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食と韓国語・翻訳ノート8:資料②

「食べある記(食道楽)」『新版大京城案内』(1936年)
官製メディア・京城日報の社会部長・矢野 干城と、京城都市文化研究所主幹・森川清人による共編。当時のソウル(京城)のガイドブック。頁を繰ってみると、ガイドブックだからだろうけど、今のファッション誌なみに広告が多い。しかも、券番所属の妓生の顔写真付きリストが何ページも続く。なんかすごい。

 京城には小料理屋が尠いといはれる。尤も京城人そのものに一寸子料理屋に飛込んで、友達なりと食事でもしようといふ様な乙な人間が尠いのにもよらうが、元来京城人には京城独特の味覚があつて、江戸味といふでなく浪華味といふでもなく、といつて博多味でもないやゝこしいものだけに折角東京大阪から腕きゝの職人をよび寄せても京城人の口にしつくり合はない所から、うまいものを食はせる小料理屋が繁盛しないことになつて、特殊のものを除いては、街を歩いてもあまり見当らない。
 だけど職人の腕利きを集めてゐる点では東京、大阪に劣らないと料理屋では自信を持つてゐる。実際内地からの客をつれて行つてみるとわかるが、味こそ江戸風浪花風でないが、誰もが京城も仲々馬鹿にならないと、味の良さを褒めてくれる。
 さて日本料理はどこでどんなものを食はせるか?といふことになるがいはゆるお料理屋さんといはれる「おちやさん」の話は(イツトの京城)で一通り紹介ずみであるが、少しつけたすと、京喜久(旭町)の虎料理と鶴料理だけは虎と鶴で有名な朝鮮でもこゝが一軒だけで、内地からの客もこいつだけは流石に珍らしがる鯛では松葉亭(本町)が古くからのれんを持つてゐてこゝでは鯛の料理を十幾種食はせる。ふぐ、すつぼんの鍋物は京和亭(旭町)花月別荘(南山町)あたり、花月別荘はこの地に変つた料理で知られてゐる。花月(本町)、白水(旭町)、南山荘(西四軒町)など、何かしら板場独特の持味があつてよく宴会に使はれる。清山荘(南山町)、千代本(旭町)、千代新(旭町)登美家(新町)などそれ/゛\板場さんの腕の冴へを見せる。しかしどうもこの方面の料理屋では芸者がほしくなつて、簡単にはまゐりかねる感がある。
 兎に角、京城の料理屋、割烹店、旅館などの日本料理を主とする方面の調理師たち殆ど全部を会員にして、朝鮮割烹調理研究会といふ会が出来てゐて毎月研究の発表もやるし、一般の家庭へ講習もするし大車輪の活躍である。この分で行つたら京城中の家庭といふ家庭がうまい料理で溢れそうである。これは京喜久の御大佐藤藤太老が一統をリードしていとも華々しさを見せるところである。
 てんふら 川長(旭町)松金(永楽町)梅月(明治町)といつたところであらう。川長は芸者も入つて普通の料理屋でもあるが、かつては南山町で売り出し、旭町に越してからも金ブラで知られ、更に今の処に新築する勢ひとなつた。主人の伊藤君は書画もいぢくる風流人。女将は若柳流の名取。生駒は釜山に本陣を持つて今売り出しの最中、ところが店憲法に痛いところがある。それはお酒は一人二本以上罷り成らずといふのである。テンプラは味はつて食ふものにて候、とあつて、酒を控へさせる。お値段も相当によく、腰掛けだからと思つて安心してゐると哀号になる。梅月はまだどういふものか畑違ひの自転屋さんの兼営である。テンプラ板場には小倉といふ男が油加減、火加減をみる。手頃な店。それから大宴会もやれる大衆的テンプラに松金がある別館まで構へてゐる処をみると、また相当なものであらう。
 うなぎ料理は江戸川(本町一丁目)以前は表通りだけで千客万来だつたが、儲かつて裏通りに宴会場をつくり芸者も入れる。店の大将の城台一六さん抜け目がない。清香園(本町二丁目)は別にうなぎ専門ではないが、美しい庭を囲んでほんとうに夕飯を食べるによい店。この頃では孝子町に東拓が質流れを抱へてゐた大きな家を引き受けて料亭白雲荘もやつてゐる。清香園には外国人たちも日本料理見学に来るそうだ。
 鳥料理は喜久屋(本町二丁目)都鳥(旭町一丁目)照京(明治町)などであらう。喜久屋は美人女将で川長の先妻とどつちが美しいだらう? などいはれたもの。店主はまた古物いぢり、がつちりした店で夜も早じまい。都鳥には芸者もは入る。照京の女将は京喜久にゐたお照さん、こゝにも箱が入る。みんな博多水たきが呼びもの。
 肉すき焼は米作(本町)きらく(旭町)森田(桜井町)「きらく」は平壌の赤壁に匹敵する味をもつてるといはれる。森田では肉屋も兼業。どういふものか、この頃はすき焼屋が以前ほど上等客が来ないやうであるが大衆的なところがよろし。米作はジンギスカン料理もやるし、夏はビヤホールにもなる。店主の伊藤さん光るテカ/\頭をしぼるところ。
 うどんやでうまいのは、松月(義州通り)、いろは(太平通)、霞月(新町)、蓮玉(黄金町)、山科(桜井町)、上原食堂(光化門通)高砂(新町)など。霞月はあの辺り一帯の貸席に殆んど独専的に出前を入れてゐた。かれこれ十年にもならう。そこへ四五年ばかり前から割り込んで高砂が、貸席一力の後援で一旗揚げた。松月のおやぢ藤崎御大は町の顔役、消防の組頭もやる。上原のおやぢは運動場の世話好きとう/\自転車を乗りまはして府議に乗り込んだ男。
 このニ三年間に京城はおでん屋が氾濫した。ちよつと本通から脇へそれると、丸提灯に縄のれんの小いきな家が眼にとまる。何しろおでんを肴に簡単に飲めるのだから、わづらはしい小料理屋やカフヱーを圧倒して、雨後の筍の様に進出して来たのも無理はない。実際京城人は食ひしんぼうが多いと思はせる位だ。
 芋重(南大門通)、阿波路(南大門通)、横浜おでん(本町五)、燕の巣(明治町)京月(同)、新豊(本町三)おせん(旭町)さかへや(旭町)里の家(旭町三)雀の宿(本町五)樽(本町三)新京(本三)井筒、二文字(以上は明治町)福梅(中央局横)あざみ(永楽町)円八(新町)府民館食堂などを思い出す、その外に沢山いいとろこ(ママ)があるけれどこれ位ひにしやう。以上の中にも上等もあればあんまり感心せぬ家もあらうこの中で芋重が断然光つてゐる。長崎テンプラも食はせるし、亭主は野球の話に身がいると徳利の数も忘れるといふ男。
 とにかく、オデンはよろしい。誰れ彼れなしの友達づきあい。居合せた者が寄つてたかつてその夜の気分をつくる。社長もなければ上官もない処にうれしさがあらう。十二時すぎまで腰を据へてゐれば、カフエーから帰へりに腹ごしらへに寄つて来た女給を生けどつて、ノーチップサービスにありつく余徳もあらう。夜中の二時三時までオデンヤ巡礼をやる連中には、冬の夜も短かいといふ。

「京城人」というのは定着した在朝日本人。ガイドブックだから当たり前だけど、現地人たる朝鮮人は背景みたいなもんで、京城人のなかに入ってもいない。すでに自分たちが「京城人」だという地域性、県民性みたいなものが生じている。「おちやさん」の話も気になるから、あとでまた見よう。虎料理と鶴料理って、何? まさかほんとにジビエ的なことか。博多勢、ここでも水炊き。今ならもつ鍋もやってそうだが当時はない。タッカンマリ(닭한마리)は、そういえばペクスク(白熟)より水炊きに近い気がする。新町遊郭の客への出前でうどん屋が繁盛。光化門通りのうどん屋、上原のオヤジは自転車で府議(京城府議会)に乗り込んで何を訴えたか。カフェの女給を生け捕ってノーチップサービス。コンプライアンスはどうなっとる。

本町 = 明洞8街~忠武路(明洞駅6番出口から下った裏の通り)
 本町はソウル中央郵便局から忠武路まで、一丁目から五丁目まであった。
旭町= 会賢洞(新世界百貨店の裏手、南大門市場一帯)
南山町= 南山洞(退渓路から南山方面への上り道)
西四軒町=奨忠洞(新羅ホテル、東国大周辺)
永楽町= 저동(苧洞)   明洞聖堂の裏手、乙支路との間
明治町= 明洞。本町通より北側。
桜井町= 仁峴洞。忠武路と乙支路の間。
新町= 双林洞。
黄金町= 乙支路。
義州通= 義州路。西大門駅周辺。
太平通= 世宗路。光化門の大通り。
南大門通=南大門路。南大門からロッテホテル、鐘閣へ。

(続)


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