。
「なにしてんの!」
「だって、ミナちゃんが好きな花なんでしょ」
はい、と枝を渡してくる。
「ひとんちの花だよ」
「わかってる。けどミナちゃんが好きだから」
てらいもなくにっちは笑う。その無邪気な様子を見ていたら、その花が欲しくなってしまった。
「ありがとう」
いけないことなのに、うれしい。
「ん」
ぽん、とわたしの頭に手をのせる。それから髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
「もう!」
にっちは笑っている。わたしも笑っていた。
家に帰って、蝋梅をジャムの瓶にいれて窓のそばに置いた。
ずっと枯れないといいな、と思った。
にっちが仕事に行くときわたしたちはぎゅっと二人、抱きしめあう。にっちが帰ってきたときわたしたちはぎゅっと抱きしめあう。にっちはきっとわたしがいいこでいることを確認しているのだ。わたしもにっちが笑っていいこでいることがうれしい。
二本足じゃない。四本足でわたしたちは立っている。
「ミナちゃんはいいこだね」
にっちは布団に入ってくれなくなった。ぺらぺらのブランケットを一枚買ってきて部屋の隅で眠る。
「にっち、一緒に寝よう」
にっちは布団ににじりよってきて、言った。
「ミナちゃん。大好きだよ。いいこでいて」
「いいこでいたい」
しあわせでいたい。
「にっち、わたしいっぱいお金かせげるんだ」
にっちがわたしの肩に手を伸ばす。
「立ってるだけで。いーっぱい」
にっちがわたしを抱きしめる。強く抱きしめていいのかどうか迷っているような抱きしめ方だった。
にっちにこんな話するなんて自分でもおかしいと思う。
「けどするのやんなっちゃった。だってちっともきもちよくない」
たいていの客は乱暴だった。
「あのね、にっち。わたし男のひとのそれ、怖い」
にっちの背中に自分からも手を伸ばした。
「けどにっちならいいこでいられるんじゃないかって思う」
「そっか」
わたしの耳元に息がかかる。
「そういうことなら」
にっちはわたしの身体をひょいと抱えて自分が寝るスペースを作った。やさしい動きだった。
「いいこにしてあげるよ」
セーターの下ににっちの手が入ってくる。直接触れたその手は冷たくて、ぞぞっとした。
「怖くない。怖くない」
にっちの手はわたしの身体の線をなぞる。
「怖くない。いいこにしてあげる」
ゆっくり、手が這う。何回も怖くないか確かめながら。布が全部はがれたのはいつだったんだろう。
身体が震える。
「にっち。にっち。きもちいい」
ふええん。わたしは泣いた。大人なことをしていたのに子どもみたいな泣き方だった。
にっちはわたしを触ってくれただけ。わるいこをいいこにしてくれただけ。
「にっちやさしい。うれしい」
「怖くなかったね」
「うん。うん。今は怖くない」
よのなかやさしくないひとばっかり。けどにっちのそばではわたしはいいこ。
わたしはにっちごと寝っ転がって、その首元に頬を擦り付けた。
「ミナちゃんはこんなにかわいいのにひどいことをするやつがいるなんてね」
にっちはもう一度起きあがると、自分も服を脱ぎ始めた。
「にっち」
「大丈夫。上だけ。脱いでくっついたらあったかいから」
そうやってまだ裸のわたしの横に寝っ転がって、掛け布団をわたしにかけた。そうして自分も潜り込む。
「今日はもう寝ようね。おやすみ」
「わたしパンツはく」
ふは、とにっちは笑った。
ふは、とわたしも笑った。
それからにっちは、毎日わたしをきもちよくしてくれた。わたしはにっちに触られれば触られるだけ反応するようになった。
「にっち、きもちい」
「うん。きもちいいね」
にっちはわたしを怖がらせようとしない。わたしは大事にされている。それがうれしい。
ひとしきり終わると、にっちにくっついて布団の中でおしゃべりする。わたしは今のにっちについて知らないことだらけだ。けど知らないままでいい。会話は、今日は天気が良かったね、とかコンビニに新しいスイーツが出てたよ、とかそんなものでいい。わたしとにっちの間にはとても薄くて薄い透明の膜がある。それが破れないようにお互い気を使いあっている。
にっちの親指を毎晩、わたしはかむ。
「かむの、上手になったね」
にっちがやさしく笑う。横になっていたので、洗い立てのにっちの髪がその頬にくっついている。
「にっちの指、甘いから」
「そうなの?」
「うん。昔から、甘かった」
「そうだったのか」
にっちは十の指を広げてそれをまじまじと見つめる。口から抜けたその指がまた欲しくなって、わたしはにっちの手を引き寄せた。今度は親指を丹念になめる。爪の先まで、なめる。
「ふふ。それきもちい」
「そう?」
くわえたまま答えたのできっとにっちに響いたと思う。
「ふふ。上手」
口に含んだり、ぺろりとなめたり。
「うん。もうおしまい」
ひゅっとにっちは手を引っ込めた。
「にっち」
「ん?」
「にっちはわたしのことすき?」
「すきだよ」
「わたしにいれたい?」
にっちは眉を寄せる。
「すきだけどだめ」
「なんで」
「そういうのはもういい。もういいんだよミナちゃん」
ぎゅっとにっちはわたしの頭を抱いた。
「もういいんだ。ごめんねミナちゃん」
ぎゅっと抱きしめる力を強める。
「いいこでいなきゃ。僕もがんばるから」
「わかった」
「よし」
ああ、わたしもさっきお風呂に入ったから髪が濡れている。忘れていた。にっちはそれにも関わらず頭を撫でてくれる。
「ごめんね」
「よしよし」
くっついた肌がやわらかい。外は冬なのにね。中はあったかいね。
「ミナちゃん。君はいいこでいられる?」
「うん」
これ以上のしあわせを感じることは、あまりないんだと思う。
家事はわたしの仕事だ。にっちは僕がやるからいるだけでいいよと言ってくれるけれどわたしだってにっちのためになにかをしたい。それだっていいこの第一歩だ。
洗濯物をたたむとき、わたしがにっちの下着に触れたらにっちは渋い顔をしてそれを取り上げる。
「ミナちゃんはこういうのに触らなくていいの」
お互いそんなことで照れるような年でもないのに、と思うけどにっちが嫌ならしない。部屋の隅にはほこり玉のようににっちの下着が放置してある。
にっちが片づけないときにはほこり玉はどんどん大きくなっていく。にっちはそういうのに大雑把らしい。そしてどうもわたしは几帳面な性格ならしい。それを見ているとうずうずそわそわしてしまう。
片づけたい。どうしても片づけたい。わたしは下着を畳んで、こっそりとにっちの衣装だんすを開けた。洗ったものを上に置いていくと出したときに同じものばかり使っていってしまうので、とりあえず中身を全部出して新しく洗ったものを下のものと取りかえる。そのときにたんすの奥につまっている灰色のごみや髪の毛を指で取り除いた。
「これも、ごみ?」
銀色に光る輪っか状のもの。
『HIROAKI』
名前が彫ってある。指輪だった。ひゅっとのどが鳴る。まばたきもできない。
わたしこれ、知ってる。
「だめだって言ったのに。わるいこだなあミナちゃんは」
にっちがいつのまにか玄関に立っている。
「いつからいたの?」
「いま。それに『いつからいたの?』じゃないでしょ。『おかえり』でしょ。わるいこだなあヒナちゃんは」
笑っているけど声音が低い。
「これ。わたしの」
「そう。ミナちゃんの」
「ヒロくんにあげようとしたやつ」
「ヒナちゃんが大事そうにしてたからそれだけとってきた」
部屋に響くような声だ。ふわんふわんと遠くまでいく声だ。
「ミナちゃんがやけどしなくてよかった」
わたしの右腕を掴む。
「指輪、探しにいこうとしたんだね。コートの右袖が焼けてたときはひやっとしたよ」
にっちに掴まれた手は痛くない。にっちはやさしい。
「にっちが火をつけたの?」
「そうだよ」
にっちは悪びれもせずに頷く。
「だってそうしなきゃミナちゃんずっとわるいこのままだったじゃん」
確かにわたしはわるいこだった。ホストのヒロくんに入れ込んで、お金足りなくなったから立ちんぼしてた。実家にも帰れなかったからお店が用意してくれたアパートで暮らしてた。
ヒロくん。しばらく会っていない。いまどうしてるだろ。きらきらしているひとだった。まつげの長いひとだった。指先のきれいなひとだった。けど、顔が思い出せない。しばらくいいこでいたからかな。どうしたんだろうわたし。すごくすきだったのになあ。
にっちがわたしの手のひらから指輪を手に取る。
「実はこれ僕にぴったりのサイズなんだよね」
にっちの指に、指輪が隙間なくぴったりはまる。
「ねえミナちゃん。僕の名前知ってた? ヒロアキって言うんだよ。これもしかして僕のためのものだったり?」
にっちは指輪をじっと見る。安くない石のついた指輪。それは同伴のときにヒロくんとペアで買いに行ったものだった。ヒロくんと同じものが欲しくて欲しくてお金を貯めて、けどヒロくんは仕事柄つけられないのでずっとわたしが両方持っていた。
「冗談だよ」
「にっちのだよ」
外そうとする指輪の上を押さえるように指を絡ませる。
「それにっちのだから外さないで」
にっちの左手がびくりと震えた。
「僕にくれるの?」
「うん」
自分のハンドバックからそれとサイズ違いの指輪を出してきて自分の薬指にはめた。
「にっちと、わたしのだよ」
ぎゅ、とにっちを抱きしめた。
「ミナちゃんは、いいこだねえ」
「ずっとにっちと一緒にいたい。ずっといいこでいるから」
「いいよ。ずっと一緒にいよう」
わたしは、いいこ。
了
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