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邂逅の場へ #01

日本人の記憶と日本軍「慰安婦」問題(01)

自分に見えるものしか見えない

坂本裕二脚本、 是枝裕和監督の映画《怪物》(2023)は、3部構成によって同じ現実を3つの視点から描くことで、「人は自分に見えているものしか見えない」ということ、つまり視点が違えば認知も変わるということを、緻密な演出で表現した作品です。こうした「羅生門構造」は✴︎、だれが被害者でだれが加害者か、だれが正しくだれがまちがっているかについての観客の二分法的想像力の限界をたくみに利用し、その認知の確実性を解体にみちびくサスペンスの文法でもある。 ただし《怪物》の作者は、視点の解体にとどまっておらず、「真実など存在しない」というペシミズムも感じられない。映画のなかで経験された「真実」はそれぞれ、その経験の固有性において「真実」と呼ばれる資格がある。問題は、わたしたちの認知の力が、自分の認知と矛盾する他者の記憶を、虚偽と断定してしまいがちなほどに脆弱なことだろう。

  • Rashomon effect。現実について複数の人が各自の視点から相矛盾する事実を主張するストーリー構成の方法。

《怪物》で表現された認知のズレを、歴史をめぐる言説から見つけることは、さほど難しくない。できごとはまるで映画のカメラや劇場のスクリーンのフレームのように、あくまで選択的に記憶されるが、フレームのそとにはわたしに見えない現実が広がっている。それでもなお、できごとの当事者の経験は、それがいかにあいまいで不確実な記憶で、日付や場所に矛盾があるとしても、真実であることに変わりはない。真実があいまいなのではなく、それを記憶し、叙述し、編集し、共有する過程において、それぞれの物語のレイヤーが分岐するのである。当事者の語る記憶についてもそうであるのに、当事者が世を去った時点で、真実を客観的に再構成するということが、どのように可能だろうか。あるいはわたしたちは、無数の真実のなかから、自分の好みに合う真実を選ぶほかないのだろうか。

記憶の邂逅

日本軍「慰安婦」問題が置かれている、または置かれるであろう場とは、そんな空間ではなかろうか。裴奉奇(ペ・ポンギ)さんの証言(1975)や金学順(キム・ハクスン)さんの証言(1991)✴︎、または千田夏光の著述(1973)✴︎にはじまる20世紀の日本軍「慰安婦」問題の言説空間は、残された文書や証拠の発掘とともに、被害者を含む当事者とその同時代の人びとが、各自の経験と記憶を明らかにしていく課題だった。とくに社会的に注目され、外交の場や法廷、アカデミズムやメディア等で語られた「慰安婦」の記憶は、40年以上の沈黙と忘却のなかから記憶をたぐりよせ、つなぐことで、隠された傷跡を探りだす作業だった。

  • 裴奉奇(1914〜1991)。日本軍「慰安婦」被害者。沖縄で暮らしていた1975年、不法滞在で国外追放となる危機にさいし、行政当局に自身が「慰安婦」として来日した事実を明らかにした。金学順(1924〜1997)。日本軍「慰安婦」被害者。1991年に韓国で初めて自身が「慰安婦」だった事実を記者会見で証言した。

  • 千田夏光『従軍慰安婦:“声なき女”八万人の告発』双葉社、1973。ただし、「慰安婦」という言葉やその存在が、韓国社会や日本社会でまったく知られていなかったわけではない。1970年代以前の日韓間の「慰安婦」認識については、吉方べき「韓国における過去の『慰安婦』言説を探る(上):1945年~70年代」(『季刊戦争責任研究』85、2015);木村幹「日本における慰安婦認識:1970年代以前の状況を中心に」(『国際協力論集』25−1、2017)を参照。

1990年代に日本の法廷で、国の謝罪と補償を求めた関釜裁判は、そんな作業のひとつである✴︎。この裁判と支援活動には、さまざまな世代の韓国人と日本人がかかわっていた。提訴当時、原告だった日本軍「慰安婦」被害者の李順徳さん(イ・スンドク、1918〜2017)、河順女さん(ハ・スンニョ、1920〜2000)、朴頭理さん(パク・トゥリ、1924〜2006)が70歳前後であり、女子勤労挺身隊の原告が60歳前後だった。釜山で彼女たちの申告を受け、裁判を支えた金文淑さん(キム・ムンスク、1927〜2021)が65歳、証人として法廷に立った杉山とみさん(植民地朝鮮の元小学校教諭、1921〜)が71歳であった。かれらはみな、1940年代前半を軍「慰安婦」、軍需工場に強制動員された少女、植民地朝鮮の名門校の女学生、植民地に赴任した日本人教師等、それぞれ異なる場所と異なる立場で経験した。また、裁判官や被告(国)代理人、原告側弁護士、支援者等、日本人のほとんどは、戦争を直接体験した日本人の子どもたちであった。

  • 「釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」の通称。1992年、日本軍「慰安婦」原告2名と女子勤労挺身隊原告2名が日本政府に公式謝罪と補償を求め、山口地裁下関支部に提訴した。以後、第2次・第3次提訴を経て、原告は10名(日本軍「慰安婦」原告3名、女子勤労挺身隊原告7名)となり、1998年、日本軍「慰安婦」 原告の訴えを一部認容する一審判決が出た。2001年、控訴審判決(棄却、広島高裁)、2003年、最高裁が上告を棄却した。

かれらやかれらの家族が経験し、記憶した時間のあいだには、帝国と植民地、男性と女性、富裕層と貧困層など、さまざまな壁が存在した。それらの記憶は、戦後の長い時間と国民国家の要求する公式化した記憶のなかで可視化されぬまま互いに断絶してきた。わたしはかつてウェブ記事で「1990年代に提起された多くの「戦後責任論」と戦後補償裁判は、冷戦構造下の隠蔽と沈黙の壁を破り、断絶した記憶と記憶がふたたび出会うことを意味していた」と書いたことがある。

そのときまで、加害者の社会は被害者の存在に気づかなかった(見えなかった)のであり、その不可視の壁は、海を越えてきた被害者/生存者の行動によって破られ、加害者と被害者がともに記憶の傷跡を見つめる場が、そこに出現した。それをわたしは、1990年代の記憶の「邂逅」と呼びたい。

全体的状況としてこの記憶の邂逅が美しい和解に終わったわけではないことは、こんにちの日本軍「慰安婦」問題をめぐる日韓両国社会のありようを見ても明らかだ。1996年に始まる〈新しい歴史教科書をつくる会〉が否定しようとしたのは南京大虐殺と「従軍慰安婦問題」であったし、河野談話をきっかけとして日本軍「慰安婦」について記述した7社の中学校社会科教科書がすべて検定を通過したことに対する反発に端を発している。以後、軍「慰安婦」の記憶をめぐる緊張は、両社会の外交関係と政治勢力の変化に翻弄されつつ対立構図を固着化させ、現在にいたっている(日韓間の対立というより、各国社会内部に相反する主張が存在するというほうが正確だろう)。

1990年代、日本軍「慰安婦」というテーマが世界的な論点となって以来、それに関する訴訟や運動、研究、教育、メディア等の空間は大きく成長し、このテーマは男性による性の搾取や、植民地支配と侵略戦争による被害の事例として世界史に刻まれた。同時に現在、世界が直面する戦争や人権被害の状況において想起され、戦争における性暴力の被害を警告する記憶のアイコンともなった。被害者たちの証言と運動の足跡、権利回復の闘いは、それ自体が、過去に性的抑圧にさらされ、あるいは将来さらされうる人びとにとって、エンパワーメントとなりうるものだ。そのいっぽう、東アジアの国家間とくに韓国と日本の言説空間において、日本軍「慰安婦」問題は、互いのナショナリズムが露骨に表出する憎悪と政治的対立の記憶として一般化しつつある状況が存在する。

1990年代という時空

《怪物》の脚本家、坂本裕二は、カンヌ映画祭脚本受賞時の記者会見(2023年5月29日、東京・羽田空港)で、信号が青に変わったのに前のトラックが動かず、クラクションを鳴らしたという逸話を語っている。車が動きだしたのち、トラックの前を車椅子の人が渡っており、トラックの運転手は彼が交差点を渡りきるまで待っていたことを知り、坂本は、自分が知らぬまに加害者になっていたことを知る。

2010年のテレビドラマ《Mother》(日本テレビ)、2011年の《それでも、生きていく》(フジテレビ)から坂本は、「加害者をどのように描くか」「加害者がどのように被害者の存在に気づくことができるか」というテーマを自身の課題としてきた。作中の人びとは、自身や家族の加害や被害の記憶から逃れることができず、ふたたびその記憶と向きあうことになる。加害・被害の記憶から自由になることがいかに困難であるかを伝えているように見える。また、加害者と被害者は善悪二分法的に断絶した存在ではなく、モザイクのようにからまりあう関係のなかで、互いにどのように向きあうかを模索してゆく。《それでも、生きていく》は、親友に妹を殺された男と、その親友の妹との出会いから物語がはじまる。加害者と被害者の家族はともに、事件の傷のために時間が止まっているかのように、自分の人生を生きることができないでいたが、少年院を出所した犯人に向きあい、それぞれの記憶と苦痛を照らしあうことで、人生の時間を前に進めようとする。

わたしは坂本の書いたドラマを見ながら、これまでわたしが出会った日本軍「慰安婦」被害者を含む韓国人と、戦後責任に向きあおうとした日本人のことを考えていた。関釜裁判の支援者の多くが語るように、「慰安婦」だった女性と出会い、対話し、互いを理解し、受け入れようとした経験、つまり、記号化された「慰安婦」ではなく、彼女たちの生そのものに触れたことは、個々の日本人の生にたしかな変化をもたらしてきた。このことは、自国の過去史への省察のみならず、かれら個人の生の根拠を、他者の記憶を通じて見つめなおす過程であった。少なくともそれが可能だったのが、1990年代という時空だったのである。

この文章では、1990年代までの戦後日本社会が日本軍「慰安婦」問題や「戦後責任」をどのように受けとめ、他者の記憶を通じて自身につながる歴史の記憶を再構成してきたか、そして、どのような情緒を共有してきたかについて、とくに、関釜裁判の日本人支援者らの経験を通して述べてみたいと思う。この文章でわたしは、日本人がじゅうぶんに反省してきたなどと言いたいのではない。ただ、日本軍「慰安婦」問題をめぐる1990年代の邂逅の記憶を、一方からではなく、多声的(polyphonic)に聞く必要について考えてみたい。それが、現在以降に起こるべき邂逅のヴィジョンに、少しでも示唆することがあればとの思いからである。

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