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神隠し、約束を舞った、恋探り。~二枚目天狗たちの花嫁争奪戦~ 第四話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

第4話「看病」

 そして、翌日。私は、見事に風邪を引いてしまった。
 暖かくなる季節だとは言え、川に落ちて空を飛んで一目散に帰り、すぐにお風呂に入ったとは言え、身体は芯から冷えてしまっていたのだと思う。
 相模坊さんの居城は当たり前の事だけど、和室ばかり。なので私はお日様の匂いのするふかふかのお布団に入り、ぐったりして寝込んでいる。
 甲斐甲斐しくお世話してくれる優しい小天狗さんは、何かあればすぐに備えられるようにと、部屋の中で待機してくれるとは言ってくれた。
 けど、悪い人ではないとはわかりつつ、どうしても部屋の中の気配が気になった。自分の部屋に家族ではない人が居ると落ち着かないからと言って、本来の持ち場へと帰ってもらった。
 寝ている間にも、日は暮れてもう夕方だった。本来白いはずの障子は、赤い光に染め上げられている。
 頭がぼーっとして気怠い身体をゆっくりと起こした私は、水を飲んではあっと溜め息をついた。本来だったら、今日こそ那由多さんの番だったからだ。
 彼と二人で話すのは凄く緊張するのに、とても楽しみにしていた。あっという間に、時は過ぎてしまったはずだ。
 部屋の空気を入れ替えをしようと思ったのは、ほんの思い付きだ。
 なんとなくでゆっくりと障子を開いて、私は思わず息をのんだ。最近、扉を開いて驚いてばかりな気もするんだけど、それは仕方ない。本来何もない場所に続く障子を開けて、人が居ると普通ならば思わない。
「那由多さん……」
 呟くように彼を呼んだ私の声に、瓦の上に座っていた那由多さんは気が付いて振り返り微笑んだ。
「……少しは、良くなったか?」
 外気は確かに予想した通りにひんやりして、肺に入れば心地よかった。部屋の中で淀んで停滞していた空気が、部屋の外へと逃れていく。
「いつから、こんなところに居たんですか? 言ってくれたら良かったのに」
 那由多さんが飛行出来るほどの大きな翼を出すことの出来る天狗だとしても、その場所はとてもじゃないけど、寛ぐことなど考えられないかなりの高度があった。
 もし万が一何かの拍子に落ちてしまったらどうしようと、思わず恐怖を感じてしまうほどに。
「いや……知っているだろう。俺の方から訪ねるのは、掟ではご法度だ。だが、聖良さんが自分で障子を開ければ、そこに俺が居たのは偶然で仕方ないと思うけど」
「早く……部屋の中に、入ってください。私が部屋に招き入れる分には、良いんですよね?」
 私の言葉を聞いて那由多さんは少しだけ迷ったようだったけど、ゆっくりと頷いて窓から部屋へと入った。
「風邪はもう良いのか?」
 那由多さんは私が出して来た座布団に座ったものの、所在なさげに困った顔をしている。
「今日は一日中、ゆっくり寝られたので。もう……あんな所に居て、寒くなかったですか?」
 私は専用の鈴を鳴らして、小天狗を呼んだ。彼は思いもしなかったのか部屋の中に居る那由多さんを見て、一瞬固まったものの私に温かいお茶を持ってきて欲しいと言われて慌てて去って行った。
「すまない。怒らせるつもりは、なかった」
 口調が強くなっていることに気が付いたのか、那由多さんは誤解して足を組んで頭を下げた。
「誤解しないでください。そうじゃないです……あんな、高くて寒いところで……私を、待たないでください」
「悪かった」
 想いが昂って私が声を震わせてしまったのに、気が付いたのか。那由多さんは立ち上がりかけた。
 けど、優秀なさっきの小天狗さんは、私の言いつけ通りにすぐに温かなお茶を持って入って来てくれた。
 慌て過ぎて、何もない畳の上でこけそうになっているのが可愛い。
「ありがとう……また、何かあったら呼ぶね」
 小天狗さんは、チラッと那由多さんに目配せしてから、お辞儀をして去って行った。
 あんな寒くて高い何もない所に彼がたった一人で長い時間居たという紛れもない事実や、それをどこか嬉しく思ってしまう気持ちがせめぎ合い心の中は複雑だった。
 むすっと拗ねたような顔になってしまった私は、小さな丸机の上にお茶を出すと、那由多さんは俯いていた。
「気分を悪くさせてしまい、すまない。風邪を引いて寝込んだと聞いて、居てもたっても居られなかった。今日は一族の仕事については元々休みを取っていたし、何をすれば良いかわからなかった」
 それも、そうだった。彼は私と会うはずだったんだから、丸一日何の予定もなかったはずだ。手持無沙汰だったと言われてしまえば、それは不慮の事態だったとは言え風邪をひいてしまった私に全責任がある。
 そう理解しているのに、そんな彼を自分が寂しい想いにさせてしまっていたことがただ悲しかった。
「……今まで、そういう時って何をしてるんですか? 趣味とか」
 ぽつりと尋ねた私に、那由多さんは予想もしていなかった言葉だったのか片眉を上げた。
「何してたのかな……何してたか、忘れた」
 要領を得ない彼の言葉を聞いて、私はますます難しい表情になったんだと思う。彼が慌てたように、こう言ったから。
「いや……そうではない。言葉に弊害があった。それを、忘れた訳ではないんだけど、聖良さんと居る時ほど楽しくない。だから、少しでも傍に居たかった。気を悪くさせて……すまない」

第18話「約束」
 もう一度、彼は悪くないのに謝った那由多さんに、私は首を横に振った。
「ごめんなさい……あの、那由多さんが、悪い訳じゃなくて。あんな高くて寒い所にずっと一人で居たのかと思うと、なんだか辛くなって……心配をかけてしまって、ごめんなさい」
「別に風邪を引いた事は、あいつらが……仕掛けて来たせいで舟から落ちただけだ。聖良さんは、何も悪くない。それに、俺があの場所に居たのは、俺の勝手だ。何も……泣くことはない」
 彼に言われて、私が自分の頬を涙が一筋が滑って行ったことに、ようやく気が付いた。
「どう言って……説明すれば良いのか、わからないけど。私は、那由多さんに辛い思いをして欲しくない。私の事を心配して、傍に居てくれようとしてくれたのは、嬉しかったけど。あんなところになんて、居て欲しくなかったの」
 心の中は、複雑だった。自分の事を思ってくれる、そうした行動は気持ちを感じて嬉しい。けど、彼が何か辛い思いをするのが、嫌だった。
「悪かった……前に俺が言った、恋した人を亡くしたことで。もしかしたら、心配を掛けてしまっているのかもしれないけど、もう……あれは、過去のことだ。五十年も前のことで、確かにその直後から……鋭い刃物で切りつけられているように、胸が痛かった。もし、彼女との約束がなかったら、自死していたかもしれない。だが、今は心の中は穏やかに凪いでいる。だから、そんな俺の事を、必要以上に可哀そうだと思わなくて良い」
 そう言った那由多さんは、彼の言葉の通りに穏やかな表情を浮かべた。黒い目の奥の光は、切なげには思えるものの無理をしている様子でもない。
「……彼女と、どんな約束をしたんですか?」
「あの人は、どんな理由かは俺にはわからないが、薄紫の藤の花が好きだった。だから、かくりよにある美しい藤棚に必ず連れて行くと、約束したんだ。もう、二度と果たされることのない、意味のない約束だ」
 今はもう居ない彼女を思い出すかのように、那由多さんは視線を宙に向けた。
「けど、その女性と約束をしてて……良かったです。もしかしたら、私とこうして那由多さんは出会うことも……なかったかもしれないから」
 それは、本心からの気持ちだった。恋した人を亡くして、もう今では会うことも出来ない。それだけの辛さを彼は、そのたったひとつの約束で乗り越えたのだ。
「俺の、過去は気になる?」
 複雑な表情の那由多さんの質問に、私は首を横に振った。
「ううん。それほどまでに、好きになれた人が居たことは、本当に素敵だと思う。私は、恋をしたことがなかったの……だから、貴登さんが天狗の花嫁にならないかっていう、怪しげな勧誘に、まんまと引っ掛かっちゃって」
 私が冗談混じりにそう言えば、那由多さんは空気を明るくしたいという意図を察してくれたのか、快活に笑った。
「怪しげな勧誘。確かに、そうだ。相模坊さまも、そう仰られていた。聖良さんは、天狗の嫁になることに全く忌避感などもないから、自分たちの魅力を真っ先に理解してもらえるようにすれば良いからと……」
「……いつもは、そうではないんですか?」
 私は、那由多さんの言葉を不思議に思った。和製乙女ゲームのような状況ではあったものの、乙女ゲームとは逆に彼らは私の好感度を上げに来るという、まさに夢のような状況。
「はは。違う。いや、俺は、これが争奪戦初参加なので話に聞いただけなんだが。いつもは、まず花嫁がこのかくりよへ住むことの拒絶を和らげたり、そうして、彼女の心を開くまでに、長い時間を使うと聞いたことがある」
「そうなんだ……」
「そう。貴登は、本当に良い花嫁を、勧誘して来た。今度何か良いものでも買ってやろうかな……」
 何を買うか少し考えている顔になった那由多さんは、腕を組んで首を傾げた。彼は見た目だけ言うと、クールで冷たそうな印象の美形だ。優しそうな人を好む人なら、避けられてしまうかもしれない。
 けれど、そんな彼が可愛らしい仕草をしているのを見れば、心が癒された。
「ね。那由多さん。私を、その藤棚に連れて行って貰えませんか」
 他の事を考えている時に、思わぬことを言われたと思ったのか。那由多さんは、ビクッと身体を震わせて組んでいた腕を下ろした。
「えっ……ああ。良いよ。もちろん。でも、なんで?」
「その前に、私がいなくなっても。ずっと、那由多さんには、生きていて欲しいから」
 彼はあの時に森で会ってからというものの、私に向かう好意を隠さない。好きだって言われている訳でもないから、もしかしたら、とんでもない勘違いでとても痛い子になっているかもしれない。
 でも、別に良かった。彼に生きていて貰えるなら、別に誰にだって痛い子だと言われても構わない。
「いや。聖良さんは、絶対に死なない。俺が死なせないから」
 長い生を生きる天狗やあやかしと違って人は、永遠の命を持ってはいない。私の言葉を聞いてから、強い決意を帯びた目で那由多さんはそう呟いた。
「じゃあ……藤棚を見たら、次の約束をしましょう。約束を果たす度に、次の約束をするの。そうすれば……ずっと」
 私が言葉を続けようとすれば、那由多さんが近付いてきて額にひんやりとした大きな手を当てた。
「……聖良さん。頬が赤い。熱が上がってきているのかもしれない。もう、横になった方が良い」
 那由多さんにそう諭されて、そういえば風邪をひいていたと私はしゅんとして頷いた。
 ふかふかの布団に横になれば、那由多さんは立ち上がった。
「っ……待って! 帰らないで」
「大丈夫。何処にも行かない。茶碗を、片付けるだけ。小天狗も、あれ片付けないと仕事が終われないから」
 気の回る那由多さんは、この部屋の世話をしている小天狗の仕事のことまで心配してくれたようだった。
 引き戸の外に片付けた盆を置き、横になったままで彼の動きを見ていた私に言った。
「……俺が部屋の中に居ても、良いの?」
「聞いてたの?」
 彼の疑問は、小天狗さんに私が言った言葉を、知っているからだと気が付いた。結構時間が経っているはずで、彼がどれだけの長時間窓の外に居たかが、それで理解出来た。
「家族じゃないと、落ち着かないんだろ? 俺は窓の外でも」
「良いの……私がまた起きるまで、居て欲しい」
「……かしこまりました。良く眠って」
 彼は頷いて、座布団の上にまた座った。
 私はずっと自分の部屋に家族以外が居たら、落ち着かないとそう思っていた。でも、那由多さんは、彼が同じ部屋の中に居ると思えばとても安心することが出来た。
「あのね。明日も……会える?」
「もちろん」

第19話「これって」
 黒い夜に、宙に張られた太い縄に吊るされ揺らめく無数の赤い提灯。大きな祭特有の人いきれで、周囲の空気が温かい。
「っ……わあっ……」
 私は目の前の美しい光景を目にして、大きく息をついた。もちろん、驚きと感動で胸がいっぱいになって。
 まるで、和製ハロウィンパーティを思わせるような大通りは、年に一度の祭りということもあって騒がしい。
 貴登さんのような獣の頭を持っている人は当たり前のように歩いていたし、ここは鬼族の里だから、当たり前のことなんだけど、頭の上には角を生やしている人が多かった。
「……人出が多いから、俺から逸れて迷子にならないで。もうそろそろ……百鬼夜行が、始まる。きっと、驚く」
 那由多さんは苦笑しながら、きょろきょろと物珍しく周囲を見回していた私の手を取った。
 今夜は、この前に私が風邪を引いて那由多さんとだけデートをすることが出来なかった。だから、穴埋めというか……以前に約束をしていた鬼族の祭りに、連れて来て貰ったのだ。
 那由多さんにこういう祭があると聞いてから、想像していた以上に、本当に人……じゃなかった。この里に祭りを楽しもうと集まって来ているあやかしたちも、本当に凄い数なのだ。
「本当に……すごい。こんなに、盛況な祭だとは……思ってもいなくて」
「鬼族が里の大通りを練り歩く百鬼夜行は、かくりよの中でもとても有名なんだ。これを楽しみに、日にちを合わせて遠方から旅をして来る者も多い」
 那由多さんの言葉を聞いて、私は内容に少し引っ掛かった。けど、それは少し考えれば、しごく当たり前のことだった。
 皆が皆。背に大きな翼を持っていて、空を飛べる訳でもない。長距離を短時間で移動することの出来る天狗族は、そういう意味でもきっと特別なのだ。
「……あ。そうか。あやかしも、天狗みたいに皆飛べる訳じゃないから……」
「そう。空を飛べなければ、徒歩で旅をするんだ。俺は飛ぶことが出来るが、歩くのも好きだ。飛べば一瞬で通り過ぎてしまうような景色も、こうしてじっくりと楽しむことも出来る」
 那由多さんは、そう言って祭の様子へと目を移した。多くの提灯が吊るされて、和風の建屋には祭の飾りで華やか。
 祭特有のウキウキとした空気に、自然と胸が高鳴った。
「私はこうして、祭に来るの……久しぶり。こんなに、楽しくて心が浮き立つことなんて、忘れてた。こうして歩いているだけでも、楽しい」
「楽しい? それは、良かった。聖良さんに、喜んで貰えて俺も嬉しい」
 隣り合って歩きつつ見つめ合いながらの直球の言葉に、私は思わず立ち止まった。
「那由多さんは、楽しい? 那由多さんは、私のことばかりを気にして心配してる……自分自身も、楽しんで欲しい」
 私がそう言えば、彼は顔を綻ばせて笑った。
「俺も楽しいよ。こういう、祭は好きだ。どうして、そんな風に思った?」
 那由多さんは、一度好きだった人を亡くしたという過去があったせいか。何よりも、私を大事にしてくれる。それに関しては、嬉しいことだ。次なる恋の相手は私にしようと定めて、大事にしてくれている。
 けど、彼には自分の欲求など簡単に捨ててしまうような、自己犠牲の気持ちも強いように思えてしまったのだ。
「……私を大事にしてくれるのは、確かに嬉しい。けど、自分のことだって考えてあげて欲しい。私のことだけじゃなくて……」
 那由多さんが、何か言葉を紡ごうと口を開きかけた時に、可愛らしい声が聞こえた。
「那由多ー! 久しぶり!」
 彼の背中を遠慮なく強く叩いて現れたのは、顎の長さくらいのさらさらとした黒髪を持つ可愛らしい背の低い女の子。彼女は膝までの赤い着物を来ていて、ふわふわとした柔らかそうな兵児帯を結び、伝統的な着物の着付けにはほど遠いとは言え、センス良く可愛かった。
 きっと、すごくモテると思う。可愛いうえに、美しい。私が感じたちょっとした違和感は頭の上に、ちょこんと存在している二つの小さな角だけ。
「あれ。桃。お前、こんなところに居て良いのか。準備があるんじゃないのか」
 那由多さんは、突然の彼女の登場にも特に動じずに質問した。彼女は、気安い様子で私が居る方とは逆の腕を引っ張った。
「うん。だって……あれー? 何? 嘘……那由多が女の子、連れてる。えー。私。てっきり。えー。男色じゃなかったんだ……」
「は? なんだよ。その話。止めろ。聖良さん。これは、鬼族の大鬼の一人。この里を纏める朱天童子の娘で、桃。顔見知り」
「は? 何その素っ気ない紹介! 嫌な男ー! ていうか、私急いでたんだった! もう、行くね!」
 桃さんは赤い舌を出して、私にだけ手を振ってから去って行った。
「ごめん。あいつ、あの通り騒がしくて。聖良さん……?」
 那由多さんは、さっきまで上機嫌だった私が無表情になっているのを見て、驚いたようにして顔を近付けた。
「あ。ごめんなさい。ちょっと、考え事していた。屋台も出てるから、あっちに行ってみたい」
 私が指差した方向を見て頷いて、那由多さんは私の手を引いて歩き出した。彼の後に続きつつ、自分の心の狭さを知りびっくりしていた。
 桃さんが、親し気に那由多さんの腕に触れたのを見ただけで、喉の奥が灼けつくような嫌な気持ちになってしまった。
 これって……好きな人が別の女の子と仲良くしていると感じると巷で良く噂に聞く、嫉妬?

◇◆◇


 那由多さんが話していた鬼族の里での祭のメインイベントの百鬼夜行と呼ばれるものは、それはそれは盛大な行列だった。
 私の感覚でいうと、画面の中でしか見たことのない仮装パレードのあやかしバージョンとでも言えば良いのか。例えることが難しい。
 大通りの開始点で百鬼夜行の先頭に立ったのは、金糸で豪奢に飾られた黒い法被を揃いで身に付けた鬼族の見目の良い若者たちだった。示し合わせて皆がしんと静まった大通りに、開始を意味する笛や太鼓の音が鳴り響き、それを待ってましたとばかりに歓声が沸き起こった。
 そして、思い思いの格好をした面々が続き、祭は最高潮に盛り上がった。華やかに盛り上がっていた。
 そう。私以外の皆の心は。
「……あの。どうかした? 体調でも、悪くなってきた?」
 この素晴らしい祭の光景を前に、きっと隣に居る私はさぞ顔を輝かせているだろうと思っていただろう那由多さんは、訝し気に聞いた。
 それはもう、私だって盛り上がりたかった。
 わーっと大きな声を上げて、一生の内に何度も経験することのない初めての大きな感動を、好きな人と分かち合うのだ。
 そうだ。好きな人と。私は、もう既に本当に那由多さんのことが好きだったから。
「あの……私ね。那由多さんが、他の子と話すの。なんか、凄く嫌だったみたい」
 冷たく見えるような外見を持つ彼が、その印象に反してとても優しいことは私は知っていた。知っていたから、もう思っていることをそのままのことを言った。
 決して嫌わないと、思っていたからだ。
「え? ……さっきの、桃か。あいつは、幼い頃からの顔見知りで。なんでもないよ。それに、あいつは既婚者だから……他族の俺なんかと、どうこうなったら……うん。凄いことになるので、お互いに。絶対に、それは、ないから安心して」
 恐ろしい何かを想像してしまったのか、少し顔が青褪めてしまったような気もするけど、那由多さんは絶対にないと言い切ったので、私はようやくほっと息をつくことが出来た。
「……私より、幼く見えたから。桃さん、結婚してるんだね」
「聖良さん。桃は、あやかしで鬼族だからね? ……あいつ。俺より年上だから。なんなら、結構年上だから……」
「年上……?」
 私から見れば、桃さんは高校生にも思える可愛らしく幼い容姿を持っていた。なんだか、物凄い勘違いをしていたことを知って私は急に恥ずかしくなった。
「……それで、機嫌が悪そうだったんだ。じゃあ、やめようか? 聖良さん以外の女性と話するのを」
「そっ……そういう訳じゃなくて……なんか、それはやり過ぎっていうか……」
 なんだか、さきほどの自分がとてつもなく子どもっぽいことを言い出したようになってしまったようで、私は首を横に振った。
「俺は、別に良いよ。それで、聖良さんが納得できるなら。筆談だって、立派な意思疎通の手段だ」
「ふふっ……じゃあ、紙とペンを持ち歩かなきゃ……」
「そうだな。機嫌が直って来て、良かった。何か知らない内に俺が悪い事をしたのかと思って、緊張してた」
 ほっと息をついて、祭の空気の中で見つめて微笑む那由多さんにきゅんとしない女子が居たとしたら……とっても、珍しいと思う。
 那由多さんは、私が急に機嫌を悪くして、その理由を知りなんなら喜んでくれたようだった。恋愛経験の少ない私にとってしてみれば、彼の反応は本当に嬉しかった。
 私の事を一番に大事にしたいという、そういう那由多さんの想いを強く感じ取れたからだ。

第21話「事件」
「……聖良さん? 大丈夫? さっきから、ずっと上の空みたいだけど」
 多聞さんの整った顔がいきなり視界一杯に広がって、私は思わず後退った。
「わっ……! ごめんなさい。ちょっと、考え事してました!」
 いけない、いけない。今日は、多聞さんと相模坊さんが自慢している城庭を歩こうと、誘われていたんだった。
 けど、こんな時にも思い出してしまうのは、那由多さんのことだ。この前のお祭り楽しかったとか、今何をしているんだろうとか。
「はは。良いよ。けど、もしかして、何か考え事をしていた? 難しい顔になってたから」
 多聞さんは二人きりで歩いているというのに、気もそぞろだった私に対してとても優しい。そう。彼は、本当に優し過ぎる。
 年齢の事を言えば、彼は本当に何倍も歳を重ねているのだから、それなりの余裕は当たり前なのかもしれない。けど、あやかしにとっては人間とは年齢の感覚は全く違うようなので、多聞さんがただただ底抜けに優しい性格であるのは間違いないのだ。
「どうかした? 僕で良ければ、聞くけど」
 そう言ってくれた多聞さんの言葉に、喉が詰まる思いがした。
 彼は私を花嫁にしたいと思ってくれているのは、知っているけど。私はもう那由多さんに心を決めていた。この先、ずっと覆ることはないと思う。
 けれど、その事実を言わないままで、このまま多聞さんに好かれていることに、どうしても罪悪感が湧いた。彼は気にしないとそう言うかもしれないけど、どうしても。
「あっ……あのっ……私。その……」
「うん? 何か、言いづらいこと?」
 多聞さんは優しく微笑み、私の言葉を待ってくれた。
「私、あの……ごめんなさい。詳しくは言えないんだけど、心を決めたの。伝えるのは、早い方が良いと思って……」
 私の言い方は、余りに曖昧だった。言えないというルールは理解しているけど、こんなに優しい彼を期待させたままにして、それが大きくなってしまう事を防ぎたかった。
 けど、多聞はすぐに察してくれたようだった。彼は、決して嫌な顔はしなかった。ただ、少し困ったように微笑んだだけ。
「そっか。僕は、聖良さん気に入ってたから、残念だ。こういった状況で……僕に対して、そういう誠実な対応をしてくれるところも、僕の好みだった」
「ごめんなさい……」
「いいや。聖良さんが、謝ることでもない。単なる僕の、魅力不足だ。恋に落とすことが出来なくて、残念な限り。君の幸せを、願っている……後悔はしない?」
 悪戯っぽく微笑んだ多聞さんは、首を傾げた。
「はい。後悔はしないです」
 言い切った私に、彼は言った。
「もし、後悔したなら。僕の元に来てくれても良い。ニか月後までは、勝負はつかないからね。兎の足には勝てないが、兎がゴール直前で寝ているかもしれないし」
「多聞さんは、亀ですか?」
「どうかな。けど、僕は亀が好きだ。あの甲羅も芸術的でとても良いと思わない?」
 あの有名な昔話を例に出した彼の反応を、物凄く緊張して待っていた私は自然に笑ってしまった。
 うん。わかってる。これは、私を笑わせてくれたんだ。多聞さんは、優しいから。

◇◆◇

 相模坊さんの城には、巨大で沢山の人が住んでいる。そして、浴室も数多くある。
 私が使用している浴室は、檜で造られているのでとても良い木の香りがする。お湯はかけ流しで、このお湯はどこから来ているのかいつも不思議にはなる。けど、このかくりよの生活における技術そのものが良くわからないので、聞いてもわからないかもしれない。
 多聞さんは、本当に優しかった。あんなことを勝手に途中で言われて気分を害さなかった訳はないのに、心配はないからと背中を撫でて安心させてくれた。
 那由多さんが居なかったら……? ううん。仮定の話をしても仕方ないけど、私は那由多さんしか、考えられなかった。
 考え事をしつつ、私は浴室を出て着替えを取ろうとして、着替えを置いていた籠が無くなっていることに気が付いた。
「っ……え!?」
 もちろん、お風呂に入っていたのだから、私は裸で……なんなら、近くには誰もいない。
 嘘……どうしよう!
 身体を拭く用の……いわば、かくりよでの生活で、タオルのような役割をする大きな布を巻きつけたまま、私は途方にくれた。
 もちろんだけど、こんな恰好をして当たり前のような顔で廊下を歩く訳にはいかないし……いつも私のお世話をしてくれる小天狗を呼ぼうにも、この城で働いている彼らのような働き手は性別はほぼ男性なのだ。
 だから、今思えば私の歓迎の宴の時に見掛けた白蘭さんという女天狗は、それだけ珍しい存在だと言って良い。だから、人の娘を花嫁にと攫ってくるのかもしれない。
 多聞さんが白蘭さんは女天狗だと言っていたけど、彼女たちは珍しい上に、この城に住んでいるとなると……城の主の娘の白蘭さんか、珍しいと言っていたし居たとしても数人程度だろう。
 ガラリと大きな音がして引き戸が開き、無防備な姿の私は思わず身構えてしまった。
「……なんで。あんたなんか」
 私をきつく睨み付ける彼女の視線は、嫉妬の炎で燃えている。
 白蘭さんは目を眇めつつ、じろじろと下から舐めるようにして、私を見た。けど、この状況で助けを求められるとすれば、同性の彼女一人しか居ない。
 大ピンチの中で背に腹は、代えられない。
「すっ……すみません。お願いがあるんですけど……」
「嫌よ。貴女の言うことなんて、絶対に聞かない。もし、最後に多聞を選べば、これからどうなるか。わかっているわよね?」
 脅しつけるように言い放った彼女に、私は多聞さんとはこの先添うことはないことを、どう説明すべきかと口を開きかけた。
 そして、思い出した。
 天狗族の掟では、三か月後の決定の日まで……他言無用。この前の多聞さんは……彼と話したり過ごした時間に感じた人柄には、私からの勝手な信用があった。
 けど、憎々し気に私を見つめる白蘭さんには、どうか言わないで欲しいんだけどと秘密を守って欲しいとは言いづらい。あの掟を破ればどうなるかは、まだ聞いていないけど。
 けど、多聞さんと同じ時間を過ごした事は、間違いない事実だった。
 だから、それを理由に意地悪されて、バラされたり。そうされてしまえば、最悪の場合、私と那由多さんとの仲も、ダメになってしまうかもしれない。私はここで一か八かの賭けに出ることには、迷いがあった。
 そう思い至り、彼女は言えないと判断し、返す言葉をなくした。
 黙ったままの私に大して、白蘭さんはいきり立ち声を荒げて言った。
「珍しい、人の娘だからって! なんなのよ! それだけじゃない! 大して綺麗な訳でも、ないのに……良い気に、ならないでよね。貴女はまだ、誰の妻でもないって事は、天狗族でもない。天狗族が守るのは、天狗族だけよ。貴女はまだ天狗族じゃない……覚えてなさい!」
 白蘭さんはそう言い放って、扉を大きく音をさせて乱暴に閉めて行ってしまった。
 何の、証拠がないことを……そんな風に思ってはいけないことは、重々わかってはいるんだけど。私の服を隠した犯人は、きっと白蘭さんだろう。
 本当にわかりやすいくらいに、彼女は幼馴染の多聞さんのことが大好きだったから。彼の花嫁候補という私が、心情的に許し難く嫌いだったに違いない。
 あれだけの男性が幼い頃から一緒に居たというから、好きになってから諦め切れなかっら気持ちも、私にだって理解出来なくもないんだけど。
 私はこれからどうしようという宛もなく、脱衣所にある椅子の腰掛けたまま、はあっと大きな溜め息をついた。
 白蘭さんの態度を見て、これは信用が出来ないだろうと判断し、こちらだって事の次第を説明出来ないんだから、もう仕方ない。
 白蘭さんだって、私は那由多さんを選ぶと知れば喜ぶだろうに。
 そして、城の外から唐突にカアという鴉の高い鳴き声が聞こえた。今はしんとした場所で、特に何もしていないから気が付いたけど、普段であれば気にも留めない出来事に違いない。
 那由多さんはそういえば、鞍馬山の烏天狗だという前情報を聞いた通り。私と一緒に飛んで移動する際には、とても艶やかで美しく、大きな黒い翼を出し飛行していた。
 思い立った私はおもむろに、小さな小窓を開いた。そこには、赤い瓦の上に黒い鴉が居た。
 なんとなくの、思い付きだ。このかくりよに住んでいるあやかしたちは、私たち人の常識など飛び越えた存在だった。
 では、かくりよに住んでいる動物は?
「……ねえ。あの……出来たら、那由多さんを呼んで欲しいんだけど……」
 こちらを見ていた鴉は私の言葉を聞いて、小さくカアと鳴いて飛び立った。それは、偶然だったかもしれない。けど、なんとなく彼はこの場所に来てくれるんじゃないかと思った。
 本当に、なんとなくの勘だけど。
 そして、私が睨んだ通りに、五分後にコンコンと脱衣所の扉を叩く音がした。
「……聖良さん? 大丈夫? 入るよ」
 鴉が伝えてくれたみたいで、那由多さんがやっぱり来てくれた事を知って、私は慌てて扉まで駆け寄った。扉を開ければ、那由多さんは驚いた顔をして私の恰好を見て、目を見張っている。
「え?」
「あの……その……服を隠されてしまって……代わりになるような物を、持って来て貰っても良いですか?」
 私の言葉で、那由多さんは何があったのかを、把握してくれたらしい。
「待って……これを。着て」
 那由多さんは、さっと自分の羽織りを脱いで私に渡してくれた。こうなったのは、これで二回目でなんだか複雑な思い。
 大きな羽織りに包まれて、私はほっと安心して息をつくことが出来た。身体の大きな彼の羽織りは、私だとワンピースのようになってふくらはぎまで覆ってしまった。
「……白蘭だな?」
 何もかもをわかっていると言いたげな怒った目で私に問い掛けるので、どう言って良いものか、迷ってしまった。白蘭さんがこの脱衣所にまで来たのは、私が浴室に入っているとわかっているからこそというのは確かだ。
 けれど、私は白蘭さんが私の服が入った籠を持って行く犯行現場を目撃した訳でも、なんでもなかった。それをしたのは白蘭さんかもしれないけど……また別の人かもしれない。
 彼女こそが犯人だと、言い切ってしまうことは出来なかった。
「あの……私。見た訳ではないので」
「良いよ。俺が犯人には、やり返しておく。ふざけた真似は、二度とするなってね……聖良さんは、もう忘れて。さあ。部屋に帰ろう」
 言葉を濁した私に対して急に無表情になった那由多さんは、私の手を引いて廊下を歩き始めた。
 そして、部屋の程近くになった時に、私は思わず息を呑んでしまった。
 正面から歩いてきたその人はぼさぼさの黒く長い髪を持ち、まるで般若の能面のような顔をしていたからだ。表情が動くので、きっとあれが彼の顔なのだろう。とても品の良い着物を身に付けてはいたが、その大きなギャップがまた彼の異様な様相を際立たせていた。
 那由多さんは私の手を引き、廊下の隅へと寄って彼に礼をした。私もそれに習い、周囲の空気だけで恐ろしさをも感じさせる彼に道を開けた。
「……をはやみ……」
 彼がすぐ傍を通り過ぎる時、何か呟いたかのように思えて私は思わず顔を上げてしまった。けれど、もうあの人は通り過ぎてしまった後だ。凛とした姿勢の良い背中が、廊下の先へと去ってしまった。
 あの外見を一目見た時に感じた心臓が凍ってしまいそうな恐怖とは全く違い、去った後に何故か雅な匂いも感じさせる人だった。
「驚いた? ……あの方は、悲しい不運の人生の末に、夜叉天狗に変化された人だ。見た目は……聖良さんが見れば、確かに怖いかもしれないけど。繊細で、とても優しい方だから大丈夫。この場所に居城を構える相模坊さまのお役目のひとつには、あの方を鎮めることも含まれている。自分が、悪い訳でもないのに。あれだけの……酷いことをされたんだ。その恨みが晴らされるには、まだまだ長い長い時間が掛かるだろうな」
 那由多さんは、特に先ほどの彼を恐れている様子もなく、また平然として手を引いて廊下を歩き始めた。
 確かに背筋がゾッと寒くなるような、あの感覚は恐ろしい外見を持っていた彼への恐怖だった。けれど、非のない不運の末にあんな姿になってしまったと思うと、胸が痛んだ。
 部屋の前まで送って来てくれた那由多さんは、微笑みながら自然に繋いでいた手を離そうとしたので、私は思わずぎゅっと手を強く握り締めた。
「……聖良さん?」
 私の思わぬ行動に戸惑っているのか、那由多さんは首を傾げた。
「あの……別にさっきの人が……どうこうとかでは、ないんですけど……なんだか、少し怖くて。一緒に居て貰って、良いですか……?」
 私の目が多分あまりに必死だったせいか、那由多さんは苦笑しつつ頷いた。
「良いよ。この前と一緒で、聖良さん自身が自分で俺を部屋に招き入れれば、掟には反していないはずだから」
「ごめんなさい……那由多さんは、忙しいのに」
 天狗族ではまだ若い働き手で彼らは、現在は争奪戦を監督する相模坊さんの預かりの身分となっているらしい。だから、現在は相模坊さんから三人三様に何らかの役目を与えられて、私と会わない時はそれなりに忙しくして働いている。
 天狗族だって集団で生活をしている訳で、その中の一員であれば、歯車のひとつとなる役目を持つことになる。だから、大事な花嫁に選ばれるというそういう時にも、彼らは気楽に遊んでいられるという訳ではなかった。
「全然。あんな風に嫌がらせで、服を隠されたり……誰かからの悪意を、ああして目の当たりにすると、心がしんどいだろう。俺で良ければ、なんでも聞くよ。不安に思っていることを吐き出せば、大分気持ちが楽になると思うし」
 那由多さんは立ち竦んでいる私の代わりに、引き戸を開けて部屋に入るように促した。私の自室はお世話をしてくれている小天狗さんのおかげか、この城全体を統括する相模坊さんの神通力なのか。常に適温で、快適に保たれていた。
 私は彼に貸してもらった羽織りを着たそのままの恰好で、那由多さんがいそいそと出してくれた座布団の上に座った。私の部屋なんだから、部屋の主である私が持て成さなければいけないのに……なんだか、申し訳ない気がする。
 無言のままでお茶も用意してくれた那由多さんは、慣れた様子で小さな机に小さな茶碗を二つ置いた。
 尚も口を開かないままの私の様子をどう解釈したものか、隣に座った彼は静かに語り始めた。
「……白蘭は、昔から多聞のことが好きでね。俺たちは天狗族の中では、年齢も同じくらいで、天狗族を治める大天狗の親父たちが、一族の会議で集まる際には必ずと言って良いくらい顔を合わせた。まあ……そんな中でも仲が良い奴も居れば、悪い奴も居る。多聞は数が少ない女天狗たちからは、特に好かれていたから、白蘭はおかしいくらいに、他を牽制してたよ。いつもな」
 何が言いたいのかと首を傾げた私に、那由多さんは肩を竦めた。
「俺は、多聞のどっちつかずの態度を見て、いつも不思議に思っていた。妹のような白蘭を傷つけたくない気持ちは、俺にだってわからんでもない。だが、甘えて泣けば優しくされるから、白蘭はどんどん増長していった。俺は、あれがどうしても優しさだとは思えないんだ。俺なら、好きな子以外には優しくしない」
 そう言って目を合わせたので、那由多さんが何を言わんとしているかは、私にもわかった。これまでどれだけ彼が優しくしてくれたかは、私自身が一番知っているからだ。
「あのね……私。今年の春に入社した会社で、社長の甥っ子さんに指導されるようになって。彼は入社時からとても優しかったし、私もとても信頼していた。けど、二人で食事に行こうと誘われたんだけど、私には彼とそういう風になるつもりがなかったから……断ったの。それまでは、優しかったのに。その時から、彼は豹変した。私の上司も経営者一族に逆らう訳にはいかなくて……私、覚えていないんだけど、もしかしたら何か期待させるような事を、彼に言ったかもしれない。けど、半年も経っていないのに、こんな理由で入りたかった会社を辞めたくなくて……けど、本当にしんどかった」
 私が唐突に始めてしまった吐き出しは、彼が予想していたものではなかったはずだ。けれど、那由多さんは、黙ったままで最後まで聞いてくれた。
「そっか……偉かった」
 私は、彼の言葉に涙をこぼしてたまま何度か頷いた。それを見て、那由多さんは私を包み込むようにして抱きしめた。
 そんな事くらいで、会社を辞めたくなるくらい落ち込むなんて、誰かに言えば情けないし甘いと思われるかもしれない。けれど、本当に怖かったのだ。順風満帆に続くと思っていた生活の中で、信用していた人に急に手のひらを返されるその瞬間。
 私は、絶望した。
 けど、そんな自分に負けたくなかった。だから、どんなに嫌な思いをしようが絶対に会社には通った。休まなかった。
 けど、ずっと逃げ出したかった。何処かへ……きっと、この人の腕の中へ。
「偉かった。泣いて良いよ。これからは、ずっと一緒に居よう……ずっとだ」
「那由多さん……好き」
 泣き声のままつい唇からこぼれてしまった言葉に、はっとした顔をしたのは彼だった。優しく微笑みながらも、複雑そうな表情で言った。
「ダメだよ。掟だ。俺一人に決めるという決断は、もう少し。待って欲しい」
「どうして……好きなのに。これからも、私と一緒に居てくれるんでしょう?」
 自分が一番に心の重荷として抱えていたものを吐き出すことが出来て、私は抑えが利かなくなっていた。私は好きだし、彼だって私の事が。争奪戦参加者のあとの二人も、もう納得してくれているのに。
 私の訴えを聞いて、那由多さんは困った顔をして大きな手で背中を摩ってくれた。
「……そう言ってくれて、俺は本当に嬉しいけど……けど、今はダメだ。俺からはそれしか言えない」
 彼の整った顔はすぐ間近で、私はその時多分どうかしていた。だから、那由多さんの了承も得ずに、彼の唇に唇を押し当てた。

第24話「キス」
私が仕掛けたキスはと言えばただ唇を無理に押し当てただけの、本当に不器用で拙いものだった。初めての私は目を閉じていなかったんだけど、那由多さんは驚きに目を見開いたまま身体は微動だにしない。
 私だけが動かない彼の首に手を掛けて、必死でねだるような姿勢になっていた。何度かスタンプを押すようにキスを仕掛けた。それからいきなり動いた彼の両腕が、私の背中に回り彼の舌がぬるりと唇に触れたのはすぐだった。
 閉じていた唇を押し開くようにして軟体生物を思わせる熱い舌は、口中に滑り込んだ。ゆっくりと歯列をなぞり、躊躇うようにしてゆっくりとした動きで何かを求めるように進む。私はまるで自ら誘いこむように、口を開いた。
 那由多さんは自分から仕掛けたというのにどうして良いか戸惑ったままだった私の舌を躊躇なく吸い上げた。舌を擦り合わせるように動き出した時にはもう、お互いに深いキスに夢中になっていた。
 たった、これだけ。濡れた粘膜が擦れ合っている動きだけだというのに、こんなに気持ちが良い体験は産まれて初めてのことだった。口の中に入る唾液だって、那由多さんのものだと思えば、美味しく感じてしまう不思議。
 二人抱き合ったままで、目を閉じない彼と視線を合わせたまま私は、もう何も考えられなくなった。ただただ、二人溶け合ってしまえるくらいにこのまま近付きたかった。
「っ……ふっ……はあっ……はああっ……」
 いきなり彼に顔を離されて、私は荒い息をついた。二人の間に一瞬だけ銀糸が見えて、儚く消えた。
「ごめんっ……俺、もう帰る……ダメだ。このままだと……止まれなくなるっ……」
 那由多さんは立ち上がりつつ荒っぽく身体を離したので、私は思わずバランスを崩した。後ろに倒れそうだった私を支えてくれたのも、彼。
 彼から長めの羽織りを貸りていた私が、その下に着ていたものというと大きな布を巻きつけただけ。思わぬ体勢にそれがどうなったかというと、留めてあったはずの布があっさりと解けて胸が露わになった。
「っ……キャッ……」
 とんでもない姿になってしまった私は、とりあえず両手で胸を押さえた。
 羽織りの前の紐も、さっき彼ときつく抱き合った時にでも解けてしまっていたのか。肩から大きな羽織りが抜けて、腰のほうで二枚の布が溜っているだけ……これは、全然私が意図していた事ではなかったんだけど、咄嗟に那由多さんを確認すれば彼の喉が大きく動いたのを見てしまった。
 二人、そのままの体勢のままで暫し見つめ合った。下にある布を引き戻したいんだけど、そうすると手を動かさなきゃいけないことになって……これから、下手に動いてしまうと、腰元にある布だってどうなっていしまうかわからない。
「あの……」
 じっと見つめ合ったままで、動かない那由多さんに焦れて私は彼の顔を見上げた。整った顔には、何も浮かんでいない。このままだと……動けない。
「ごめん……向こう向くから、服直して……ごめん……我慢っ」
 最後の一言は、なんだか叫びのようにも思えるくらい大きな声だったので、私は驚きつつ着物を上げた。
「ごめん。なんか、思わず欲に負けそうだった……お願いだから。俺の前から、いなくならないで……」
 切実な声でぎゅっと後ろから抱きこまれて、私はその時の那由多の顔は見られなかった。けど、言いたいことはわかった。前に居た彼女のように……いなくなって欲しくないと……そう言っているんだと思う。
「大丈夫だよ……あの……寿命の話、したでしょう? 私の寿命って、これで少しは結構延びてるの?」
 さっき深いキスをした彼と初めて会った時に、伽羅さんから聞いた寿命の話を思い出して私が聞けば、那由多はゆっくりと頷いた。
「うん……そういう意図ではなかったけど、俺の唾液も……体内に取り込んでいるから、寿命は少しは延びてると思う。どのくらいとかは……わからないけど、その間は老けることはないよ。天狗は大体成長期が終われば、姿は変わらなくなるから」
「すごい……不老不死だ……」
 天狗族の嫁になれば手に入る副産物の思ってもみなかった恩恵を知って、私は心から驚いた。そんなの。絶対に、フィクションの世界でしか存在しないと思っていたのに。
「うん。俺と一緒になれば、手に入るよ。どう? 天狗の嫁。お得だよ?」
 那由多は私の肩口から顔を上げて、楽し気な表情になった。目の縁が赤くなっているのは、私は見なかった振りをした。
「ごめん。やっと俺、頭の中が冷静になって来た。もし、告白し合った事がバレたら掟破りだから……絶対に、二人だけの秘密にしてて」
 急に真剣な表情になった那由多が面白くて、私は笑いながら頷いた。
「私は……誰にも、言わないよ……うん。でも、わかった」

第25話「来襲」
 私が踊り終わった時に、大きな拍手と歓声が上がった。胸の中は例えようもない満足感に満たされ、微笑み礼をしてから舞台を掃けた。
 こうして、本格的な舞台に上がったのは久しぶりだけど、やはりこうして人前で踊りを披露すると緊張するけど楽しい。今、踊り終わったばかりだと言うのに、もっともっと踊りたくて堪らなくなる。
 以前の約束通りに、こうして相模坊さんの開催した宴会で踊ったものの、本格的な踊りの衣装でもないし、舞台化粧の白塗りなんかもしていない。
 争奪戦参加者の三人は、並んで膳を前にしていた。ちらっと那由多を見たら、私と視線が合ったことに気がついて笑ってくれた。
 左右の二人は私たちの様子を見て微妙な顔をしているので、二人の関係があからさま過ぎたかもしれない。まだ言えないから、気を付けないと。
 私はそそくさとして大きな身体の相模坊さんの隣に座ると、彼は微笑み嬉しそうに言った。
「いやぁ……とても素晴らしい。こんな風に舞台での踊りを見たのは、何十年振りか。酒を飲みながら、踊りを鑑賞するのは格別。もし、誰かに嫁いだとしても、また気が向けば儂の目を楽しませて貰えたら、嬉しい」
 私に向けて優しく笑った相模坊さんは、好々爺という言葉にピッタリだった。彼にも遊んだ若い頃はあったんだろうけど、こうした姿が初めてだった私には全然想像が湧かない。
「相模坊さんは、芸者さん遊びをしたことがあるんですか?」
 私がそう聞いたのは、芸者さんたちがこうした酒の席でプロとして踊りを見せる女性たちだからだ。ずっとずっと昔からの日本の伝統を現代にまで受け継いでいるのは、彼女たちだから。
「はは。儂が以前に酒を飲んでいた頃に踊りが見たことあるのは、遊郭だ。華やかな世界だったが……その闇も深かった。愛しているのに、憎い。憎いのに、愛している。人の心とは、兎角難しいものだ」
 どこか遠くを見て過去を思い返すようにして、そう言った彼に、私はこの前から気になっていたことを聞いた。
「あの……相模坊さん。をはやみ……って、何のことだかわかりますか? あの……この前にお城の廊下を擦れ違った方が……言ってて。何のことなのかなって、不思議だったんです」
 相模坊さんは、私が誰のことを言いたいのかを、すぐに察してくれたようだった。急に真面目な顔をしてから、そしてまた相好を崩した。
「瀬を早み……急流が岩によって分かれてしまっても、また一つになれるように。愛した人といつかまた再会したいと、謳っている。何かの事情があって別れてしまっても、また会える会いたいと願っているんだよ」
「彼には……誰か、会いたい方がいらっしゃるんでしょうか?」
「そうだな……もうあの人が会いたい人は、生きてはいないだろうが。もし、会えるなら会いたい人が、沢山いらっしゃるのかもしれない」
「なんだか……切ないですね。でも……」
 いつか恨みが晴れるまで、彼はあのままなのかと聞きたかったんだけど、それは聞けなかった。
 鋭く高い笛の音が、いきなり鳴り響いたからだ。
「っえ!?」
 宴会に集っていた全員は、その笛の音を聞いて表情を一変させた。そして、大きな異変が、この城に起きたことを知った。
 次々に大広間の障子を開き、広い広い夜の空に見えたのは、ゆらゆらとゆらめく紫色の狐火。数え切れないそれは、こちらへと真っ直ぐ向かって来ている。
 まだまだ遠い距離があるというのに、移動速度が速いのか。どんどん、近付いて来ていた。
 統率の取れている天狗たちは、特に動揺した様子もなく誰かは大きな翼を出して空を飛び、誰かは何かを取りに廊下へ。
「聖良さん。ご心配なさらずに……我々と敵対している妖狐族が攻めて来たようです。この前に伽羅を襲ったのは、彼らだったので。そろそろ何かあるかと思っていましたが……こうしてすぐに来るとは、予想外だったな」
 相模坊さんも、敵がすぐそこにまで来ているというのに落ち着いた様子でゆっくりと盃を口にした。
「っ……この前の!?」
 私が川に落ちた時に見た、あのいくつもの黒い影……あれが、妖狐族だったんだ。
「そうです。怒った伽羅が、あの時の妖狐に手加減せずに容赦なく攻撃したのが、気に入らなかったのかも……しれませんね。まあ……どんなにあいつが強いとは言え、手を加えた相手は一人だとは思えないくらいの様子でしたが……」
 相模坊さんは、意味ありげに笑った。要するに伽羅さんとデートに行ったはずの私を追い掛けて来た那由多が、私を助けて川に飛び込む前に、妖狐族に向けて攻撃を仕掛けていたらしい。
「……いけない。結構な奴が来ました。儂も久しぶりに、出るか」
 私がどう言うべきかを迷っている間に、遠く遠く紫色の狐火の中にまったく性質の違う動きをする巨大な白い炎が見えた。ゆらゆらとゆらめく……何か、輝く扇のようにも見える。
「……あれは?」
 不思議に思った私が、相模坊さんを見ればもう彼はさっきまでの恰好とは、まったく違っていた。山伏のような恰好に、錫杖。私たち人間が、天狗と聞いて想像するそのもののような。
「九尾狐の一匹です。天狗族で言えば、大天狗が位置する幹部……珍しいですが、売られた喧嘩は買わない訳にはいかない。多聞に、那由多。伽羅も、手伝ってくれ。今回は、気合いを入れて来たようだ」
 彼の指令を待っていた三人は、相模坊さんの声を聞いて一斉に大きな翼を出した。そして、美しい艶のある漆黒の翼が、私の前で揺れて窓の外にある夜の闇へと溶けて行った。


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