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神隠し、約束を舞った、恋探り。~二枚目天狗たちの花嫁争奪戦~ 第六話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

第6話「藤棚」


「何をやっておるんだ! お前は!」
 いきなりの九頭竜の襲撃を受け、戦闘態勢に入り緊張感のあった天狗族も、ようやく落ち着きを取り戻した頃。
 那由多に連れられて帰って来た私は、地面に降り立った途端に鼓膜にキーンと響き渡る大声を聞いた。全く予想していない出来事だったので、呆気に取られてしまった。
 そこに居たのは大天狗相模坊さまほどの大きな身体を持つ、黒い翼を持ち鴉の嘴のような面を付けている天狗だった。
「親父……」
 那由多は九頭竜に対抗するための援軍としてやって来ていた彼にこうして怒られることは覚悟の上だったのか、神妙な面持ちをして私の肩を一度叩いて一人歩み出た。
 那由多のお父さんってことは……鞍馬山の僧正坊さん?
「争奪戦の途中で相模坊の預かりの身になっていながら、命令無視で暴走して勝手な振る舞いをしたことは聞いた。それに……お前。争奪戦の掟も、破っているな? 儂が見たところ、完全に人の花嫁と恋仲になっているではないか。掟破りは、決して許されんぞ。那由多」
「覚悟はしています。どんな罰でも後で受けますので、争奪戦への失格だけは……許してください」
 那由多は父親である僧正坊さんに厳しく叱責されても、決然として表情でそう言った。
 私と寄り添っていたところを見られているし、恐らく踊っていた後で抱き合っていたのも彼に見られていたようだった。
 あんな姿を見れば誰だって、理解するはずだ。私と那由多が好き同士だって。
 天狗族の掟については、私だって事前に説明を受けていた。
 二か月経つまでは例え心を決めても口に出すなと言われたのを破ったのは、那由多ではなくて私だ。どうしても、那由多が好きだったから……彼が、待ってと止めるのも聞かずに。
「成人もしていると言うのに、子どもじみた我が儘が過ぎないか。那由多。これだけの多くの人数を抱える天狗族が纏まるためには、掟を守ることは肝要だ。儂の跡を継ぐはずのお前が、掟を破りなど……何をしている!? 他の者に、示しがつかんではないか!」
 僧正坊さんは、怒り心頭の様子だった。何気なく周囲に居た人たちが思わず後退ってしまうくらいに、激しい勢いで息子に雷を落としていた。
 那由多は、それでも真っ直ぐに父親を見ていた。
「罰なら、なんでも受けます。聖良と別れることだけは、どうかお許しください」
「まだっ……」
 尚も言い募ろうとした僧正坊さんの肩を、相模坊さんが叩いた。大きな身体でいかにも大天狗の二人が揃えば、辺りを払う得も言われぬ迫力があった。
「まあまあ……そこまでだ。お前の花嫁争奪戦での話をここでしても良いぞ? お前だって、息子と同じことをしていただろう。血は争えないな」
 相模坊さんが執り成すようにして、目の前の那由多と私を交互に見た。
「……儂の時は、もっと緩い掟で……その後に、完全に争奪戦が終わるまでは、一切何も告げないということになったはずだ」
 僧正坊さんは掟破りだというのは心外だとばかりに言ったものの、相模坊さんの言葉の正しさを示すようにして、先程までの激しい勢いを失ってしまった。
「ははは。あれだって掟破りには、違いあるまい。幼い子も、いつまでも子どもではない。お前の息子にだって、言い分はあるだろう。それに恋する二人を、一族の勝手で引き裂く訳にはいかぬ。かくりよに来て我らの一族へと迎える、人の花嫁の決断が一番大事だろう」
 宥めるような相模坊さんの言葉を聞き、僧正坊さんは息をついて肩を竦めた。
「……今回の花嫁争奪戦の監督は、相模坊だからな。お主が取り仕切るとあらば……部外者の儂は、もう何も言わんでおくか……那由多。花嫁を手に入れたことは、良くやった。母さんも……お前のことは、本当に心配していたからな。連れ帰れば喜ぶだろう」
 僧正坊さんはそう言って踵を返し、城の中へと去って行ってしまった。
 これまでの詳しい事情を知れば、それは当たり前のことなんだけど。
 那由多のお母さまは、落ち込んでいた息子のことを酷く心配してたんだろうなと理解出来てしまった。だからこそ、花嫁を得ればそれがなんとかなるのではないかと思って、争奪戦参加を勧めたんだと思う。
 那由多がそんなにまで落ち込んでいた原因となっていた前世のせりの記憶を持っている私は、なんだか責任を感じてしまった。
 ちらっと那由多を見上げれば、彼は相模坊さん向けて姿勢良くお辞儀をしていた。
「相模坊さま……申し訳ありません。掟破りの全責任はすべて俺にありますので、何なりと罰を申し付けてください」
「えっと……! すみません。相模坊さん。私がっ……私が、那由多は止めたのに……彼に思いを告げたんです。彼のせいではありません」
 私は慌てて前に出たんだけど、相模坊さんはいつものように柔和な笑顔で頷いた。
「君たちも知っているように、掟破りは掟破りだ。このまま何もなくは、一族に示しが付かない。天狗族の一員として、約束を破った責任は取らねばならない。わかるね?」
「はいっ……何だってします!」
「聖良っ……ちょっと、なんだっては……」
 那由多は慌てた様子で私の言葉を遮ったけど、相模坊さんはそんな私たちの様子を見て楽しそうに笑った。
「この先夫婦となる二人がとても仲が良くて、何よりだ。よし……それでは、天狗族の掟を破った罰を与えよう。心の準備は良いね?」
 私と那由多は一度目を合わせて、そして相模坊さんに頷いた。彼は勿体ぶった様子で厳かに言った。
「良し。城の庭の掃除を、二人で一か月担当しなさい。そうすれば、その期間に争奪戦も終わりの期日になる。二人でこの広い庭を綺麗に掃除していれば、夜はもうくたくたで、それから妙なことも考えまい。良いね? これは、掟破りへの罰だよ。決して、おろそかにしてはいけないよ」
 私は監督責任のある相模坊さんの温情ある処置に、二人で揃って返事をした。
 相模坊さん……そういえば、妖狐族にもかくりよでも有名な人格者だって言われていたっけ。通りで優しくて……情け深い人だと思う。
 そして、私たち二人は相模坊さんの言い付け通りに、翌日から広い城の庭掃除に明け暮れて、本当に争奪戦終了までは甘いことなんて一切考えないくらいには本当に大変だった。

◇◆◇


 久しぶりの実家を見て、私の胸はドキドキしていた。
 だって、親にとってみればいきなり姿を消して、何か月後に帰って来たことになる。
 これまでに何故か頭を掠めもしなかったんだけど、警察に行方不明で捜索願を出されているかもしれない。いろんなことで手一杯だったとは言え、手紙の一通でも送ろうと思わなかった自分の親不孝ぶりが嫌になる。
「……緊張している?」
 隣に寄り添うようにして居る那由多は、この前に花嫁争奪戦を終えて、晴れて私の旦那様となることに決定した。とは言っても、他の参加者である二人も、とうに納得済で良かったねと祝福して貰ったけど。
「してる……なんで、今までこっちでの出来事を想像もしなかったんだろう……私が居なくなって大騒ぎになってるはずなのに……」
 もしかしたら、行方不明者としてニュースなんかに出ているのかもしれないと思えば、顔が青くなりそう。かくりよに居た間は色々あったし、那由多のことで頭が一杯になっていた。
「それって、聖良のせいじゃないよ。かくりよって、そういう場所だから。現世と神々の住まう世界との間にあるから……現世での執着は遠くなるんだ。そういうものだから、仕方ないよ」
「そうなの? ……そっか。だから」
 那由多の説明で、不思議に思っていたことが解決した。現世に居る親のことがどこか遠く感じていたのは、そのせいだったのだ。
 私は勇気を出して、インターホンを鳴らした。
 そして、にこやかに出迎えてくれたお母さんから話を聞いた結論から言うと、行方不明になったはずの私の捜索願は出されていなかった。
 勤めていた会社からは、大型連休を休んでそのまま退職することになり、罪悪感に囚われたのか、例の先輩から謝罪の手紙が届いていたようだ。
 家に居たお母さんは、私がこうして天狗と紹介した那由多を夫として紹介しても全くと言って良いほどに驚いていなかった。
「えっ……お母さん。なんで、どうして?」
 普通に考えれば有り得ない状況に、私は唖然とするしかない。ここに来るまでどう言おうか、なんて説明しようかとぐるぐると頭を悩ませてきたのにすべて無駄だった。
 リビングのダイニングテーブルに座って私が聞けば、お母さんは穏やかに笑った。
「あのね。あんたの亡くなったおばあ様が、聖良には早く踊りを習わせた方が良いって言ったって言ったのを……覚えてる?」
「うん」
 その事自体は、良く覚えている。おばあ様はもう亡くなってしまったけど、幼かった私が夢中になって踊りを習うようになった。
「聖良の顔は、あの人の叔母さんに当たる人に似ていたらしくてね。踊りが上手で、舞姫と呼ばれていたそうよ。その人も、聖良と同じように神隠しに遭ったんだって。だから、私は何度もおばあ様に、言われていたのよ。あの子はもしかしたら、大きくなったら天狗が迎えに来て、神隠しに遭うのかもしれないって……そう。何度も何度も、聞いていたのよ。だから、この前に忽然と姿を消したから……お父さんともしかしたらって……」
「おばあ様が……?」
 そういえば、前世のせりには、歳の離れた姉が居たはずだ。
 正直今の段階では那由多が迎えに来た辺りの記憶しか蘇って来ていなくて、その事はうっすらとしか覚えていない。けど、そうか。せりの姉の子ども……あれが、きっと私のおばあ様だったんだ。
「そうそう。だから、あんたが姿を消した時に、おばあ様が言ったことは、きっと間違ってなかったんだねって……不思議よね。子どもがいなくなったら、大騒ぎするところなのに、私はやっぱりそうだったと納得していたのよ。聖良が神隠しにあって、天狗の花嫁になっても。こうして、たまに実家にも、顔を出しに来てくれるなら……どこか遠方に嫁に行ったと思えば、良いからね」
「お母さん……」
 なんだか、しんみりとしてしまった。けど、さっき那由多も言ってたように。私がかくりよに居ることで、私に対する執着のようなものが薄くなっているのかもしれない。天狗の花嫁として攫われて、私はもう……戻って来ないから。
 何もかも、上手く行きすぎているような気がしなくもないけど。おばあ様の言い残してくれたことで、これまでに私が心配していたことは、全部杞憂に終わったみたいだ。
「聖良が、今幸せだったら。親の私たちは、それで良いのよ。かくりよっていうところには私は行けないのは、残念だけど。素敵な人と結ばれて、結婚出来て良かったわね」
「お母さん……ありがとう」
 また必ず来ることを約束して、早々に那由多と一緒にかくりよへと帰ることになった。
 あやかしの那由多と同様に、彼の伴侶となりかくりよ生活が長くなっている私も、もう天狗に近い状態だから只人であるお母さんの近くに居ることは、あまり良くないらしい。
 私と那由多は山へと戻り、彼は空を飛ぶために美しい漆黒の翼を背中から出した。
 満月の明りに照らされて、不思議と艶めいて濡れているようにも見える。
「……本当に綺麗……なんだか、黒い翼なのに天使みたい」
 那由多は、私による見たままの素直な感想に苦笑した。
「天狗の翼は、それぞれだけど……俺は、ただ親父の色を継いだだけ。俺たちの子どもも、きっと……黒い翼になるよ」
 私は那由多に言われて、そっかと頷いた。
「私も、もうすぐ天狗になるんだよね? 違う色になるの?」
「いや、ならないよ。俺から神通力を貰うから、俺の色になる。そういうものだから」
 そういえば、那由多とそういうことをすると、私に彼の神通力が流れ込んで来て……。
「そうなんだ……多聞さんみたいな、白に茶色が混じっているような色も綺麗だなって思ったけど……」
 本当に、純粋に色を見て、ちょっとそう思っただけだ。別に多聞さんの方が良いって言ってる訳じゃないのに……なのに。
「何。俺の色だと、嫌なの?」
 那由多は、多聞さんと比べられたと思ったのか。目に見えて、拗ねてしまった。この頃、彼は出会ったの無表情とは大きく違って、表情をくるくると変えるようになった。五十年前に会った彼よりも、もっと幼く見える気がしないでもない。
「ふふっ……多聞さんは素敵なのに、なかなか花嫁決まらないんだね。優しくて良い人なのに」
 アイドルみたいな顔をしているのに、優しくてその上大人な気遣い上手。那由多が居なかったら、彼を選んでしまっていたかも。
 あくまで那由多が居なかったら、の話だけど。
「多聞は、好みがうるさいんだよ。天狗族では数少ない女天狗からは、あんなに秋波を送られているのに、全く相手にしなかった。だから、聖良のことは気に入っていたんだな……最初から」
 那由多はそう言いつつ、複雑そうな表情になった。
「私。そういえば、最初に会った時に好みですって言われた。可愛いって言ったら否定されるから。僕の好みですって」
 完全に、覚えてはいないけど。確か彼はそんなことを、確か言っていたような気もする。背の高い那由多を見上げれば、ますます仏頂面になった。
「……そういえば、あの時言われてた。俺も聞いてた。あー……多聞、今回は本気なんだなって思ってた……嬉しかった?」
「うん。あんな美形に褒められて、それは嬉しかったけど……那由多は私に興味ないんだなって、そう思って。残念だったから」
 まさかそういう話にの流れになると思っていなかったのか、那由多は慌てたようにして言った。
「ちっ……違う! そんな事はなくて……俺も良いなって、思ってて……それで」
「それで……?」
 慌てている様子の那由多に、少し意地悪をして言った。彼の顔を見れば赤くなっていて……これから、何を言われるかは予想がつくからだ。
 那由多は一瞬言葉に詰まってから、ますます赤くなって言った。
「想像していたより、凄く可愛かったし……あの時は、緊張してた。どう接したら良いか、わからなくて……」
「好みだった?」
 私は那由多に、手を差し出して言った。これから二人で、彼の故郷の鞍馬山に行くつもり。明るい満月に照らされて、目に見える景色は幻想的。
「うん。すごく」
 私が嫁入りすることになったかくりよの鞍馬山は、聖域を感じさせるほどに空気が良くて緑深く美しかった。
 那由多のお父さんの鞍馬山僧正坊の居城は、真っ黒でどっしりとした威圧感がある。これまでずっと居候させて貰っていた相模坊さんの美しい赤い居城とは、また違った風情を漂わせていた。
 そして、前々からの予定通りに早々に執り行われた祝言の日は、緊張しっぱなしだった。
 大天狗の息子で、未来の大天狗の那由多が結婚すると言えば当たり前のことなんだけど、天狗族の幹部の大天狗八人も勢揃いして、天狗族と仲の良い鬼族や猫又族なんかのお偉いさんなども駆け付けて来ていた。
 那由多の立場に相応しく立派に挨拶の口上をしたり、次々にお祝いにやって来る面々と対等に渡り合ったり。今までに知らなかった一面を見て、また彼のことを一層好きになってしまった。
「……疲れた?」
 ざわざわとした披露宴も、滞りなく進行し終わった頃。やっとお祝いの人の列が途切れた彼の隣で、ただにこにことしているだけだった私を、気遣うようにして那由多は言った。
 本当にどうにかして目を凝らしても、欠点と言えるものが見つからない。
「ううん。座っているだけだった私なんかより、那由多の方が絶対に疲れているよね。貫禄ある対応で、話していた皆が感心してたもん……なんだか、惚れ直した。私の旦那さんになる人は、本当に素敵な天狗なんだなって」
 私が着用している那由多のお母さんが彼のお嫁さんにと用意してくれていた白無垢は、美しい。お師匠さんの高価な舞台衣装なんかを見て、着物には目が肥えてしまっている私も思わず唸ってしまうくらいに、素晴らしいものだった。
 そして、綿帽子を被った狭い視界の中には、那由多の整った顔だけになってしまっている。
 これからは私はそう言った意味では、彼一人のことだけしか見えないんだけど。
「……うん。聖良にいつもそんな風に思って貰えるように、これからも真摯に精進します。だから、俺の傍に居てください。これから、一生」
 那由多から結婚して欲しいっていう直接的なプロポーズは、そういえばこれまでに受けていなかったかも。
 私の花嫁争奪戦に参加しているのなら、それは言わなくてもわかるだろうって言われれば、それだけの話なんだけど。
 こうして、ちゃんと私を前にして言葉にしてくれて、心から嬉しくなったのは本当で。なんだか、それを聞いて胸がいっぱいになってしまった。
「はい……不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
 そう言って手を握って微笑み合った私たちに、この城で働く可愛い小天狗がそろそろ披露宴も終わる時間だという耳打ちをして来た。

◇◆◇

「わー……」
 私は重い祝言用の白無垢を脱ぎお世話して貰ってお風呂から上がると、案内された部屋はわかりやすく結婚初夜のそういう雰囲気。
 けど、披露宴後の宴会は、主役が抜けてからが本番と言った様子で。まだまだこれからも続くみたい。遠い喧噪が、どこからか聞こえて来る。
「……聖良。お疲れ様」
 声が聞こえて来た方を見れば、那由多が窓際に座っていた。彼もやはり風呂上りで、漆黒の髪が軽く湿っている。那由多の整った容姿は、本当に通常でも絵になる。
「那由多も……今日は、お疲れ様。大変だったよね。本当に、お祝いに来てくれた人はすごい人数だったもん……」
 私は彼が居る方向へと近付きつつ、微笑んだ。
 かくりよのあやかしが、このお城に一同に会したんじゃないかと思うくらい多種多様のあやかし達が居た。もちろん、あの妖狐族は見なかった。天狗族と彼らは、本当に天敵同士なんだとは思った。
 援軍に来た大天狗たちに抗議された妖狐たちは九頭竜の件に関しては、知らぬ存ぜぬ。せっかく鎮まって居なくなった九頭竜に、誰から聞いたかを教えて貰いに行く訳にも行かないし、大天狗たちは怒り心頭だったようだった。
 けど、理由もなく攻め込む訳にもいかなくて、一旦は退くことにしたみたいだった。
「ううん。俺は……全然、疲れてないよ。ずっと、この日が来ることを夢見ていた。修験道の修行に明け暮れていた時も、こうしていつか……幸せな結婚が出来ればと心に過ぎっていた。それは……あの時は、せりが居なくなって……幸せを願うことは良くないことだと思って、いつも打ち消していたけど、今こうして聖良と結婚することが出来た」
 幸せを願うことは良くないことだと思っていたという言葉に、私の胸は痛んだ。せりを亡くしてから、どれだけこの人が苦しんだか……それは、那由多じゃない私は推測するしか出来ないけど……どれだけ辛かったんだろうと、それだけで思ってしまったからだ。
「……ずっと、私を待っててくれたんだもんね」
 私は、窓際の那由多の隣に腰掛けた。窓の外には、美しい三日月が見える。日々形を変える月のように人の心だって、こうして満ち欠けもするはずだ。
 そのはずなのに、那由多は五十年という長い間、亡くなったせりのことが忘れられずにずっと好きなままだった。自分の前世と言われたら、それまでなんだけで嬉しくもある……けど、せりは私であって私じゃない。
 どうしても、嫉妬してしまう。私が那由多のことを、誰よりも独占したいと思っているから。
「聖良が現れるのを待ってたことは、確かに間違いないとは思うんだけど……せりのことは本当に、本気で好きだったし。だから、あれほどにまでにずっと忘れられなかったんだと思う。けど、聖良はせりに似ていたからって、好きになった訳じゃないよ」
 だからその時の彼の言葉は、私にしてみれば少し意外だった。
 私は城の近くで踊っているのを見掛けた時に、きっと舞姫のせりと似ていると認識して彼は興味を持ったんだと思っていたから。
「……そうなの?」
「せりはせりで、ちゃんと好きだったけど……聖良は、聖良で好きになったんだ。これって、浮気になる?」
 心配そうな黒い目は、こちらの様子を慎重に窺うようだった。
「ならないっ……! ふふっ……本当に真面目だね……そっか。那由多は、前世と同じように、私の事も好きになってくれたんだね……嬉しい」
「うん……だから、こうして今一緒に居られて嬉しいよ」
 そうして那由多は立ち上がって、私の頬に手を滑らせた。誘うような色気ある視線に、言葉がなくても私は彼の意図していることを悟って心得たようにして頷いた。
 黒い空に三日月が浮かぶ美しい夜に、私は大好きな彼と夫婦になった。

◇◆◇


 起き抜けで目を開ければ、傍にあったはずのぬくもりはなくなっていた。大きなふわふわの布団の上には、私だけ。
「……なゆた?」
 起き抜けの声は自分でもびっくりするくらいに、出なかった。
「ここに居る」
 すかさず彼の声が聞こえた方向を見れば、軽く一枚だけ羽織っただけの那由多が窓際に座っていた。
 青い空に映える、しどけない色男。彼は熟睡してしまった私と違ってあまり寝ていないのか、少しだけぼうっとした表情になっていた。
「……窓際に座るの、好きなの?」
 那由多がそうして窓際に座っている姿を、今までに何度か見たことがあった。
 横になったままの私は、微笑んで彼にそう聞いた。那由多は、柵に手を掛けたまま目を細めて頷いた。
「うん。なんか心地良い風を受けているのが、好きなんだ。空を飛んでる時も良いけど……だから、風邪を引いた時に、聖良の部屋の外に居た時に怒られたけど。俺はあれは、好きでしていたから」
「ああ……なんか、そういえば……そんなこともあったねえ」
 川に落ちて風邪を引いてしまった時の出来事は、ほんの少し前だったというのに、それから色々なことがあり過ぎて記憶が遠い。
 毎日仕事会社に通いで変わり映えのしない毎日を同じようなことを繰り返してた時とは、全然違う時間。濃密とも言える時間だった。
「聖良……気分は、どう? 今日は、連れて行きたいことがあるんだけど」
 那由多は大幅に寝坊をしたらしい私を、気遣うようにしてそう聞いた。
「連れて行きたいところ……?」
 那由多と結婚することになって、私たち二人はずっと祝言に向けての準備に追われていた。やっとこれからは、ゆっくりと過ごすことが出来ると思っていたところだった。
「そう。約束をしていたから……綺麗な場所だよ。俺もあんなにまで見事な藤棚は、あの場所しか知らない」
 那由多はその場所に思いを馳せるように、遠くを見た。窓の外は明るい。どこかで、鳥が鳴いている声もする。
 青空の中でこぼれるような薄紫の藤の花は、さぞ美しいだろう。那由多は五十年もの長い間、ずっとこの約束を果たしたかったのかもしれない。果たせない約束のままに、諦められずに。
「うん。私も、行きたいな……ありがとう。約束を、忘れないでいてくれて」
◇◆◇
「うわぁっ……」
 上空から薄紫色の雲が広がるような光景を見て、思わず言葉をなくしてしまった。
 なんとも美しくて幻想的で……本当に例えようもないくらいに美しかったから。広い範囲四方に広がる藤の花は、どこまでも続いているような……そんな気にもなってしまった。
「本当に綺麗だろ? これを、見せてあげたかったんだ」
 そうしみじみとして言った那由多の言葉に、込められた想い。それを、泣きたいくらいに感じてしまうのだ。五十年間も、どんな思いで彼は乗り越えて来たのかと。
「……ねえ。ここに連れて来てくれて、ありがとう。本当に綺麗……こんな、まるで夢の中みたいな場所があるんだね」
 那由多はそのまま地面にまで降り立って、何も言わずに上を指差した。
 紫色のシャワーが降り注ぐような……本当にこうして存在しているのが信じられないくらいに、綺麗な景色。
 そして、私はなんとなく那由多の前で、あの時と同じように踊った。
 彼がきっと、亡くなってしまったせりに少し似ていると気が付いて、私が気になるようになった、あの時と同じように。
 視界の中は現世のものとは思えぬ程の、薄紫な空間。
「那由多……ずっと……忘れないでいてくれて、ありがとう」
 踊り終えて彼の方を見れば、那由多は静かに涙を流していた。これを見ることを、彼は夢見て来たのかもしれない。
 そして、それは今。ようやく、叶った。
 私は歩み寄って、那由多の涙で濡れた頬に手を当てた。濡れた漆黒の瞳の奥に私が映ったと思うと同時に、強く抱きしめられた。
「一度も、忘れたことなんてない。忘れられなかった」
Fin

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