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「脱埋め込み」への異議申し立て


どうしてどこもかしこも似たようなビルばかり建つのだろうか?

 「日本の超高層ビル」というウェブサイトがある。運営されているのは個人の方のようだが、その中に国内の超高層ビルを高さ順に写真付きで紹介しているページがある。

 ここに並ぶビルの写真をみていて思うのは、どれも外壁がカーテンウォールで形状は直方体という似たようなデザインをしていることだ。それでも2000年代の初めぐらいまでに竣工したものの中には「JRセンタラルタワーズ(10位;1999年竣工)」「東京都庁(11位;1991年竣工)」「NTTドコモ代々木ビル(12位;1997年竣工)」「六本木ヒルズ(15位;2003年竣工)」「新宿パークタワー(17位;1994年竣工)」「汐留シティセンター(29位;2003年竣工)」「電通本社ビル(31位;2002年)」「浜松アクトタワー(32位;1994年竣工)」など、それなりに個性的なデザインのものもなくはないのだけれど、2008年竣工の「コクーンタワー(43位)」あたりを最後に、以後に竣工した超高層ビルは基本的にシンプルな直方体の「ハコ」型のデザインに収斂しつつあるように見受けられる。

 おそらく、「ハコ」型のデザインは建築コスト的にも維持管理コスト的にもいちばん効率が良いのだろうし、できたビルを賃貸する上でも各フロアの形状が四角形というのがいちばん効率よく貸せるからだろう。一方で、外観デザインのユニークさは賃料にはほとんど反映されない。なぜなら個性的なデザインのビルだから高い賃料を払ってでも入居したいというようなもの好きなテナントはまずいないだろうからだ。

 また、フロア構成についても、低層階に商業施設、中層階にオフィス、上層階にラグジュアリーホテルと、どのビルも似たようなフォーマットになっている。これも不特定多数を集客する商業施設を足元に置き、一方で眺望を「売り」にするホテルを上層階に配置するのが収益性の面からベストだからだろう。

 つまり、超高層ビルのデザインやフロア構成を決定しているのは基本的に経済合理性だということになる。この傾向は、90年代後半に始まった不動産証券化やJ-REITなどのいわゆる「不動産の金融商品化」の流れと無縁ではないと思われる。不動産が金融商品として投資の対象になるということは、その収益性というか投資効率が問われるわけだから、オフィスビルの形状もそうした投資家の要求を反映したものとなっていくのは当然といえば当然だ。

失われる「建築のシンボル性」

 社会学者の松村淳氏は「建築の象徴性」という視点から同様の変化について記述している。

「かつて(だいたい1970年頃まで)の空間は場所性を志向していた。だからこそ、建築家の作風=署名と、シンボリックな外観を必要とした。そうして建てられた建築は規模こそ大きいけれど、地域のシンボルとして長く愛され続ける建築となった。しかし、建築にシンボリックな要素は次第に求められなくなっていく。かけがえのない建物から、交換可能な「ハコ」へと変わっていくのだ。では、なぜそうなったのだろうか?。それは、建築は、どれだけ利益を生むかが重要であり、そこで行われる経済活動を主軸としたアクティビティこそが重要になっていったからである。」

松村淳(2022)『建築家の解体』ちくま新書p.184

 たしかに、スター建築家・丹下健三の設計による赤坂プリンスホテル(「赤プリ」)はわずか27年でお役御免となって、東京ガーデンテラス紀尾井町という複合商業ビルに建て替えられた。まさに交換可能な「ハコ」だったということだ。

赤坂ブリンスホテル                東京ガーデンテラス紀尾井町

 いまや人々は建築物の外観(空間の外殻を覆う被膜)ではなく、その空間の内部を満たしているものにしか興味を示さなくなりつつあるということなのだろう。そしてその典型が、松村も例示しているショッピングセンター(モール)である。

「ショッピングセンターは、テクノロジーとデータによって構築されたアーキテクチャーをシェルター(建物)でパッケージした空間である。そうした空間の設計において、もはや建築家が関与できる場面はない。シェルターは頑丈で安く、効率的に建設できれば良い。それはゼネコンの建築士が設計・監理を行う。内部空間は、マーケティングの専門家やデータアナリストが顧客の動向を分析し、ゼネコンの設計士がそれを空間化し、インテリアデザイナーが表層の仕上げを行う。」

松村同書p.215

 ショッピングモールの建築デザインの特徴については、大山顕氏も「モールの本質は内装である」と述べている。

「たとえば都庁と言ったときに内装をイメージするひとはまずいないように、なにか建築物を思い浮かべようとしたときには、その外観を想起するのがふつうです。しかしショッピングモールは、外観が記憶に残らない。ラゾーナ川崎や越谷のイオンレイクタウンの建物をイメージしようとしても、全然思い浮かばない。代わりに想起されるのは内装です。…外部に対してはまったく無関心で、内装だけが整っている。」

東浩紀・大山顕(2016)『ショッピングモールから考える』幻冬舎新書pp.73-75

 ではその内装はどうなっているかと言うと、その「文法」は世界共通であると東浩紀氏は指摘する。

「重要なのは、世界中のモールが同じ文法でつくられているということです。シンガポールでもドバイでもミネアポリスでも、モールのなかだけはルールが統一されているので、フロアマップを見なくても どこになにがあるのかが直感的にわかる。」

東・大山同書p.32

 東・大山両氏が指摘する「内装が本質」で「統一化された文法」というショッピングモールの特徴は、モールに限らず近年の都市再開発プロジェクトにも共通する特徴だと私は感じている。

「場所」と「空間」、そして「脱埋め込み」

 松村氏は、こうした変化をイギリスの社会学者アンソニー・ギデンスの「場所(place)と空間(space)の違い」と「脱埋め込み」という概念を用いて説明している。(ちょっと難しすぎて自分の言葉にうまく咀嚼できなかったので、少々長くなるが該当箇所を引用させていただく。)

「空間(space)とは合理性や効率性が追求された「場」のことであり、「場所(place)」とは、自分自身を起点として広がりを持つ「場」のことである。…(中略)…「場所」が(自分自身の)身体を中心に認識された具体的な空間の広がりであるのに対して、「空間」では任意の点を中心として、そこから広がりを持つ抽象的なものとして定義できる。さらに言えば、「場所」は個人のアイデンティティに紐づいたかけがえのないものである。…(中略)…典型的な「場所」としては、生まれ育った家や近所の公園や学校や児童館、あるいは商店街の馴染みの店などが挙げられるだろう。一方、典型的な「空間」の例としては、郊外の巨大なショッピングモールやコンビニエンスストア、全国チェーンの店などを上げることができる。こうした空間の特徴は、消費を主目的としていること、そして、監視カメラや警備員によって厳重にセキュリティ管理されていることなどが挙げられるだろう。」

松村同書p.32、p.183

「近代的な個人は、それぞれがいる場所のローカルな文脈に左右されない。なぜなら標準化された時空間の中に位置づけ直されているからだ。それを、アンソニー・ギデンスは「脱埋め込み」と呼んでいる。近代以前は、江戸や京都など都市の時間と村の時間は異なっていた。ひと口に村と言っても、農村の時間と漁村の時間は異なっていた。人々は、それぞれが暮らす土地の固有性や産業と結びついた時空間を生きていたのである。それが近代化に伴い、時間と空間が平準化された。…(中略)…ニュータウンを例にとると分かりやすいだろう。ニュータウンは丘陵地を切り開き、宅地造成して、その上に住宅を建設している。ローカルな文脈は一切捨象され、◯◯台とか✕✕タウンなどといった名前がつけられている。そこに住まう人々は、もともとの丘陵地や森林が刻んできた歴史の文脈などを知ることもなく、そこで日常生活を送る。」

松村同書p.179

 自分なりに解釈すると、歴史とか文化とか個人の記憶とか、あるいはコミュニティといった特定の文脈に紐付けられるのが「場所(place)」で、そういう文脈から切り離されたものが「空間(space)」、そしてその「切り離し」の営為が「脱埋め込み」ということだろうか。

 そして、「脱埋め込み」が進む過程を通じて、建築物の外観デザインが果たす役割は後退していくということだ。「脱埋め込み」によって「空間」が「場所」から切り離されて平準化・効率化されていく中で、建築デザインがかつて表現していたシンボル性は特に求められなくなっていく。丹下健三というスター建築家の手になる、そして一世を風靡したあの「赤プリ」でさえあっけなく解体されてしまうのが今のご時世なのである(ちなみに、解体の理由は「施設の老朽化や客室の天井高が2.4mと低いこと、都心の一等地でホテル事業だけでは収益確保に限界があることなど」とされている。まさに経済合理性!)。

  昨今東京都心の各所で進む都市再開発もまた、その名に「再」とあるようにまさにこの「脱埋め込み」にほかならない。このような「脱埋め込み」のプロセスを通じて、ローカルなコンテクストから切り離された平準化・均質化された建築空間が量産されているというのが今日の東京の状況であると言えるだろう。
 
 もちろん「脱埋め込み」とは近代化・都市の発展における必然であり、それによって私達の生活は便利になり、ある意味で豊かにもなった。ただ、一方でそうしてローカルな「場所」から「空間」が切り離されて、収益性や効率性一辺倒で似たりよったりの開発がそこかしこで進められていくことを、人々は必ずしも全面的に受け入れているわけでもないように思われる。

「ここにしかない」 vs. 「どこにでもある」

 そんなことを感じさせられる最近の事例がふたつある。ひとつは西武池袋本店、もうひとつは神宮外苑だ。池袋については自分自身は土地勘がなく、また池袋という街にも西武池袋本店にも個人的にはまったくなんの思い入れもないのだけれど、多分問題の本質は、低層階の高級ブランドショップがどこにでもあるような家電量販店になるのはけしからんとかそういうことではなくて、かつて一世を風靡した「セゾン文化」の中心地たる西武池袋本店への「郷愁」みたいなものがあるのではないかという気がしてならない。

 もうひとつの神宮外苑も、樹木を1000本切るとか植えるとかそういう話ではなくて(もちろんそれも大事だけど)、またぞろどこにでもあるような商業施設・オフィスの超高層ビルを建てるんですか?という違和感なんじゃないかと思う。
 つまり、池袋も神宮外苑も、人々の心にローカルな「場所(place)」性がまだ残っているところなんじゃないかと思うんだよね。池袋では文化、神宮外苑では歴史と自然という、いずれも経済合理性というか資本の論理とは同列に論じられないものをそれぞれの土地が抱えているからではないか、と。

 だからどちらも「よりにもよってこの場所に」「なんでわざわざ」「どこにでもあるようなありきたりの施設を作るんかいな」と多くの人が思うわけだ。つまり、「ここにしかない」というコンテクストが色濃く残っている「場所」だからこそ、あえてそこを「どこにでもある」ような「空間」に造りかえようとする「脱埋め込み」に対して、少なからぬ人々が「異議申し立て」の声を上げているということなんじゃないかと私は思っている。

【参考文献】

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