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神隠し、約束を舞った、恋探り。~二枚目天狗たちの花嫁争奪戦~ 第五話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

第5話「舞姫」


 先に翼を出して飛んで行ってしまった彼らに続こうとして、身体のサイズがより大きい大天狗の相模坊さんは私が唖然として驚くような巨大な翼を出した。
「……聖良さん。この城の中に居れば、問題はないと思いますが……白蘭! こっちへ! 彼女を安全な場所へ連れて行け」
 私は彼が自分の娘を呼んだ声を聞いて、私は微妙な表情になってしまったと思う。だって、ついこの前に私は白蘭さんに、わかりやすく嫌がらせを受け、理不尽な理由で罵倒されたから。
 けど、こんな緊急事態の中で、彼女からされたことを告げ口する気にはなれない。父に呼ばれて渋々やって来た様子の白蘭さんと、戦いへと赴く相模坊さんを見送った。
「あんた。踊りを踊れるんだね。ねえ、那由多にしたら? 那由多は、あの戦乱の時に目の前で舞姫を亡くして以来、ずーっと目が死んで本当に元気がなかったけど……あんたがここに来てから、まるで生まれ変わったみたい。亡くなった人に、操を捧げるなんて、不健康だし」
「……祈りの、舞姫?」
 私は白蘭さんの口にして名前を聞いて、妙な胸騒ぎを感じた。那由多の過去の恋の相手。その人を表すという言葉だと、ただ悟っただけではなくて……心の奥から、何かが呼んでいるような感覚がした。
「乱暴者の九頭竜を鎮めるために、呼ばれた人の舞姫よ。その時代では、有名だったみたい。知らないの? けど、結局は鎮めるのに……最後の最後で失敗して、九頭竜に食い殺されることになったけど。彼女のおかげで、かくりよに平和が訪れた。那由多は、彼女をこのかくりよに連れて来た案内人を任されていたから。あれから結構長い間、とても見ていられないくらいに、憔悴して……本当に、可哀想だった」
「……案内人……」
 恋した彼女をかくりよへと連れて来たのは、那由多だった。そして、彼女は目の前で……なんていう、惨い悲劇なんだろう。
「那由多だって、大天狗の息子の一人で。性格だって、融通が利かないけどすごく良いわよ。多聞ほどではないけど、顔も良いし……」
 妖狐族と交戦中の今。この城の長い廊下には、当たり前だけどほとんど人影を見ることはない。ここで働く皆は、危急の事態に何かの役割をこなしているはずだ。
 そして、私はもう……那由多のことを売り込む白蘭さんに、本当のことを言わないままで居ることに、耐えられなくなってしまった。
「あのね。白蘭さん。内緒にして欲しいんだけど、私もう。那由多さん……那由多を既に選んでいるの。だから、私に多聞さんを取られたくないと思うなら。安心して良いよ」
 私がそう言えば、白蘭さんは驚くだろうと思いきや肩を竦めて笑った。
「……だと、思った。なんか、今日は二人の間の空気が、恋人同士みたいな感じだったから。那由多はあれから長い間、暗い表情だったのに。そわそわしてて、なんか可愛いし。死んだ人を自分も死ぬまで、ずーっと思い続けるなんて。私は不健全だと思うから……那由多を、幸せにしてあげて」
 私はこの前に会った時とは、全く違う様子の白蘭さんが不思議だった。脱衣所で、私を睨み付けた時とは、まるで別人のようだった。
 私が那由多を選んでいて、多聞さんを選ぶことはないという……そういう、ことだけではないと思ったから。
「白蘭さん。何かありました?」
 問い掛けには応えずに、彼女は微笑んでから私より先を歩き始めた。顔は見えない。白くて綺麗な長い髪が、彼女の歩調に合わせて揺れた。
「……私ね。自分のこと、ずっとずっと嫌いだったの。自分のこと、嫌いだったから。自分を決して好きにはならない多聞に、ずっと執着してた。絶対に好きにならないから、安心してた。自分を好きな人なんて、良くわからなくて嫌悪してた。こんな自分を好きな人なんて、どこかおかしいんだって」
「そんなこと……」
「でも、そうじゃないって……わかった。私の悪いところも、ずっと見てくれてて……それでも好きって言ってくれた人が居たから。多聞に迷惑を掛けるの……もう止めようって、思ったの」
 彼女が言う、白蘭さんに告白した人に予想がついてしまった私は、思わず飛び上がってしまうくらいに嬉しかった。伽羅さん。ちゃんと言ったんだ……勇気を出して、好きだって伝えたんだ。良かった。
「けど……多聞は、本当に好き! 幼い頃から、ずっと好きだった。迷惑掛けているって、わかっていても。それでも、止められないくらいに好きだった……けど、私だってわかってた。何の罪もない多聞に近付く女の子を脅して回っても、何の意味もないってこと」
「けど、私もそれはわかるよ……多聞さん。素敵だもんね。あんな人が傍に居たら、好きになっちゃうよね」
 私は多聞さんを好きになることはなかったけど……もし、あの中で那由多が居なかったら、それでも好きにならなかったかと言われると肯定は出来ない。
 だって、とても素敵な容姿を持っている上に、優しくてさりげなく気遣いが出来る。言葉選びも上手で、纏う空気も柔和。
 そう。自分の好きな女の子を傷つけたくないと思うあまりに、ついつい甘やかしすぎちゃうくらいに。彼は優しいのだ。
「けど、那由多を選ぶんだね……あの……私、幼馴染だから。言うんだけど……那由多を、もう傷つけないであげて。あの子。もう十分に傷ついて……辛い思いを、味わっているから」
 言い辛そうにする彼女は、多分……彼の前の恋の相手を、私がどう思うか心配しているのだと思った。那由多の心についた傷は深く、まだ癒えていないに違いない。長い長い時を経ても、尚もまだ。
「うん。白蘭さん。心配してくれて、ありがとう……いっぱい、那由多のこと。教えてくれてありがとう。彼からは……事情は、聞けないから」
「……そりゃそうだよね……でも、あんな那由多の明るい顔を見たら、天狗族の皆はあんたを歓迎するよ。だから……」
 白蘭さんは私にそう何かを言い掛けて、一瞬黙り込む。彼女の赤い目が、薄暗い廊下で、強く光った。
「なんで、こんな城の中に……薄汚い狐が、一匹入り込んでいるの? 天狗に袋叩きになる覚悟は、もちろんあるわよね?」
 私の背後に居る誰かに対し白蘭さんが出した声はさっき話していた時より数段低くなっていて、思わず身を竦ませてしまった。
 き……狐? 相模坊さんは、さっき出て行く前に城の中なら大丈夫だと言ってた。なのに、妖狐族が入り込んでいる……? どういうこと?
「大天狗香川白峰山相模坊の、ご息女より。素敵なご挨拶頂きまして、感激しきり。ただ、少し誤解があるようで……俺は別に、入り込んだ訳ではありません」
 飄々とした声を聞いて、私はバッと後ろを振り返った。
 そこに居たのは、ごく普通の和装の青年だった。
 ただ……ちょっとだけ、妙に角度のある釣り目だとは思ったけど。狐が人型になっていると思えば、それも不思議ではないのかもしれない。
「……はあ? 何の話? ああ……もしかして。前に、伽羅に捕らえられた狐の内の一匹? ふうん。お父様の、牢の結界を破ったんだ? あんた。これ全部、ここまでの流れも、謀ったわね? 何が目的? 天狗族を、本気で怒らせてまで。こんなことをすれば、他地方の大天狗だって黙ってないわよ……一体、何がしたいのよ」
 脅すように言った白蘭さんは、自らが戦闘態勢であることを示すように赤い瞳を輝かせながら、身を竦ませたままの私を庇うようにして前に出た。
 白蘭さんの強い言葉など歯牙にもかける様子を見せない彼は、飄々として肩を竦めた。
「はは。天狗はたまに人の娘を、花嫁として攫って……大事にする……天狗の嫁取りは、久しぶりじゃないですか。知っての通り。俺たちは、天狗が嫌いなんでね。はしゃいで楽しそうなところに、水でも差してやろうかと。そう思っただけですよ」
 あくまでにこにことした明るい顔で、とんでもなく酷い事を言った彼に、私は背筋にぞくりとした寒気が走った。
 なんだか……とてもまともな思考では、ない気がするのだ。
「本当に、妖狐は性格悪いわね。嫌いな天狗が楽しそうだと、邪魔をしたくなる? あっきれた。ただの、子どもじゃない。お生憎様だけど、これからも楽しくさせて貰うわ。嫌いな一族が幸せな様子を指でも咥えて、見てれば良いわよ。本当に、可哀想な狐たちは」
 顔を顰めた白蘭さんは、そう冷たく言い放った。
「……うん。まあ、事前情報通りだったな……相模坊の娘白蘭は直情的で、感情に任せて物を言う。そして、周囲の幼馴染が異性ばかりだったので一人甘やかされ、自分が煽られていることすらわからないバカか」
「は……? なんですって?!」
「あのー、敵側の俺も。こんなにも甘やかされたお姫様を見れば、少し心配になるなあ。この状況でさ……こうして出て来た俺が単独だと思うのって、絶対におかしくない? あの時に、豊前坊の息子が捕らえた妖狐の数を覚えていたら……もし、俺だったら、自分が一人しか居ないと見れば、即刻大事な人の娘を連れて逃げてるけどねえ……もう。遅いけど」
「っ……聖良さん! ちょっと! 返しなさいよ!」
 私は白蘭さんから名前を呼ばれても、返事を返すことが出来なかった。背後から私を捕らえている人に、口を塞ぐように大きな手を当てられていたからだ。
「っ……んん---!!」
 とにかく見知らぬ誰かに後ろから手を回されて身動き出来なくなって、不快で堪らなかった。
「ちょっと! その子に手を出したら……わかっているんでしょう? 私たちは絶対に許さないわよ」
 赤い瞳が燃えるような白蘭さんは、怒りの余りに手に輝く何かの力を集めているようだけど、それは放てない。だって……きっとそれを当てたい人の前には、盾のようにして私が居るからだ。
 白蘭さんの様子からして、きっと彼女だけなら。この妖狐族二人が居ても、大丈夫だったのだ。けど、私には自分を守る力も持ってなくて……ただ、自分が攫われていくのに、抵抗する事も出来ない。
 どうしよう。那由多。あの人を、もう悲しませたくはない。
「そのくらいの脅しで、止まるようなら。そもそもこんな事しないって。相模坊はかくりよの中でも、有数の人格者で知られてるが……娘を甘やかすと、ろくなことにならない見本だなー……はいはい。じゃあ、お姫様は存分に怒られてねー……俺たちは、任務完了」
「ちょっと……!! もう!! なんで、誰も帰って来ないの!?」
 白蘭さんの悲鳴のような声に、私の身を確保した人はとても低い掠れたような声で応えた。
「九尾狐が出て来ているのに、何の準備もなかった天狗族は総力戦にならない訳がない。そんなこともわからないのか。女を甘やかすと、本当にダメだな……行くぞ」
「待ちなさいよ! 伽羅!! 多聞!! 那由多!! もうっ!! なんで、こんな時に居ないのよ!!」
 何かふわりとした毛のような柔らかい物が手に触れて、私は驚いた。
 彼らは、人型のままでぼんやりと光る狐の耳と尻尾を出していたからだ。ゆっくりとした速度で、私の身体は背後の居た彼と共に、宙へと舞い上がり始めた。
「ははは。これで、天狗の花嫁、確保ー! 悔しがる奴らの顔を、想像すると……気持ち良い。嫌いな奴への嫌がらせは、本当に……楽しいよねえ。癖になるわ」
 遠い遠い向こうの方で、光が瞬き何か戦いの音がする。私と妖狐族の二人は、そちらを避けるように違う方向へと向かって飛行した。
「ははっ……噂で聞いてた通りに、まじで娘は能無しだったな。相模坊は有名な人格者だろうが、一人娘を甘やかした挙句に、自分の名前に泥を塗るのか。ああいうバカは優しくし過ぎると付け上がり、生まれ付きちょっとした能力を持っているだけなのに、自分こそが一番に優れているという。とてつもない勘違いをするんだ。やっぱり子どもは、厳しく育てなきゃなー……優しくし過ぎてバカに育つと、とんでもない間違いを仕出かす」
「あの女だって……一応は、大天狗の娘だぞ。空を飛んで天狗の幹部に、連絡されてしまえば……」
 光を放つ尻尾でバランスを取りつつ空を飛ぶ低い声を持つ妖狐の男は、捕らえた私の腰に回した片腕の力を強めた。
 今は落ちたら即死の高度だというのに、ここで暴れたらどうなるかくらい私にだってわかっていた。
 これから、自分がどうなるかわからないけど。絶対に死ぬわけには、いかない。だって、私が死んだら……那由多は……二度も、絶望の奈落の底を彷徨うことになるのだ。
 だから、死ねないと思った。何があっても……また彼に会うまでは。
「だんじょーぶだいじょーぶ。俺らの閉じ込められてた結界を、反言で返しといたから。あのお姫様が父親の緻密な結界を力任せになんて、破れる訳がない。時間を掛けて一言一言根気良くやるしかない……こんなに、思い通りになって良いのって感じだけど……花嫁さん。ごめんね。天狗より、美形の妖狐も居るからさー。お姉さんもそっちの方が好みかもしれないよ?」
 にこにことした表情で私の顔を覗き込んだ妖狐に、私は軽蔑の視線を投げた。
「……嫌がらせで花嫁を攫うような一族と、結婚なんてしたくない」
「ははは。けど、お姉さんだって人の世から攫われて来たんじゃないの? 天狗の嫁攫いは、かくりよでも有名だよ。あいつら、種族的に女が出来にくいんだよ。だから、産まれながらの女天狗も少なかったでしょ?」
 私はかくりよに来てから見掛けることがあまりなかった女天狗の人数の少ない理由をこんなとことで知って、驚いた。そっか……だから、人の娘を攫って、花嫁にするんだ。
 私は偶然山の中で会った貴登さんに美形天狗相手の乙女ゲームのような状況のセールストークに乗せられて、自分で攫われたんだけど……。
「私は自分の意志で攫われて、かくりよに来たんです。美形の天狗三人に取り合われて、満足しています。相模坊さんのお城まで帰してって言って聞いてくれるとは思えないけど、私は天狗と結婚することを望んでるから」
「へー……面白いねえ。自分で天狗に……っ」
 私が目の前で出来た事を理解する前に、また揶揄おうとしたその男は強い力に押しつぶされるようにして、地面に落ちて行った。そして、逃げようとした男を追い掛ける茶色の影。あの翼の色は、きっと伽羅さんだ。
 そして、私を捕らえている男が慌てて速度を速めようとしたけど、無駄だった。そちらには多聞さんが美しい大きな翼を広げて……まるで待ち構えるようにして居たから。
「多聞さんっ……!」
 私の呼ぶ声を聞いて、彼はにっこりと微笑んだ。戦いの途中抜けて来たのか、彼の来ている着物にはところどころ黒い焼け焦げが残っていた。
 すぐ下からも、戦う音が聞こえる。けど、あまりに速すぎて私は目で追えなかった。
「すぐに……大人しく引き渡せば、温情ある処置にしてあげるよ」
「こうなれば……元より、逃げられると思っていない……何故、わかった?」
「部外者の妖狐が、知る由もないが。僕たち三人は、花嫁争奪戦に参加する前に。彼女の居場所を知ることの出来る、特殊な術式を身に付けている。前にもあったんだ。不届き者に、無防備な花嫁が狙われるのはね……まあ……僕は、一応。本当に温情のつもりだったんだよ。君がすぐに……引き渡せばね……」
 多聞さんが意味ありげに上を見たので、私とその男はつられるように上を見た。
 そこには、翼が黒い空を覆ってしまうような……巨大な鳥。白い月光は、その身体を取り巻くような燐光を放つ役目をしていた。
「那由多、怒るのはわかるけど……程々にしなよ」
 私を捕らえていた男が言葉を失っている隙に、多聞さんは私の身体を取り返し、すぐさまに城の方向へと飛行を始めた。
「えっ……!? 多聞さん、あれは……あの鳥は!?」
 何が起こったか全く事態が飲み込めない私が発した声も、風の音に邪魔された。けど、私を胸に抱いていた多聞さんには聞こえたらしい。
「あれはね……僕らの、祖となる存在。竜を常食とする、神獣。召喚したのは、那由多。妖狐族二人相手に、あれは完全にやり過ぎだけど……まあ、聖良さんを攫われたから。あいつの持っている過去を思えば、俺たちも理解は示すよ」
「……那由多が。けど……あんな……」
 私が言わんとしていることを、多聞さんはわかってくれたらしい。
 だって、世界を滅ぼすために現れたと言われても、納得できるほどに圧倒的な存在だったから。
「うん。妖狐を黙らせるだけじゃなくて……あのまま妖狐族の里だって、壊滅出来るだろうね。あいつは、前に目の前で恋した人を喪い、絶対に次は大事なもの守れるように強くなると決意し、眠る間も惜しんで修験道の修行をした。そして、あれを喚び出せるまでになった。その人との約束で……後を追えなかったからね。忘れられない辛さを、少しでも薄れさせるために必要なことだったんだ」
「那由多……」
「けど、あれ使ったら。多分、那由多は、何日か使い物にならなくなると思う……聖良さんが、看病してあげてよ」
 背後でまるで嵐の中のような大きな風のうねりが、那由多の底知れぬ怒りを表すようにして大きな音を立てた。
 結局、那由多の喚び出したとてつもない存在を前にして、妖狐族は形勢不利と見てか、九尾狐は子分を引き連れてさっさと帰ってしまったらしい。
 ちなみに父親である相模坊さんから、私を守るようにと言われていた白蘭さんは、何か透明な壁のようなもので閉じ込められていたので、私と一緒に帰って来た多聞さんに出して貰った。そして、泣いて謝られた。
 けど、悪いのは意地の悪い妖狐族のせいで、守ってくれようとした彼女が悪い訳でもなんでもない。
 天狗の花嫁を攫うということが、妖狐の彼らにとってどんな良いことになるのかはわからないけど。悪趣味なのは、確かだし。
 私はあんなにまで多くの神通力を使ってしまったという那由多が、ただただ心配だった。
 自室でそわそわとしつつ彼が帰って来るのを待っていたら、伽羅さんが那由多を担いで入って来た。
「あ。聖良さん……那由多の神通力、もう空っぽだから。当分身体も動けないし、悪さとかも出来ないと、思うからさー。相模坊に特別に許可貰って、ここに居ても良い事になった。良かったら、看病してあげてよ。聖良さんを助けようと思って、本当に……死にかけだから」
 伽羅さんは私の部屋担当の小天狗たちが慌てて用意をした布団の上に、那由多を寝かせた。
「死にかけ!? だっ……大丈夫なの!? お医者さんとか……」
 死にかけと聞いて、慌てた私に伽羅さんはにやっと笑った。
「俺ら天狗の神通力の回復方法は、時間薬。三日くらい寝てたら、回復するよ」
「っ……良かった。よかったぁ……」
 涙を零して那由多の無事を喜ぶ私に、伽羅さんは揶揄うような表情で続けた。
「もし、すぐに回復させたいなら。一つだけ方法あるけど。聞く?」
「え!? うん! 聞きたい!」
 そんな方法があったのかと目を輝かせて聞いた私に、伽羅さんは大きく頷いて言った。
「他の天狗から、神通力と一緒に体液貰ったりしたら回復するけど……うん。まあ……那由多も、同性嫌がるだろうし……女天狗とかの、異性とかなら……」
「……それは……」
 嫌だ。私は確かに嫌なんだけど、それをはっきりと言ってしまうことに抵抗はあった。だって、私の我儘で、那由多を瀕死のまま置いておきたくないし……。
「……伽羅。もう良いから……出てけ」
 私は背後の布団の中から、掠れた低い声が聞こえて振り向いた。
「那由多!」
「……神通力の受け渡しは、俺ら天狗は伴侶以外にはしないから……騙されないで」
 伽羅さんに揶揄われたと思い、彼の居る方を振り向こうとしたところで、タンっと襖が閉まる音がした。怒られる前に、要領良く逃げた。
 けど、もうそれはどうでも良かった。私は那由多の隣まで行って、彼の大きな手を握った。
「私のために。ありがとう」
「……聖良のためなら、なんでもする」
 気が付くと、私たちは自然と唇を合わせていた。身体が動かない那由多は、動いていないはずなんだけど。私には、そうしようとしてそうした記憶はなかった。
 それくらい、自然な流れるようなキスだった。触れるだけで終わって、離れれば優しい漆黒の目がこちらを見ていた。
「あの……本当に、凄かった。私、信じられなくて。驚いたよ。あれって、天狗族でも……大天狗でも、あまり出来る人が居ない。それくらい、凄いことだって多聞さんに聞いた……」
 天狗族の大天狗と言えば、強大な力を持つがゆえに、広いかくりよでも指折り数えられるほどに恐れられ敬われている存在らしい。彼らは八人居るらしいんだけど、その中でも今日那由多がしたことを出来る人は少ないらしい。
 だから、那由多は大天狗の一員になれるくらいの能力を、もう既に身に付けているのだ。いずれ彼は、父親の名である京都鞍馬山僧正坊を受け継ぐんだろうけど、それにしたって……強過ぎた。
「……俺は、もう二度と大事なものを失いたくない。その一心で、神通力を高めた。妖狐族なんて、あれを出さずとも、退けられたんだけど……俺たち三人には、争奪戦参加にあたって、特殊な術式を身に付けている。聖良に敵意ある者に奪われたと、知った時に口が勝手に陀羅尼を唱えていた。やり過ぎだって、怒られたけど……頭に血が上って、もう止められなかった」
 愛する人を再び失うと思って、もう止められなかったという気持ちは痛いほどに伝わって来た。どれだけ、過去に愛する人を失って彼が傷ついてしまったのか。その辛そうな目を見れば、理解出来た。
「ごめんね。心配かけて……白蘭さんは、悪くないんだよ。妖狐が現れて危険だと気が付いた時点で、狙われている私が逃げるとか……良い判断が出来れば良かったんだけど……」
 あの状況で最善を尽くしたかと言われれば、私は怯えておろおろとしているだけだった。あの状態でもなお守ってくれようとしていた白蘭さんを、責める気持ちにはなれない。
「戦いとは無縁だった聖良には、わからないと思うけど……逃げない方が正解だよ。身を隠す障害物が少ない屋内では、特に相手に背中を向けて逃げない方が良い。白蘭は……まあ。俺も甘やかした一人だと言われれば、同罪だ。女天狗は数も少ないし、幼い頃から知っている妹のようなもので情も湧いていた。叱るべき時に叱れなかった俺たちにも、責任はあるよ」
 那由多は、どこか遠いところを見るようにして部屋の灯りをぼんやりと見た。そして、私は思い出した。那由多はその身にある神通力を使い果たし、本当に疲れているのだ。
 まったく気遣いの出来ていなかった自分を恥じて、私は彼のさらりとした黒髪を撫でた。
「うん……じゃあ、もう寝る?」
 そう言った私に、彼は珍しく甘えるようにして言った。
「……一緒に、寝てくれるなら」
「良いよ」
 頷いて微笑んだ私を見て、那由多は安心したかのように瞼を閉じた。

◇◆◇


「……二度目はもう、無理だ。耐えられない」
 眠っているはずの私の耳に、やけにはっきりとした那由多の言葉は聞こえた。
 私が寝てしまった時に訪ねて来た誰かと話しているのか、それとも彼一人で口に出して自分へと言い聞かせているのか。
 私には、その判断はつかなかった。
 けど……言葉の意味は、それは理解出来る。恋した人を喪った彼は、一回は我慢できたかもしれない。けど、またそんな事があれば、もう自分は耐えられないと言いたいのだと思う。
 私は那由多を選んで天狗の花嫁になれば、もう晴れて天狗族の一員となる。神通力だって夫婦の営み中に彼から貰うことになれば、ただの人間の私も彼らのように不思議な力を持つことになるのだ。
 天狗の花嫁になれば、簡単には死なない。けど、そう決まるまでには、まだ一月もあった。
 早く、時が過ぎれば良い。
 天狗になれば、もう那由多は不安に思わないかもしれないし……夜の中で呻くようにして苦しまなくても……安心して、眠れるようになるのかもしれない。

◇◆◇

「……可愛い」
 私はお城の中庭で、烏天狗の那由多の眷属である黒い鴉たちに、和菓子を千切ってあげていた。
 私の足元には、何匹か集まってお菓子を取り合うように啄み、嬉しそうな鳴き声をあげていた。
 甘いお菓子を食べても大丈夫なのかと聞けば、彼らは雑食なので問題はないとのことだった。そっか……それもそうだよね。この子たちは人間に飼われている訳じゃ、ないもんね……。
「聖良。今日の着物も似合っててお綺麗ですね、だって」
 隣に立っていた那由多がおろむろにそう言ったので、私は慌てて顔を上げた。だって、那由多がそう思って、言った感じじゃないし……もしかして。
「……鴉がそう、言ったの?」
 なんともない様子で頷いた那由多に、私は彼の腕を持って興奮してしまった。
「すごい……! 鴉の喋ってること、わかるの?」
 まるで、動物たちと話せる某獣医みたい。
 彼の本を小さな頃に読んでいた私は思わず尊敬の眼差しで見てしまう。だって、動物と意志を通じることが出来るなんて、とっても素敵だと思った。
「うん。けど、簡単なことだけだよ。片言みたいな」
「ねえねえ。私も、那由多のお嫁さんになったら。わかるようになる?」
「……どうかな。天狗も、能力差はあるから。多聞とか伽羅も。俺みたいには、鴉の言葉はわからないはずだよ」
「そっか……私も、鴉と話したい。良いなあ。その能力が良い」
 私が那由多と話している間に、彼らは空へと飛んで今はお城の屋根に行儀良く居た。指定席でも、決まっているのか。等間隔に並んでいるのが、なんか可愛い。
「鞍馬山には、修験道を修行中の多くの動物が居るよ。天狗になれば、貴登みたいに話すことが出来る」
「貴登さんは、人型になってしまった天狗でしょ? 違うんだよ。動物と話すって、そういうことじゃないの。私はあの動物のままの姿で、話したいの」
 私が個人的に拘りのある動物と話す浪漫について語っていたら、那由多はどこか寂しそうな顔で微笑んだ。
「……そっか。人間は皆そう思うのかもな……」
「っ……うん。きっと、そうだよ」
 その彼の表情、それだけで私にはわかってしまった。きっと、さっき私の言った事と同じようなことを『彼女』も過去に言ったんだと思った。
 どうしてだろうか。
 嫉妬なんかは、不思議なくらい浮かばなかった。那由多は、本当に好きだったんだ。目の前で、亡くなってしまった『彼女』のことを……。
 心の中に訳もわからない程の、強い焦燥感が募る。
「……あのね。もし、言いたくないなら良いんだけど……」
「うん」
「あの……那由多が好きだった女性って、どんな人だったの?」
 彼は、少し緊張した様子で表情を固くした。私にはそういう事はあまり言いたくないってことは、わかってはいるんだけど。
 私は那由多と一緒に居たいからこそ、彼のことをわかってあげたいと思った。辛く苦しい思いを理解して、少しだけでも慰めたかった。
「……なんか……こんな事言えば、おかしいと思われるかもしれないけど。顔とかも……正直、覚えてないんだ。多分。抱えて生きるには、あんまりにも辛過ぎたから。そうじゃないと、俺は今まで生きられなかった。俺が……このかくりよに彼女を案内して連れて来て、過ごした時間も数日。うっすらとした記憶しか、ないというのに。だというのに……こんなにも……忘れられない」
 悔恨の表情は、今にも涙を零しそうだった。那由多は、もしかしたら那由多は、『彼女』の亡くなった理由を、すべて自分のせいにしているのかもしれない。
 彼のせい、なんかじゃない。それを言ってしまえば、容易いだろう。
 けど、那由多は心の中で、堪え切れぬほどに苦しい思いに、何度も何度も折り合いを見つけては、少しずつ進んで来たのかもしれない。宵闇にもいつか朝が来るみたいに、明るい方へ。
 きっと『彼女』が望んだだろう、那由多があるべき未来に。
「……どんな事を、話したの?」
「うっすらと、覚えているのは……たった一つの約束だけ。かくりよでも有名な、藤棚を見に連れて行くって。あとはもう、好きだったことしか覚えていない。ああ。好きだった。忘れられなかった。もう、五十年以上も経っているのに。こんなの、おかしいよな……」
「おかしくなんて……ないよ。何も、おかしくなんてない。那由多……」
 私が思わず彼の名前を呼んだのは、静かに涙を零していたからだ。五十年も時は過ぎ去っているというのに、彼にとってはまだ癒えない傷だった。
「ごめん……聖良は、こんなこと言われても……困るのに」
「困らないよ……辛かったよね」
 涙に濡れた彼の頬に手を置けば、那由多は大きな手を上から重ねた。こんなにも、愛情深い人に愛されればとても幸せだろうなと思う。
 そんな彼にこれから愛されるのは、私なんだと思えば嬉しい気持ちと良いのかなって気持ちで、心の中は複雑な色模様でないまぜになった。

◇◆◇


「……え?」
 夕食後にまったりとして自室に居た私の事を、切羽詰まった表情で呼びに来た伽羅さんの言葉を頭は理解出来なかった。理解したくなくて、追い出したというべきか。
「だから! 俺と、早く逃げるよ! 早く! 手を握るね。ごめん!」
 慌てている伽羅さんは私の手を握り、広い板敷の廊下を走り出した。城の中も、ざわざわとしていて、ついこの前妖狐族が攻めて来た時のように物々しい。
「っ……ちょっと! ちょっと、待って! 何なの!? どういうこと!?」
 伽羅さんは背が高いし、足も凄く長い。
 一応私に気遣ってくれている様子で全速力ではない彼に先行されれば、私は足が縺れないようにして必死でついて走るしかない。
「くっそ。妖狐族……まじこれが収まったら、全員ボコボコにしないと気が済まねえ」
 怒った様子の伽羅さんは、走る足音も荒い。どうしようもない苛立ちをそこにぶつけているようだった。
「っ……え? ちょっと……どういうこと?」
「かくりよきっての乱暴者の、九頭竜だ。すぐそこまで、来ている。あいつらっ、妖狐族が九頭竜に今、天狗の花嫁が攫われて来たばかりだという情報を、よりにもよってあいつに流しやがった。城の近くに来るまで、あいつらの幻影で見えなくしたんだ。きっとこれも、妖狐たちが絡んでいる。だから、俺らもさっきまで全然気が付かなかった」
「え!? えっ……! もうっ……良く意味が、わかんないんだけど! 私にも、わかるようにっ簡単に説明してっ……!」
 私も走りつつだったし、いきなりの事態に驚きすぎて頭が真っ白。
 九頭竜って、五十年前にかくりよを荒らしたっていう……そう。那由多の好きだった人を確か……。
「ごめん! 俺も本当にこれは全く想像してもなかったから、今混乱してる! 九頭竜が出てくれば、またかくりよは荒れる。要するに、九頭竜は人間を食うのが好きなんだ。かくりよに只人が居るなんて、稀なことだから。だから……聖良さんを狙っている。本当に、最悪だ。嫌がらせにも、程があるだろ。この前のことは、相模坊さまの管轄だからと他の大天狗も堪えたが、もう親父達も黙ってない。また……荒れるだろうな」
 私は伽羅さんの話を理解するにつれて、呆然としてしまった。
 言葉もない様子の私を痛まし気に見て、伽羅さんは大きな鷹のような茶色の翼を出すと、私を抱いて空へと舞い上がった。
「……そんな」
 唇からぽつりとこぼれた言葉を、風が強い上空にあっても彼の耳は拾ってくれたようだった。
「こんな事になって、怖いよな……けど、大丈夫。俺たちがきっと守るから。心配しないで。近くに居る大天狗も何人かは、駆けつけて来る手筈になっている。親父達であれば、あの九頭竜も吹き飛ばすことも可能だから。それまでに……どうにか、持ちこたえてくれれば……」
 持ち堪える? 私はその言葉を、不思議に思った。それに、その場合。普通であれば、私と共に居るのは伽羅さんじゃなくて……。
「あのっ……気を悪くしないで欲しいんだけど、那由多は? 那由多はどこなの?」
 今はもう夜。空の色は黒く、丸い月が煌々と輝いていた。
 こんなにも恐ろしい事態の只中だというのに、一番に来てくれるはずの彼が傍に居ないことが不思議だった。
「はは。俺でごめん。あいつなら、九頭竜を食い止めるために、真っ先に出て行った。多分、聖良さんを逃がす役目をするのは、あいつになるのが一番良いんだけど。俺らも止める暇もなくて。最前線で戦ってると思うよ。あいつも、今は本調子じゃないから。流石にもう、ガルラ召喚は無理だとは……思うけどね」
「えっ……でも、九頭竜って……」
「うん。あいつにとってしてみれば、愛した人を殺した仇だから……ほら。あそこに居る」
 私は彼に促され、何気なく視線をそちらに向けた。
 そして、何本も頭を持つ巨大な竜。その禍々しい姿を目にして……心の奥底に眠っていた記憶が奔流のように流れ込んで来た。

◇◆◇

「ふうん。そうなの。こちらの、人の世も争いばかり。本当に、嫌になるわね」
 扇を持って私が溜め息をつきつつ、そう言っても。綺麗な顔をした若い天狗は、表情をあまり変えなかった。
 神社で祈りを捧げ、舞を奉納することを日課にしている私も、こうしてあやかしの天狗を見たのは、初めてのことだった。
 大昔から言い伝えられている通り、その若い天狗は山伏のような恰好をしている。神社にお参りに来る男性のように、お洒落をすれば映えるだろうなと、余計なことを考えたりした。
 背中にある大きな黒い翼を除けば、ただの人間と変わりないようにも見える。突然現れた彼の申し出を快諾した私を連れて空を飛んでも、態度は全く変わらず淡々としたものだ。
「九頭竜を、鎮めてくれれば……きっと。必ず、天狗に出来る限りの礼をしよう」
 あまり言葉が上手くない彼は、不器用なのかもしれない。そう思った。私からすれば、それは好ましい性質だった。
 優しく誠実そうで。そう。もし、人生の伴侶にするならこんな人が良い。
 けど、彼は私を荒れたかくりよの平定のために、連れて行きたいだけの案内人だった。勘違いしてはいけない。
「……そう? 何にしようかしら……そうね。私、もう祈りの舞姫なんて、したくないのよね。どんな穢れをも祓うと言われても、その結果でお金で稼いでいるのは……私ではないもの」
「……お前が平和にする、かくりよに住めば良い」
 私は、間近にあった彼の整った顔をまじまじと見た。
「私。あやかしではないから、住めないわ」
 このかくりよでは妖力のない人間は、いずれ死んでしまう。その話は、私も聞いたことがあった。周囲のあやかしの妖力に侵されて、どんどん生命力を失ってしまうのだ。
「……天狗の嫁になれば……神通力を、渡すことが出来る」
 天狗たちは人の娘を花嫁にするために、攫う事があるという話は有名だった。神隠しにあった若い女の子は、大体そういうことなんだろうという話。
 けど、私はなんとなく自分の嫁にするとは、言わないんだなと少し不満に思っていたりもした。
「あら。良い申し出を、ありがとう。この争いが終われば、詳しく聞きたいわ」
 微笑んだ私に向かって、彼は真面目に頷いた。その漆黒の目には、感情が見えにくい。
 祈りの、舞姫。人の世から荒れたかくりよの原因、九頭竜を鎮めるために連れて来られた存在。
 そっか。それは私だったんだ……。
「じゃあ……私はあやかしが一同に会する集まりで、九頭竜と呼ばれているあやかしの前で舞を踊れば良いのね」
「そう……だから、それまではここに滞在してくれ」
 鞍馬山の那由多と名乗った若い天狗は、荒れに荒れているかくりよの現状と、わざわざ迎えに来た私がこれからすべきことについて淡々と説明をした。
 飛行を終えて、腰を落ち着けて。
 向かい合ってまじまじと彼を見れば、端正で可愛らしい顔立ちをしている。
 あやかしの中でも天狗族は長寿で人間の私とは比べ物にならないほどの年月を生きるんだろうけど……なんとなくの勘で、彼はとても若い気がする。
「那由多って……いくつなの?」
「今年七十」
「……ななじゅう……そうなんだー……え。おじいさんだ」
 彼の年齢を聞いた私は、素直にそう評してしまった。ちょっと間違えれば十代に見えるこの男の子が、七十歳。
 ただの人間とは全く違う、かけ離れた生き物であることは間違いない。
「天狗族では、若い方だ」
 幼い頃から踊りだけを踊って来た私の無遠慮な言いように、気分を害したのか彼はムッとした表情を浮かべた。
 こういうところを見れば、確かに彼は若い気もするけど。七十歳……。
 私が連れて来られた天狗族の里というのは、黒い城を取り巻くようにして集落があった。とても落ち着いているとは、言えない。物々しい、戦時中のような張りつめた雰囲気。
「那由多。良い男だよね。結婚は、してないの?」
「……天狗族は、百歳くらいで結婚する」
 それは、曖昧な表現ではあった。私の揶揄うような質問に答えているようで、答えてない。
 ここでまた重ねて、私は彼に確認することにした。だって、天狗の花嫁になって天狗族になれば、このかくりよでも生きていけるって言ったのは向こうだし。
「じゃあ、私の旦那さんにもなれるね」
「は?」
 にこにこと微笑んだ私の言葉に虚を突かれたようにして、彼は呆気に取られた表情をした。彼の顔を見て笑ったら、すっかり拗ねてしまったので謝った。
「ごめんごめん。でも、天狗の花嫁になれば、かくりよに住めるって言ったのは、そっちでしょう?」
「……人の娘の花嫁争奪戦には、その時点で条件の良い若い天狗が三人選ばれる。その中から、選んでしまえば、天狗の花嫁だ……」
「え。じゃあ、那由多さんも出れば良いのに。私の、花嫁争奪戦」
「……さっき言ったと思うけど、俺は花嫁を娶るには、まだ年齢的に早い。大天狗の息子だって、適齢期だけどまだ結婚して居ない天狗が居るし……俺は選ばれないと思う」
「えー……那由多さんは、出て来ないの? つまんないの」
 彼の凛々しい外見は私の好みだし、性格もなんだかんだ言って合いそうで、それは少し残念だった。
 天狗の花嫁になれば、かくりよに住めると言われても知らない天狗と結婚したくはない。九頭竜を鎮めて貰える報酬は、考え直した方が良さそう。
「……花嫁争奪戦が始まって、二月経ってもその中で心が決まらなければ、他の天狗にまた替わるから。それが何度か続けば、俺も参加することが出来るかも……」
「あ、そうなの!? じゃあ、そうしてよ!」
 私が笑ってそう言えば、那由多は驚いた顔をして、そして頷いた。
 九頭竜を鎮めるという私の役目は、三日後らしい。
 産まれてから今までにずっと私の舞を見て、どんなあかやしだって簡単に調伏することが出来た。だから、私はその日が全然怖くはなかった。幼い頃からずっとして来たことを、またここで披露するだけだと。
 かくりよに連れて来るという案内人の役目を果たしたはずなのに、那由多は私の傍を離れず目の届く範囲内に居る。
 本当に着かず離れずのべったりだったので、私は少し心配になった。私は良いとしても、城に居る彼以外の天狗たちは、本当に忙しく走り回っている。
 この城の主の息子なのに、客人の私と遊んでいる場合ではない雰囲気ではあった。
 庭を散歩している時も、三歩も離れない。近い。
「ねえ……那由多。いつも私と一緒に居てくれるけど、自分の仕事は大丈夫なの?」
「……一応、貴女の警護をしている」
 あ。なるほど。そういう事だったかと私は手を叩いた。
「そっか。なんか、それもそうだよね……こんなにいつも一緒に居るから……そっか……なんだか、すごく勘違いしてた」
「ははっ……じゃあ、何でこんなに一緒に居ると思ってたんだ?」
「私と一緒に居たいのかなあって……ずっと、そう思ってたけど」
 私が背の高い彼を見上げれば、彼はすうっと息を吸って顔を赤くした。
「いや。仕事なんで……」
「なんだー……仕事だけか。なんだ。残念だなあ……」
「……残念……なんで?」
「なんでかなあ……? なんでだと思う?」
 那由多は私に質問を聞き返されて、顔を赤くした。可愛い。気まずい雰囲気を打ち壊そうとしたのか、那由多は大きく息をついて話を変えた。
「……あの神社で、幼い頃から……ずっと出られなかったのか?」
「うん。私の家は代々、そういう家系なの。私は舞うことで能力を調伏の能力を発揮出来たけど、お父様は札を書いたり。お姉さまは歌を歌ったり。やり方は、それぞれ違うんだけどね。幼い頃から毎日毎日、あやかしに憑かれた人を助けて来た。もうずっと予定が入っているから、外に遊びに行くことももう出来なくて……」
「外に、遊びにも……?」
「うん。私、あの神社から出たことがないんだ。多分、帰っても死ぬまで出られないと思う。私は代々の中でも、特に力が強いんだって……だから……きっと死ぬまで、手放さないから」
 死ぬまで、祈りの舞を踊るは定め。天狗の彼に「お願いしたいことがある」と言って、かくりよに案内されなければ。来る日も来る日も、踊っていただろう。
 踊るのは、好き。けど、自由にもなりたい。大きな翼を持つ彼のように、空に舞い上がってずっと遠くまで。
「……何処か、行きたいところがあるか?」
「連れて行ってくれるの!?」
 喜び勇んで思わず彼の両手を握った私に、那由多は神妙な顔をして頷いた。
「何処でも……俺が、連れて行ける範囲なら」
「私。藤の花が、一番好きなの。零れるような、薄紫の花。藤棚に行きたい」
「かくりよでも、有名な藤棚がある。連れて行こう」
「本当に!? じゃあ、指切りしましょう。約束を破ったら……わかっているわよね?」
「わかってる……約束だ……   ……」
 那由多は苦笑して小指を出しつつ、私の名前を呼んだ。
 ぶわっと湧き上がった、心の奥にあった記憶。そして、目に映る現実。巨大な九頭竜と、戦っている天狗たち。
 その時の気分を、なんて表せば良いのか。身体のサイズギリギリの狭い狭いトンネルの中を、長い距離一気に通り抜けた気分。
 知らず荒い息をついて、こくんと息を呑んだ。
 あんまりにも、今の記憶が信じられなくて。一瞬、今居る位置も、自分が誰かも把握出来なかった。
 伽羅さんは抱きかかえていた私が、あの化け物を認識したと見てか、ゆっくりと方向を変えようとしていた。
「ちょっ……伽羅さんっ……! 早く早く! 那由多のところに、連れてって!」
「は……? いや、今の俺の話……聞いてた? 那由多は、九頭竜と今戦ってて……」
 いきなり声を荒げて態度が変わった私に戸惑ったように、伽羅さんはそう言った。彼が戸惑う気持ちもわかる。そして、彼は上の立場にある相模坊さんから、九頭竜に狙われている人間の私を、安全な場所まで連れて行けと厳命されているはずだ。
 けど、記憶を取り戻した私は、那由多に一刻も早く会いたかった。
 五十年も前に亡くなってしまった舞姫、生まれ変わりが私だとわかれば、彼が苦しんできた何もかもが、もしかしたら……心が救うことが出来るかもしれない。
「あのっ……私、早く会わなきゃいけないんです! お願いします! 那由多に、今すぐ言わなきゃいけないことがあって……」
「ちょっ……ちょっと待って……まーまー、落ち着いて。あいつも大天狗の息子だ。それに、この前に、聖良さんも見ただろう。亡くなった人を守りたかったという、その一心でずーっと修行していたから、今ではもう、天狗族の中でも大天狗になれる程に強い。だから、別にこれが今生の別れって訳でもない。九頭竜を退けて、あいつもすぐに、聖良さんの元に来るよ」
「けど……九頭竜は不死。だから、かくりよのあやかしたちは、皆困ってずっと手を焼いている。性格も凶暴で、話も通じない。そうでしょう?」
 静かに私がそう言えば、伽羅さんは驚いた表情をした。
「っえ? ……ああ。確かにあの九頭竜は、俺たちあやかしより神に近い不死の生き物。だが、力を持つ親父たちももうすぐやって来る。今は相模坊様一人だけど……」
 伽羅さんは私が九頭竜について詳しく知っているのを驚いた後で、那由多なんかにその情報は聞いたのかもしれないと、自分を納得させたようだった。
 もちろん、私が何故詳しく知っているのかと言えば前世の記憶だ。
 九頭竜は性格も荒々しく、手の付けられない暴れん坊。けど、どうしても殺すことは出来なかった。水神になり損ねた、可哀想な存在だからだ。
「……あの……私。すぐには信じて貰えないかもしれないけど、私……祈りの舞姫と呼ばれていた、せりです。那由多と約束して……そして、九頭竜に……けど、私はあの九頭竜の姿を見て、思い出しました」
 それは、天狗の彼にも、信じがたい話だったに違いない。伽羅さんは、目を丸くして驚いているようだった。
「……は? ちょっ……ちょっと、待って。ああ……確か。俺も……あの人に会ってる。あの時、鞍馬山に、大天狗は集まっていて……息子の俺も……あそこに居たから。そうだ。せりっていう名前だった。あの……なんか。遠慮なんか何もない言いようで、那由多を揶揄っていた、あの人……?」
「うん。確かに伽羅さんにも、会ってた。あの時に、草原で草笛を二人で吹いたよね。あの時の私は、舞を踊るばかりで、外で遊ぶこともなかったから……楽しかったな」
 大きく頷いて、彼との思い出を肯定すれば、伽羅さんは、若い外見のせいもあるのかどうなのか。とても適応能力は高いようだった。
 私があの時にこのかくりよまでやって来た舞姫のせりであるということには、納得してくれたようだった。
「えっ……やばい。すごい。俺も嬉しいわ……あんなに苦しんでいた那由多が、救われるのか。いや、まじで嬉しい。あの……なんか、自分と違う人と恋仲になってて……というか、それも、聖良さんでせりなのか……いや、もうなんか良くわからないけど。俺が証言するけど。あいつはこれまで、一度も浮気なんか、したことなかったからね。うわー……すっげ」
「うん。そういう人じゃないもんね……わかってる。だから、彼の元にまで連れて行ってくれる?」

◇◆◇

 戦いの地は、本当にすぐ傍。相模坊さまは、九頭竜の動きを何か透明な壁のようなもので防ごうとしているのか、宙に浮いたまま何かを唱えているようだった。
 それを取り巻き、九つの頭を持つ竜に応戦している何人かの天狗たち。羽ばたく、黒い翼。その中の一人、那由多を見つけた私は咄嗟に彼の名前を呼んだ。
「那由多!」
 私がそう呼べば、一瞬だけこちらを見た那由多は私たちに向かって、何かを叫んだようだった。
 そして、九頭竜の頭にある、二つの真っ赤な鬼灯のような目が揃ってこちらを見た。恐ろしい赤い舌なめずり。
「何でここに、来たんですか? 伽羅も。あいつが誰を狙っているかは、知っているよな?」
 呆れた声を出したのは、一番近くで戦っていた多聞さんだった。
「多聞。時間がないから、簡潔に説明するけど。なんとこちらの聖良さんは、那由多が寝る間も惜しんで、修行魔になる原因を作ったあの人の生まれ変わりだった。信じられないけど、まじでそうなんだよ。あの時に会った、俺とのことも覚えてた」
 多聞さんは、一瞬驚いた顔をしたけど。それでも彼らしく落ち着いた様子で、私と伽羅さんに言った。
「それは、わかった。詳しい説明は、後で良い。だからと言って、ここには来てはいけない。九頭竜は……」
「わかっています。だから……来ました。あの前世の私の……あの時のリベンジを、したくて」
 私の言葉を聞いた多聞さんは、片眉を上げて二つの頭相手に奮闘している那由多の方向を見た。
「聖良さんが、これから何をしたいかは……僕にもなんとなく理解出来る。けど、前世の君に対し、九頭竜が何をしたかは覚えているよね?」
 戦いの音が鳴り響く中で、多聞さんは確認するようにして私に穏やかな声音で聞いた。
 荒ぶる九頭竜を鎮めるために舞を踊った前世の私は、あの時に産まれて初めての調伏に失敗した。そして思いも寄らぬ事態に焦ったその時、何もかもの対応が遅れて……。
 あの時に、天狗族は失敗した時の対処法も用意してくれていたのに、それも発動することも出来なかった。自分が生まれ持った素晴らしい能力への驕りが、そうさせてしまったことは、今ではもう理解はしていた。
「ええ。わかっています。今回は絶対に絶対に……失敗しません。あの時と違う舞ならば、もしかしたらとあの時思っていたんです。だから……今回は」
「とは、言ってもね……正直に言えば僕だって、君の話を聞いていても未だに半信半疑だ。完全に戦闘状態に入っている九頭竜相手に、確率の低い冒険は……出来ない」
 多聞さんは言葉を選ぶようにして、そう言った。
 その意見は尤もで、私にだってすんなりと理解できるものだ。彼はもう一度あの悲劇が起こるくらいなら。天狗族に多少の被害を受けたとしても、狙われている私は何処かに身を隠して出て来て欲しくないと思っているのだろう。
「けど……那由多は、きっと……再びまみえた九頭竜を前にして、本気で怒ってる……だから、彼は絶対に引かない。それは、私は一番にわかっています。愛情深くて、二度目は耐えられないと、そう言っていたから」
「もし。そうなら……僕が、あいつを昏倒でもさせてでも、ここから連れ出すよ。力を使い過ぎてしまえば、それは簡単に出来るだろう。那由多は、まだ本調子じゃない。あんな状態で戦場に出したくはないが、あいつの気持ちを思えば……僕たちもなにも言えなかった」
 多聞さんは、私の申し出に対し渋っている。
 またあんな悲劇の二度目があればと……そうやって心配してしまうのは、仕方ないことだ。私はかくりよに来てから、彼からも周囲からも何度も何度も聞いた。
 前世の私を目の前で喪うことになり、そんな彼がこれまでの間どれだけ苦しんで来たかを。
「多聞さん。お願いします。これから。私も那由多も。二人が前に進むためにも、これは必要なことなんです」
 多聞さんは、はあっと大きな溜め息をついた。
「……那由多の神通力だって、無尽蔵じゃない。大きな術を連発しているから。そろそろ……底を尽くだろう。僕は、もうすぐあいつを連れ出す頃合いかと思っていた。聖良さん……君はどうしたい?」
 那由多が抱えている、変えられぬ過去の記憶や何処までも追い掛けて来る悪夢。記憶を取り戻した私はこの九頭竜の襲来が、それを塗り替えられる良いチャンスかもしれないと思ったのだ。
 もう私は、何も知らない世間知らずの舞姫なんかじゃない。現世ではなったばかりだけど社会人だし、決して思い通りにならぬ世の無常も知った。
「私を、九頭竜が向かう岸へと置いてください。そこで、前世の私がしたかったことをします」

◇◆◇

 私が九頭竜を見上げた時に、那由多は狙い
の私がこちらへと向かって来た頭を懸命に退けていた。私が見てわかるくらいに、彼はぼろぼろになって可哀想なくらい疲弊していた。
「那由多! 那由多、良いから! もう、逃げて! 九頭竜は、私だけが目的なのよ!」
「嫌だ!! もう絶対に、死なせたりしない」
 那由多の悲痛な叫び声は、遠いところにまで響いた。
「……完全に、あれがトラウマになってるな。そりゃあ、無理もないけど」
 伽羅さんは私を地面へと下ろしてから、那由多の様子を見て大きく息をついた。
「普通なら、あれだけ神通力を失えば他に任せて引くべきところではあるんだが……これは完全に周囲が、見えなくなっているね。聖良さん。なんとかなりそう?」
「はい。二人がこうして傍に居てくれて、凄く心強いです。それでは、私から少しだけ離れて貰って良いですか?」
 舞を踊るための舞台を開けて欲しいとお願いすれば、二人は顔を見合わせてから、私に向けて優しく微笑んだ。
「出来れば僕の花嫁にしたかったけど、那由多と前世からの縁だったとは。付け入る隙もなさそうだ……次の争奪戦は何年後かな。僕だって、結婚したい」
「多聞は妬まれるくらい人気あるんだから、女天狗と結婚すれば良いだろ。あ。白蘭はダメだ。わかってるとは、思うけど」
「白蘭と結婚する気があれば、もうしてるよ……伽羅も片付けば、僕が取り残されるなあ……寂しいことだ」
 話しながら私から距離を取る彼らを横目に、私はいつもの舞台前のように集中をしていた。九頭竜を鎮めるために踊るのは、私が現世で学んだ日舞のような踊りではない。神社で奉納される神楽舞の元となったような、そんな踊りだ。
 九頭竜の力を侮っていた前世の私は、いつもと同じようにただ舞っただけだった。けれど、今なら理解出来る。そんな生易しい舞で鎮められるような軽い存在ではなかった。
 だから、今回こそは絶対に失敗しない。
 最初のひとさしを舞えば、後はもう自然と身体が順番に動いてくれた。
 神楽舞を踊っていたのは前世の記憶だというのに、不思議だった。身体だって……そう。今はもう、何もかもが違うのに。
 手に持っていないはずの、鈴の音がどこかから聞こえる。神へと祈りを捧げながら舞い、荒ぶる九頭竜を鎮めるために。あくまで優雅に、微笑みを忘れずに。
 前世でのあの時、私は巨大な化け物を鎮めることに失敗した。
 そして、失敗した原因は自分が一番にわかっていた。私の中に絶対に出来るという変な驕りがあったこと。
 それに、あの時に初めて見た九頭竜を相手に、私は心の何処かで恐れていたこと。
 ここに居る暴れん坊の九頭竜は、本当ならば水流を司る水神の一柱になるはずだったあやかしだ。
 何が原因で、水神になれなかったとか……そういう詳しい事情はもちろん私だって知らない。けど、九頭竜にだって、訳もなく凶暴な訳ではない。暴れてしまう原因が、何かがあったのだ。
 ただ闇雲に神の成り損ないの不死者で厄介者だと、疎まれて蔑まれ。だからって、悪いことをして良いって訳ではない。でも、前世の私はそれが、理解出来てはいなかった。
 社会人になった会社で、私は手酷い失敗を食らう経験をした。良くわからない理不尽な目に遭い、ただただ、自分は可哀想で不幸なんだとそのことばかり。
 けれど、結果的に傷つけたあの人と、ちゃんと向かい合って話はしただろうか? 前世の私は、家の中に閉じ込められた無知な子どもで……誰かの辛い気持ちを知ろうなんて、全く考えたこともなかった。
 今こうして踊っている私の舞が、いくつかの九頭竜の赤い目を引いていることはわかっていた。まだまだ九頭竜は荒ぶり、このままでは止まらないだろう。
 その事実が恐ろしいか恐ろしくないかで言われたら、やっぱり私だって怖い。だって、前世の私は、このあやかしに殺されているのだ。
 けど、それを一旦忘れて。暴れる九頭竜の気持ちが、鎮めることだけを考える。
 どうか、一時的にも鎮まりますように。死ねないという永遠の煉獄に囚われる九頭竜の気持ちが、一瞬でも良い。穏やかになれますように。
 時を忘れて一心に舞っていた私は、九頭竜がいつのまにか姿を消していることには気が付かなかった。
「っ聖良!」
 無心に踊っている途中に抱き止められて、私は驚いた。
 そこに居たのは、空を舞い戦っていたはずの那由多だったからだ。着ている服だって、見るも無残な焦げだらけ。何か熱に晒されたのか綺麗な黒い髪が、ちりちりに焦げている部分もあった。
「え……那由多?」
 私は驚いて、目を瞬かせた。彼は頬に、幾筋も涙を流していたから。
「聞いた。聖良が、せりだったんだ……俺は、間違えた? 間違ってない?」
 那由多は前世の私の事実を知り興奮しているようで、主語がない。そして、すぐ傍にまで迫っていた九頭竜の姿はなく、他の天狗たちは戦いの後始末に追われているようだった。
「えっと……何が?」
 とりあえず意味のわからない私が静かにそう聞けば、大きく息を何度も吸って吐いてを繰り返していた那由多が嗚咽交じりに言った。
「せりのこと……絶対に、忘れた訳じゃなかった。けど、聖良のことが好きになったんだ。俺は……間違えた? 聖良は生まれ変わりだけど、せりじゃない。許せない? 嫌だった?」
 私は那由多の言いように、思わず笑ってしまった。もし、私がせりのまんまだったとしても、こう言うだろう。
「那由多。もう、大袈裟だよ。ひとつの恋が終わって、また新しく恋をしても。それは全然、罪なことじゃないんだよ」
 那由多は、目の前で好きな人を喪い五十年間もずっと苦しみ続けた。
 そして、争奪戦参加をきっかけに、ようやく新しい恋に踏み出そうと決意した。
 けれど、私が生まれ変わりだったと知って、前に好きだったせりがどう思うかが心配だったのかもしれない。
 とは言っても、本当にややこしいけど。私が、せりで間違えてないんだけど……。
「あんな……あんな風には、終わりたくはなかった。絶対……あんな風には失いたくなかった」
 那由多は、私の中に居る前世のせりも驚いてしまうくらいに、真面目で誠実な人だ。でもだからこそ、彼の花嫁になりたいと思ってしまうくらいに、短期間で凄く好きになったんだと思う。
 私も……あの、せりも。
「もう良いから。けど……あの時は、まだ細くてひょろひょろだったのに。こんなに、大きくなったんだね」
 まじまじと那由多の体つきを見れば、前世で見た彼とは身体の厚みが全然違う。さっきほんの少し前に、五十年前の彼と会ったばかりの気分の私には、なんだか新鮮な思いだった。
「うん。もう……大事なものを、絶対に失いたくなくて……強くなったんだ」
 それは、那由多のこれまでの思いが、こもった言葉だった。五十年も……こうして、待っていてくれたんだと思えば、私も堪え切れなくて泣いてしまった。

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