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ゆらぎをなだめる子守唄を聴いて

お風呂が好き。
でも、心に張り詰めたような痛みがある時は、浸かる気分になれない。背中に温かいシャワーの流れを感じるのが落ち着く。
湯に浸かるのは元気な時。前向きな気持ちで身体を満たせる時だ。
熱くしないし、半身浴がきもちいい。

身体が慣れてくれば、熱い温泉にも入れるし、サウナも結構大丈夫。でも、最初はぬるめ。ゆっくりだんだんきもちよくなるのがいい。最初に時間をかけると、ずっと入っていられる。急ぐとのぼせる。

嬉しいことや楽しいことをまともに受け止める心の体力がない。お風呂の入り方みたいに、だんだん慣れて、ちゃんと受け取っていけるようにしていってるところなんだと思う。
たぶん、慣れて不足を感じるようになんかならないんだ、洗面器に張った熱めのお湯に足を浸けるだけでも癒される、みたいな浸かり方もあるから。

なんでこんなに、わたしの欲しいことを言ってもらえるんだろう?って思えることが増えた。でもそれは、自分がちゃんと、欲しいことを考えられるようになっていってるということなのかもしれない。
当たり前に欲しがっていいはずのことを、望むことさえ押し込んできたことを、「くやしい」と思うようになった。ついこの頃のことだ。

くやしい、だって。
まだ不思議に感じる。本当にこれまで感じたことがなくて、自分でびっくりした。わたしは「くやしい」を持っていたのか…。
欲しいと思っていいんだね。
願っていいんだね。

なんでしてもらえるんだろう、って、まだちょっと、途方に暮れてしまう感じがある。その気持ちをどう自分のものにしたらいいのか分からない。
だけど、ちゃんと知っているはずなんだよ。
現実に接続しようとするとおぼつかないというだけで、その感覚自体は知らないわけじゃない。
その、現実が難しいのだけど。

ほんとうのわたしにできることを、ゆっくり考えています。
たましいの求めることを、おそれずに見つめて、しあわせになりたいなあ。
しあわせは、胸の中にはちゃんとあるよ。
ずっとしあわせでいたいなあ。

わたしは、わたしの光を必要としてくれるひとに届けていたいな。
でも、この光は、わたしのための光なのかなとも思う。誰かに分けちゃだめなのかな?この辺りが、ちょっと弱いんです。自分のものをすぐにひとにあげてしまって、ずっとからっぽだったので。
わたしのための光を抱いて、そうだなあ、やっぱりね、そのわたしごと、いいなあって思ってもらえるのがいいね。できるかな。

それで、いいなあって思ってくれたひとも、しあわせなのがいいなあ。
だれかの、オアシスになるといいな。


わたしは、どこかでちゃんと、しあわせの力を知っているんじゃないかと思うんだよ。しあわせになることも、しあわせにすることも、知っているんじゃないかと思うんだよ。


恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。