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年に一度のお餅つき、私にとっては地獄だった

こんにちは、たおです。お餅つきなんて年末のイベントの話を今さら書くのはどうかと思うんですが、そろそろばあちゃんちでついたお餅が恋しくなってきているので、お餅に想いを寄せながら書きたいと思います。

さて、うちの母方の祖母の家では、毎年12月30日にお餅つきをします。臼と杵、それにもち米を炊く釜まであって、おばあちゃんちの家の前で、おじいちゃんの会社の人たちと、親戚と、親戚の子どもたちが集まって、朝からお餅をつくわけです。

いとこの中ではちびたち(小学生ズ)を除けば私が一番年下で、私以外の上のいとこたちはみんな働いているので、ここ最近は子どもがあまりいないおっさんたちのお餅つきになっているけれど、私が小学生の頃は、それはそれはいとこたちといとこの家族たちが集まって盛大にお餅つきをしていました。

私は母方のいとこのなかで唯一の女の子で、いとこはみんな年上の男の子でした。

お餅つきでは、鏡餅にするもの、神様に備えるもの、乾燥させて保存用にするもの、その場で食べるものをそれぞれつくのですが、お餅って、ついたそばからこなを引いたところに置いて、どんどんこなをつけた手で丸めていかなきゃダメなんですね。

まあなんとなくわかると思うんですけど、男の人がお餅をついて、女の人がお餅を丸めるっていう役割分担になるわけですよ。

それで、私はお餅を丸めなさいって女性陣の方に押し込まれるんだけど、これがめちゃくちゃ納得いきませんでした

男性陣たちはビールを飲みながら、バーベキューをしながらお餅をついているのに、女性陣はずっとお餅を丸めてろって?

私はどうしてもその性別だけで役割を分けられてしまう状況が納得いかなくて、小学校4年生ごろから、お餅つきになるとお餅つきにまともに参加しないと怒られる子になってしまったわけです。

女だからというだけで、選択の自由がない状況が非常に腹立たしかったし、女性陣たちがそこに疑問を持たないこと自体も意味がわからなかった。

男を立てるとかいうの、私は絶対無理。むしろ、いとこやお兄ちゃんみたいに、お餅をついて、あとは遊んでいたかった。それなのに、そもそも選択肢を与えられなかったことが納得いかなかったのだと思います。

結局中学1年生になった頃には私は学習して、お餅つきの日には、おばあちゃんちに帰れない理由を作って帰らないようにしました。部活があるとか、受験勉強があるとか言って。

そして、去年久しぶりにお餅つきに参加しました。相変わらず女性がお餅を丸めるという役割分担は変わっていなかったです。でも、同時に、そのお餅を丸めることを楽しんでいる親戚のおばさんたちの表情も見えて、ああ、これが楽しい人もいるんだな、と思いました。

年の離れたいとこのおちびちゃんがいるのですが、その女の子も曽祖母の横に行ってお餅丸めるのを手伝おうとしていて微笑ましかったです。そういうのを見ると、小さい女の子がお餅丸めてる姿って微笑ましいからやらせたっかたのかな、と思ったり。

ですが、私はこういう田舎の昔の文化、大好きですが、その中に残っている男女差別は大っ嫌いだし、それを肯定したいとは思いません

それは文化だからと指摘しないことは、文化の保全なんかではなく、文化的差別を無視していることです。

差別は目に見える形が全てではありません、差別につながる世の中の仕組みがあって、さらにその後ろには差別につながる人々の無意識的な考え方や判断基準が潜んでいます。

そういった文化的差別にすぐ立ち向かうことはできなくても、違和感を感じて、その違和感を見逃さないことが非常に大切だと思います。

このお餅つきも、小学生の頃はそれが憤りであり、やるせなさでしたが、今この年齢になってやっと、その憤りが、男女という自分にとって変えることができない区分で分けられて、選択の自由が与えられていなかったことに対するものだったということがわかりました。

世界には様々な文化があり、その文化を残そうという動きがあります。文化を残すことは、その地域の特有性を保存するために大事なことだとは思いますが、そういった文化に潜む差別については慎重に考え、取り除いていかなければならないと思いました。

*お餅つき年々若い人手が少なくなってきているので、今年の年末もお餅つきするとしたら、手伝ってくれる人募集します。雑魚寝でいいなら寝る場所もあるよ、みんな連絡待ってます⭐︎


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