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競馬と寺山修司

高校時代、寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」など、彼の随筆を読むと、よく競馬の話が出てきた。彼は詩人、歌人、劇作家など様々な肩書に競馬評論家の顔もあった。
まあ、青森の偉人の一人である。

メジロボサツ、クモワカ、テンポイントなどの話がドラマチック、ときに悲劇的に描かれており、惹き込まれたものだった。
しかし、その頃は寺山修司はもういなかった(1983年 敗血症にて47才没)

親には苦労かけるが、私は東京の大学に行きたいと思っていた。寺山のように早稲田には行けなかったが、一浪で明治に引っかかった。居は幡ヶ谷の43,000円風呂無しアパートにした。

三年次から、杉並の和泉校舎から駿河台校舎のある御茶ノ水に移った。場外馬券場のある水道橋も近く、徒歩で行けた。

オグリキャップ、メジロマックイーン、ナリタブライアンなどで盛り上がっていた時期で、武豊や南井がスター騎手になっていた。

同級生の中には「競馬予想機を作った」といって 中退した奴もいた。当時は早稲田中退みたいで少しカッコイイなと思った。
彼は今どうしているのだろう。

京王電鉄で府中に行き、ハンチングを被り、出店のコップ焼酎と焼鳥を片手に、競馬の予想屋よろしく観戦したりした。
寺山の本にあった「オケラ街道」を歩きながら、猥雑な雰囲気を味わうだけで満足だった。賭けることもあったが、素人なので大した金にはならなかった。
父親が競馬で身を持ち崩しているので、そういう意識もあったかもしれない。

日雇いのアルバイトで年配の人と話すと、ほとんどの人が寺山修司を知っていたのには驚いた。「ああ競馬の解説の」という具合で、地元青森より有名な感じだった。

あれから30年ほど経つ。東京に行かなくとも、青森にいながらスマホで馬券投票ができるようになった。画面はグリーンチャンネルで観る。
昔の青森は場外馬券場すらなかった。

私の賭け方は3連複フォーメーションで100円を30点、3000円である。
まれに5万近くになったり、トリガミになることもある(笑)獲っても数千円だが荒れない限り、割と当たる。
まあ、ささやかな楽しみである。

今日は有馬記念(中山)だった。
イクイノックスとタイトルホルダーが人気を2分していたが、有力馬が多かったので難しいと思った。天候、馬場は良し。
しかし、有馬は荒れるという印象がある。

タイトルホルダーから3連複フォーメーションでやろうとしたが、15:24で〆切になってしまった。だが、フランスの凱旋門賞帰りで疲れていたのか、タイトルは着外になってしまったので、競馬はワカランと思った。

残りレースで3500円増やした。
まあ、ガソリン代か…

昔、物流会社で会った中国人には
「Mさんは大学でたから、いい馬に乗らなきゃね」と言われた。
大企業のことなのか、海外渡航のことなのか20代の私にはわからなかったが。広大な大陸人らしい言葉だと思った。

多くの駄馬に乗りながら50を超えた今は、
「無事之名馬」
と言いきかせて日々生きている。

「カモメは飛びながら唄を覚え、
人生は遊びながら年老いてゆく…
人は誰でも二つの人生を持っている」
                                            寺山修司
            (1973、日本中央競馬会CM)
https://youtu.be/vl__QKFqokI


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