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鳥獣戯譚ー鷺の夫婦


鷺の夫はふと空を見上げた。
狩の休憩中だった。
空を見上げることなど、普段はほとんどない。
その時は、ただ、何となしに空を見上げた。
初夏の田畑の東、冬に遠く夏に近い雲が山の端から広がっていた。


あのこはどうしているかしら


すぐ隣、妻がポツリと呟いた。
最近あまり、元気のない妻の言葉に、


元気でやっているさ


夫はそうとだけ答えた。
巣立っていった息子がどこを狩場として生きているかを、夫婦は知らない。
知らなくて当たり前だった。
自分達もまた、そうして巣立ってきたからだ。
もうずいぶん昔のことだから場所も定かでは無いが、親鷺の狩場だったところには、今頃違う夫婦がいることだろう。
鷺とはそういうものだ。


見上げていた空に、何処からかきた若い鷺の姿を認めた。
息子と同じくらいだろうか。
羽を広げ滑空する、風をさくわずかな空気の揺れも思わせない、静かで美しい姿だった。

そういえば、妻の飛ぶ姿も美しかった。

鷺の夫は、昔のことを思い出した。
若い時分、妻は誰よりも白く、美しい羽の鷺だった。その輝くばかりの白さは空からも地上からも目を引いた。
それで、求愛したのだ。
その姿を思い起こすうち、夫は、ここ最近、妻の飛ぶ姿をみていないことに気づいた。


おまえ、具合がわるいのか?


そうたずねると、鷺の妻は一寸目を瞬いてから、ふるふると頭をふった。


いいえ、でもなんだか、すぐ疲れてしまうの。
だから最近、狩は近くの、あっちの田んぼだけで済ませていたのよ

しかし、あすこは前の狩場だったから、あまり食べられるようなヤツは残っちゃいないだろう?

数は少ないけれど、大丈夫、わたし一羽くらいなんとかなるわ。
それに今日は、久しぶりにあなたと一緒に狩にこられたから、けっこう食べているわよ

……そうなのか?

ええ、だからお腹がいっぱいなの、もう戻ることにします。
わたしはもういいのよ、あなたはもう少しちゃんと食べていらして

……わかった、じゃあ無理はするなよ


とだけ言い含めて、夫は別の狩場に移動することにした。
ぬるりとした泥を払うように、だけれど波を立てないように脚を捌き、山からの風に乗せるために羽を広げた。
うわんとした浮遊感ののち、ちらと眼下を見やれば、妻もまた、ゆっくりと羽を広げていた。

南へしばらく。
もうひとつの狩り場へ降りた。
山間を縫うような道路の脇、真ん中にぽつんと松の木の佇む田圃がある。
ここは、妻に出逢った頃からの馴染みの狩場だった。

何やら意味は分からぬが、ヒトがこの松を大事に思っているらしく、この田圃にだけ、根本をまあるく囲って残してあるのだ。
他の田畑は木も草も石も根こそぎ払うのに不思議なものだ。
しかし、この松の影が良い具合になっていて狩りがしやすい。
太い幹から四方へ伸びる枝の影、そこを狙って場所を定めた。

あとはただ、ひたすら、じっと待つ。

道路の方、大きな塊が音を立てて走っていった。
時折地鳴りに似た音を立てていくものもあるが、あの走っていく塊はこちらへ来ることもないから、いつも、気にはかからない。
じりじりと強くなってきた日差しが松葉の間を抜けて降り注ぐなか、鷺の夫は蛙をなん匹か平らげることができた。

そうして、西の方、まだわずかに雪の残る山の向こうへと日が傾き始めた頃、鷺の夫は羽を広げ首をくっと曲げて南へと飛んだ。
妻と狩りをした田畑を過ぎ、そこからさらに少し東へ。
こんもりと小さく盛り上がった山の、杉の木ばかりが聳え立つところまできて、ゆっくりと高度を落とした。
近隣の鷺たちも戻ってきたらしく、あちらこちらの巣に姿がみえている。
端の方の、背はあまり高くないが他に比べて太い杉のあたり、寝床にしているそこに、先に戻っていた妻の姿を認めて、夫もゆっくりと降り立ち、羽を休めた。


おかえりなさい


早かったですねと言われて、夫はあぁと答えた。たしかにいつもより少しばかり、早くに帰ってきたのだ。


お前と別れた後、あの松のある田圃に行ってきたよ


まあ、懐かしい、昔からお気に入りの場所でしたよね
松の木は変わらずあるの?


あぁ変わらずにあったね、相変わらず枝の下が良い場所だったよ


あら、あなた、あの松の木の上で羽を休めるのがお好きだったじゃありませんか、今日は狩だけしてらしたの?


たしかに、鷺の夫は、あの松の木のてっぺんにとまるのが好きだった。
地面が遠いのが心地よく、羽を広げずとも空に近い、この場所こそが自分の居場所だと。
鷺の夫は、夫になるよりも前に、確かにそう思っていたことを思い出した。

よく覚えていたね、俺も忘れていたのに

忘れっこありません、わたし、あの松の上で、すっと首を伸ばしていたあなたに見惚れたんですから

そう、だったのか

それも知らなかったよと答えて、鷺の夫は目を瞑った。
何やら羽根がむず痒いような、くしゃみがでそうな、そんな心持ちだったから、その日はそのまま、妻とは話さずに、日が沈むと共に眠りについた。




日が昇る、わずか前、鷺の夫は目を覚ました。

隣を見れば、鷺の妻はまだ眠っていた。
いつも自分より早くに目覚めている妻が、体に嘴を預けて眠っている様を目にするのは、随分と久しぶりだった。


なあ、今日は一緒に、あの松の木の田圃へ行かないか
調子が悪いなら、休み休み行こう


そう言って、そっと寄せた嘴の先。

妻の羽も体も、随分とひんやりしていた。
朝露ほどの体温を感じた夫は、じっと、妻を見つめた。

……なあ、

さらに声をかけようとしたのを、言葉途中でぐっと堪え、鷺の夫は寝床から出た。
そのまま、妻が最近狩をしていたという、山の麓へ飛んだ。
まだ薄明かりの空に羽を傾け、滑るようにして、音もなく麓の田圃に脚をつける。

からからに乾いた土が爪の間に食い込んだ。
辺りには稲とは似ても似つかない草ばかりが茫々としげっている。


ーわたしはもういいのよ、あなたはちゃんと食べていらしてー


水すらない、乾いた田の土を強く蹴って、鷺の夫はその場から舞い上がった。

そうして、ひと声、ただひと声だけ、大きく鳴いた。


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