暮らしを育てる
目覚めのいい朝だった。目覚まし時計よりも先に起きることができるとなんだか気持ちがいい。
こんな日は散歩に行こうと思い立ち、家を出る。散歩は目的地を決めることなくふらふらとできる感覚がとても好き。それに考えごとをするにはもってこいだ。
「まちって優しいよね」
と友達に褒められたことをふと思い出した。もちろんそれは嬉しいことなのだが、優しい人と形容されたところで、私だって優しくない時もある。それに、誰かと比べると優しくないじゃないかって言われるかもしれない。
それにもし100人の人に、わたしがどんな人かと聞くと、優しいと言う人もいるしその反対に優しくないと形容する人もいるだろう。面白い人、寡黙な人など全く違う形容をする人もいるだろう。
わたしは自分のことを自信がなくてシャイな人と認識している。そうなった時に、どれが真実なのか分からない。どれも真実ではないかもしれないし、全て真実かもしれない。ひとつの概念や分類の中だけで、果たしてその人のことを表現できるのだろうか。
ある人からすると素晴らしいことでも、他の人からすると最低なことなのかもしれない。ある人からすると面白くても、他の人からするとつまらないかもしれない。だからと言ってその人の面白さが損なわれるわけではない。面白さの基準がバラバラなのかもしれない。面白さの基準は同じでも面白いと思う人は違うかもしれない。
違う人との間での違いも認めないといけないけど、自分の中での違いも認めていいと思う。例えば優しいと言われている人でも優しくない時もあっていいし、謙虚と自称している人でも自分の意見を押し通すことがあってもいい。
そんなことを考えていると家の前に戻っていた。
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風が気持ちよく吹く静かな午後に、コーヒーを淹れながらゆったりと過ごしていると柔らかな考えがポワポワと浮かんでくる。
優しい考えはふわふわと浮かんでいくものだ。苦しい考えはゆっくりと沈んでいく。
どちらが正しいとも言えないこの世の中で時には浮かれることも必要だ。
忙しい毎日の中であらゆる代替手段を用いて生活を成り立たせることも必要だ。私たちは毎秒のように様々な物事に優先順位をつけながら暮らしている。
豆からコーヒーを淹れるより、早く手軽にコーヒーを飲む方法は他にたくさんある中であえて手間や時間をかけることで私の生活や暮らしを大切にできた感覚があった。
「コーヒーを淹れて飲む」という時間を大切に育てることで私の暮らしがそっと支えられているような感じがした。
私自身が私の暮らしを大切に育てたという実感そのものが大切なのかもしれない。
私の心を大切に、私の体を大切に、私の時間を大切に、私の暮らしを大切に。
モノクロの世界だっていい、カラフルな世界だっていい、あなたが大切に色を塗ってできた世界ならばそれでいい。あなたがその時間を大切にできたならそれがいい。
それだけで現実が劇的に変わることはないのかもしれない。それでも現実には抗えないから、暮らしと生活の小さな工夫で誤魔化していくことも時には大事だ。