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書泉フローラ

この本屋は時が止まっている。同じ椅子に、同じ絹のように真っ白な頭を見つけた時、言い得ぬ幸福感で胸が一杯になった。

屋久島に関する本が平積みになっている。1冊手に取り、読む振りをしながら始めの台詞を頭の中で書いたり消したりする。ここへ来る前に何度も練習したのに。


「3年くらい前に、ここに来て尾崎翠の本を教えてもらったんです」


「ああ、覚えているよ。尾崎翠について話す機会はそうそうないからね」眼鏡の奥のおじさんの眼差しが、当たり前のように私を見つめている。


「もう忘れちゃってるだろうなと思っていました」おじさんは、クリーム色のアームチェアの中で微かに首を振る。


「私、尾崎翠で卒業論文を書いたんですよ」
するとおじさんは血色のいい、羨ましいくらいにつやつやした頰をさらに紅潮させ、かっかと笑う。頬に柔らかい皺の線が刻まれる。ところが、おじさんはいつまでも笑い止まない。

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「どうして笑うんですか」置いてきぼりを食らって、少し不満げな声が出る。ごめんごめんというように、おじさんは頷く。突然真面目な顔になり、椅子に深く掛け直す。


「面白いでしょう。尾崎翠」
「はい」と応えたものの、単純な「面白い」はこの場合、正確ではない。

「独特のユーモアがあって。でも、論文にするには難しかったです。わからなくて、何度も読みました」
「確かに尾崎翠は、万人受けするタイプではないかもしれないね」おじさんは思案深げな表情をする。「だから、ある本を面白いと思う感受性が、その人に備わっているかどうかだと思うんだ」と優しく言う。


「同じ本を、同じように面白いと思うとは限らないですものね」何かを確認するように、何度もゆっくりと頷き合う。尾崎翠の語彙で言えば、私たちは「同族者」なのかもしれない。


「尾崎翠は、鳥取の出身でしたね。屋久島に向かいながら、彼女の生まれ育った岩美町にも行ってきました」ノートを取り出し、尾崎翠記念館で押した記念のスタンプを見せる。おじさんは目を見開き、ただ溜め息をついた。


「どうして尾崎翠は、書くことを止めてしまったんでしょうか。彼女が小説を発表していたのは、東京で暮らしていたわずかな期間に過ぎませんでした」
「卒論は手元にはないの?」
「すみません。今は持っていないんです。私のことを覚えていてくださっているとは、思わなかったので」

旅から帰ったら、卒業論文を郵便で送る約束をして、店を出る。達筆なボールペン字を読んで初めて、「本屋のおじさん」の名前を知った。

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2019.3

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