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『炉辺の風おと』梨木香歩

社会に不信や不安が渦巻いているときは、逃げるのではなく(逃げたらいつまでも付き纏われる)、その根本を見つめる姿勢を保ったまま、少し晴れやかになれる生活のトーンを工夫しようと思う。きっと、その工夫が先々、自分という個人を生きるための、得難い財産になる。

右往左往のただなかに在ること

書店で梨木果歩、の名前を見たとき、ふと懐かしい思いが心をかすめた。
『村田エフェンディ滞土録』という本を、高校の読書同好会で読んだ。あの漢字だらけながら異国情緒にあふれた、独特の舌触りを思い出していた。

『炉辺の風おと』は、毎日新聞に連載されていたエッセイが元になっている。梨木果歩が八ヶ岳に買った山小屋で過ごす日々での、見たものや考えたことが、綴られている。

植物、動物(とりわけ鳥)を愛する梨木果歩の文章には、知らない名前が数多く並び、でも私にはそのほとんどを知らない。
野山で、自宅の周辺で、見かけた動植物の名前が分かったなら、私の世界は今とは違った景色になるのだろうと思った。
昔、祖母に会いに行くと、近所の大きな公園を一緒に散歩していたのだが、歩きながら祖母が教えてくれた「かたくりの花」や「ハンカチの木」は、ぼんやり姿かたちを思い浮かべることができる。こういうものは、実地訓練を重ねてようやく、自分の知識にできるのだった。

食卓の小さな花々の間には、いつも蝋燭の炎があった。ダイニングテーブルのときには、大きめの燭台で、そしてキッチン・テーブルの上では小さな蝋燭立てで、彼女はいつも炎の揺らめきを愛した。たとえどんなに簡単な夕食であっても、彼女の笑顔と蝋燭の炎はその時間を私の祝祭にした。今の私の食卓には、彼女から贈られた小さな銀の蝋燭立てがある。だがもう毎日は使わない。

火のある風景

じっくり読み進めるにつれ、八ヶ岳の山小屋で燃えている薪ストーブに手をかざして、温もっているような気がしてくる。

言葉の力だけを借りて、本当にはないものを、あるように見せかけようとするのが一番よくない。何がよくないといって、使う本人の魂にもよくないし(その人から実在している感じが抜けていくように思われる。(中略)当人の、本気で生きている実感、のようなもの。…)

長く使われるもの

最近の、言葉に心や身体を乗っ取られるような感じ、とはこれだったのではないか。と、思った。梨木果歩の書いているように、私も「言霊」はあると思う。けれど、言葉の力に仮託するあまり、言葉の表面に惑わされ、惑わし、していたような気がする。言った言わない、言ったもの勝ち…。いつだって言葉は争点になる。反対に、自分の身を守るために、口を閉ざす、言葉にしないことだってある。


母のおさがりランプ

暖炉やストーブの代わりに、燃えるキャンドルを眺めながら、じゃあどうしたらいいんですか? と誰にともなく問いかけたくなる。これだって、答えを、言葉を求めている。言質を取ろうとしている。

ストーブの火を作る工程でいえば、今私は、熾火(おきび)を作ろうとしているのだな。冬本番に備えて温かい靴下を買ったり、コーヒー豆を挽いたり、本を読んだりしながら。気力・活力を取り戻しまた歩き出すための。

養生ください。という言葉をもらうと、立ち止まっている自分を肯定されているような気がして、力が抜ける。
この冬は、もっともっと本を読みたい。そして「命の火を養生」しよう。

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