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しょうもない資格とは踏み絵である
その資格、とって何になるの?
そう思ってしまったことのある人、いるんじゃないか?そういう人に、世間からあなたがどう思われてるのかを詳らかにし、注意喚起をしていきたいと思いこの記事を書くことにした。
ひとはパンのために生きるにあらずと、かの大工さんも言ったじゃないか。まぁたしかに、色彩検定とか、アロマテラピー検定とか、インテリアコーディネーターとか、ボールペン字講座だとか、ユーキャンでとれるのか知らんが、「だからなんだね」と失笑したくなるような民間資格や教室はごまんと存在する。
そんな時に短絡的な私のように「運転免許証も持たずになにやってんの?あんたはそれで食ってくの?」という極論思考に陥って、表題のようなことを言いませぬように。
え?言わない?私だけ?私だって面と向かって本人には言わないさ。思ったことすらない?嘘だろ。ぜったい嘘だよ。専業主婦になることがステータスで「愛される奥様」なんて本が跋扈していた時代に生きていた60代前後の化石マダム(あら失礼)ならいざ知らず。今という不安定な時代を生きるサラリーマンなら誰しもが思うことでしょうよ。
しかし、これはそんな化石マダムが遺したレガシー。金にならない趣味のために、惜しむことなく時間と金を費やせる、平安貴族のような人にのみ許された特権の証明なのだと理解した上で看過せねばならぬ、と最近思うようになった。
そう平安貴族かどうかを判定する、いわば踏み絵なのだ。ここで表題である。
お茶農家が茶摘みの歌を歌ったり、ニシン漁師が睡魔で船から落ちるのを防ぐために歌った漁歌。そんな民衆を代表する労働を奮い立たせるための歌ではない。貴族たちには恋やらを歌った和歌が存在するように、行為は同じでも、目的が著しく違うものが存在するのだ。
そう思うとどうだろう。あっという間に、先ほどまで「その資格で食えるかどうか」だけを判定していた人間が、いかに風情を知らず、文化の豊かさと生活の余裕を知らない心の貧しい人間であったかを思い知ることになるだろう。世間知らずは、財の豊かさゆえだ。貴族らにとっちゃ食えるかどうかなどどうでもいい問題であり、そんなことに言及する奴らは、一生を通して季節の移ろいに目を向けることもなく、ただただ手元の生産作業に没頭して、気付いたら朽ち果てるだけのただの肉塊。
だからこそ、自分が「ただの肉塊だ」とは思われぬよう努力する。
「お弁当のいろどりを良くするために、色彩検定とったんだ~」と40代女性(高卒シングルマザー、年収280万、高校生の息子持ち)に言われたら、口からまろび出そうになる「もっと他にやることあんだろ」をかなぐり捨てて「いいね~」と言わなければいけない。言われたい言葉以外は求めていないのが丸わかりなのだから。まさに踏み絵で試されている気分である。彼女が貴族でないのはわかっているが。
とはいえ、かくいう私も保有資格のうち、とって何になるの?というお戯れ資格を持っている。日本語能力検定と、神社検定と、秘書検定だ。
第三者に、その資格何になるの?と言われた時のリアクションが3パターンある。
まずはこれまで述べてきたように、ひとはパンのために生きるにあらず、と諭す方法。相手を憐れむのだ。
次は、意外と有用であることを説くパターン。秘書検定は、そうは言っても、就職で男受けがいい。神社検定は、男とデートするときにウケがいい。日本語能力検定のテキストは、祖母が認知症の予防になるから勉強したい、と再利用していた。とつらつら喋る。我ながらこれはスマートではなく、貴族の道からは外れてしまうなと思う。
なので結局、3番目。TPOに合わせる。相手や状況を選んでそんなお戯れ資格を待ってることを言うか、資格を持ってることより、持ってることによる知性だけを表明する。これが一番理想。
生かせてなければ資格なんてクソ。とったことが重要だと思って、職種に関係ない資格を履歴書に羅列することほど品位に欠けた恥ずかしい行為はなかろうと思っている。
尊敬の対象にもなれば、品性を疑われるきっかけにもなりうる。
ひとは無数の踏み絵の上を、一生かけて常日頃から歩いていくのだろうな。
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