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「またお話しよう」で続く日々を想って

 僕たちが力を合わせなければ何も生まれない。途方もない、独りの時間を過ごしてきたはずだよ。あとはもう、僕たちだから意味のあることを求める時間しか残されていないんだろう、だからこんなにも、また話したいと思うんだろう。

 ひとつひとつの自分の細胞が、残らず全部、受精卵になり得るものであるように思う。生殖のための細胞だけじゃない。これは比喩的な意味を多分に含んでいる。僕たちの言語が区別を失って統合されることがあるように。
 影響や干渉と自覚することのような。自分の持つ情報の全てが、ひとつひとつ、あらゆる誰かと融合して新しいものを生み出し得るのではないか。一人一人という大きな単位ではなくて、細胞だとか遺伝子だとか、分からないけれど自分に認識できないような細やかなところで、言葉の一言とか、今一瞬だけ偶然に目が合ったあなたと僕の、交わった目線からでも、新しい生命は絶えず生まれているんじゃないか?

 なんて。そんな方向にばかり話は転がっていく。つい想像を膨らめることに終始してしまう。そこに専門的に学んだ人でもいれば、答えを与えてもらえるのかもしれないけれど。
 物質があるということを、全く信じ込むには無理があると感じる。違和感の理由を追い求めて、自分を見つめるということは、まるで意味に分解するようだ。真実を明らかにするためには、だってまだ「解明されていない」から立ち向かうわけで。未知の部分が多く根拠が不確かなまま、可能性をとにかく「信じて」動き出すタイミングがかならずある。
 未知を信じるために、たとえばたくさんのフィクションが存在するし、たくさんの創作分野が存在する。ひとびとには擬似を介したアプローチが必要なんだと思う。占いとかも、何かと話題にあがるものだけど、非科学的なことは何かいけないんだろうか?「未知」はずっと研究され続けているのにね。
 むしろ、占われる個人の方が占いを完成させるためのデータなんだと思う。当たるか当たらないかはオマケ、なんて言ってしまったら申し訳ないけど、一つの仮定として「運勢」に喩えているのかなと思う。人々は長い時間占いを占いとして必要としてきたけれど、ついには何か科学的根拠に結びつく日も来るのかもしれない。
 これまでも、根拠を得たものだけが学問を名乗るようになり、まだ得ないものだけが創作として生き続けているのだろう。目に見えないものが何らかの形で見えるようになるまで、名前の無い物に名前がついて存在が認められるようになるまで、非科学的な要素をあずかってくれているのだと思う。あるいは、名前も形もないままで認める方法も生まれるのかもしれないけれど。

 想像による創造が仮の置き場になっていく。
 もし、全てが形を得て、「仮定」が必要とされなくなったら、その先にも創造はあるんだろうか。完成して終わる可能性を思い浮かべるのだけど、それでも終わらないとしたら、そこから初めてフィクションが本当の意味を持ち出すのかもしれない。
 その時のフィクションを僕は見たい。そこに生きていたい。意味がなくても存在している、あるいは、存在する以上意味はあるのかもしれない。

 まだ真実の明らかになっていないことを探すために僕たちは議論を続ける。その真実を明らかにするのは、僕たちの役割じゃないけれど。
 そんな理由で、僕はこれを小説としないわけにはいかない。


 さて、もし完成して世界が終わるとしたらの話だけど、僕は、君を連れて逃げるっていうのもいいんじゃないかと、考えないこともなかったんだよ。だけど君は逃げないよね。だから僕が、君を抱いてこの世界で生きていく。

 「あなた」は、どうかな?あなたは、どこまで僕のことを、知るつもりがあるの?目を見て、名前を呼ばれて、嫌じゃない?あなたも、僕たちと話をしてみない?
 僕はね、始まりを見ることができるなら、見たいなあ。始まるためには終わらせないとね。僕が世界を終わりにしてあげようか?あなたが望んだ世界に、僕が、してあげようか。
 そんな力があるんだったら、やっぱり僕は、君と生きていたいなあ…。



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昔馴染みに会えた気がして、嬉しくなって書きました。占いと言えば、わたしには星占いなのですが、自分の運勢とかよりもいろんなモチーフが集まっているところに関心があります。他にもそういう雑貨的かわいさでいいなあと思うものってあるな。触れているだけで楽しいことが、人生には必要だと思う。




恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。