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世界の子供の実状

(平成五年十二月)

 A氏がこういうことを話したことがある。
 南米での出来事だと思うが、子供がしょっちゅう行方不明になり、たまたま発見された子供は顔にグルグル包帯が巻かれていた。彼はすでに両眼を失っていた。行方不明になった子供が死体で発見されることはとくに珍しいことではない。そして、そのからだからは肝臓がなくなっていたり、腎臓がなくなっていたり、必ずどこかの「部品」が切り取られているという。
 貧富の差が激しい国では、お金のある人はお金のない人からからだの一部を買うことができるというわけである。しかし、支払われたお金がその器官の持ち主かその家族に行くことはまずない。子供をどこかからさらって来てそのお金持ちのために「ひとはたらき」した者の手に入るのである。
 角膜は移植されても、ほかのからだの器官に比べると最も拒絶反応の起こりにくいものだと言う。平和な国ニッポンにいてはこんなことは信じられないような話である。しかしこれが地球上での人間の行為の現実の側面なのである。 子供をさらう者が悪いのか、お金を払うことでからだの不備を補えるお金持ちが悪いのか、そういう現実をゆるしている政府が悪いのか、その政府を見逃している国連の責任とどんどん責任の行方の範囲が広くなってくる。A氏はこのときにも、こういう行為もまた「利己的な遺伝子」を残すための最も短絡的な、直接的な人間の行動であることを指摘した。残酷とか理不尽とか、そういう形容を超えた、もっと大きな流れとも言うべき人間の行動である。
 こういう悲惨な例もさることながら、今世界には二億人の働かされている児童がいるという。インド、南アメリカなどに集中している。彼らはおとなも及ばないような過酷な労働条件で働かされている。そういう現実を撮影したフランスのテレビの番組を見る機会があった。いかにひどい状態にあって も、人間は生きていくためには手段を選ばず 「生きよう」とするものなのであろうか。 小さな子供にさえも、そういう生きるための見えざる意志が働いてそう行動させているのであろうか。先の、お金持ちの犠牲になる子供はもはや彼の遺伝子を残す可能性を早くももぎ取られている。
 冷徹に、人間の行動としてこれらを見るにしては対象が子供となると、少しその基準が厳しくなる。それはなぜか。
 人間のおとなが見て「かわいい」という感情を引き起こすものの要因として、まず小さいこと、次にバランスの悪い状態(たとえば頭がからだに比して大きいとか、動きがぎこちないなど)そしてチョコチョコ動くということがあげられる。子供はある年齢までその要素を備えており、未完成の人格を途中で奪ってしまうようなことになると、当然観察者に少なくない抵抗感をもたせることになる。
 土曜日の午後というと決まってお店に遊びに来る女の子たちがいる。わたしがひとりでお店番をしているところへ来て話したり絵を描いたり、ときにはごみ箱の中から野菜くずを拾い出してレストランのシェフ気取りになったりもする。この遊びに彼女たちは熱中する。彼女たちを見ていると、テレビの映像で見た生きるためにごっこ遊びでなく働かざるを得ない同じ位の年ごろの子供たちに思いがいく。お店屋さんになりたいと言ったり、お料理する人がいいと言ったりする彼女たちは、まだまだ生きることの厳しさを知らない。いつかおとなになってこの頃のことを思い出すときに、自分たちの国以外にはこんなに不幸な大勢の子供たちがいたのだと、知るチャンスのある子供はまだ幸せというべきかも知れない。
 「徹子の部屋」で年に一度くらいは放映される飢える子供、病気の子供、死に瀕している子供などの実状は、いつもわたしになにかしかのお金を出させるにじゅうぶんな役目を果たす。お金でしか助けてあげられないのは申しわけないような気がするが、何もしないで「お気の毒ねえ」で終わるよりはいくらかマシかとも思う。

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