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学ぶことをやめないために

 今回のテーマは、志高く始めた勉強会について。「考える」ということに対して自身が抱えている課題を言語化し、今後の糧にしたい。

 雑な自己紹介は、私の初投稿で確認して欲しい↓

学ぶ機会の創出

 数週間前、ゼミの友達と勉強会を企画させていただいた。それも、先生と院生を巻き込んで。ありがたいことに卒業生が来てくれることもある。

 開催の背景には、春学期の授業が終わって夏休みを迎えるにあたり、真剣に考える機会が無くなることへの恐れがある。

 せっかく春学期の研究(*1)でたくさん考えたのに,大学は存分に学べる場所だと気づいたのに,夏休みでパーになってそのまま秋学期を迎えるという事態を招きたくはない。それが勉強会の始まり。


うぅ、考えるって難しい

 つい心の声が漏れてしまった。勉強会は、自分たちで企画したこともあり、毎回一生懸命頑張っている。開催日まで勉強会のことで頭がいっぱい。それなりに調べて、考えて、準備しているつもりだ。

 でも、いざ始まるとうまくいかない。いま私が苦戦していることは大きく三つ。

  • 考えお披露目会と化す

     先生方を巻き込んで、"議論"したい。「こうも考えられる」の嵐が理想。
     それなのに、議題の提示ではなく私の浅はかな考察発表にとどまってしまう。聞き手は「んで?」と思っていることだろう…。つまり、議題の示し方が課題の一つだ。

  • 言い切ることができない

     主張の軸がブレブレで、且つ他者の反応を過度に気にしてしまう。だから「私はこう考える」とか「〇〇について議論したい」と最後まで言えた試しがない。尻窄み状態。
     もやもやしたものを言語化できないまま放棄して、聞き手に助け舟を求めてしまうのだ。この間だって、先輩に盛大な交通整理をしていただいてしまった。それでスッキリしてるんじゃないよ私、自分でやりなさい。

  • 議論に参加できない 

     先にも述べた通り、議論をしたくてこの会を開いている。しかし繰り広げられる議論の最中(さなか)、私は咀嚼するのに精一杯で、考えを持つ余裕がない。その原因の一つが「メモ」にあることはわかっている。
     自身の忘却能力に自信があるため、各意見を可視化する目的でメモをとっている。しかし、バレーノート(*2)を書いていた中学の頃から一言一句逃さず書く癖があり、メモのつもりが結局、議事録になってしまうのだ。
     恐らく原因はこれだけではないが、まず改善すべきはこれだ。私は書記ではないし。


 以上3つの克服のために、勉強会への臨み方を変えていきたい。たとえ少しずつでも…。

"拾ってもらう"から、"打ち返してもらう"へ

 これは、院生が示してくれた筋道。なんと分かりやすい表現。モジモジofモジモジの私が第一に目指すべきところ。

自分で考えられたところまで、言い切ってみる。

"打ち返して"もらう
(議論中は議事録なんか書いている場合ではない。
"メモ"をとる)

議論に"参加"する。

8/25時点での、勉強会全体の目標。



 ふぅ。書いているいま、これを高い壁のように感じる。でもこれが出来るようにならないと、自分では納得できない。だから頑張る。


終わりに

 私は明日も朝からお仕事である。インターン中に勉強会の開催を目論むなんて、自分で自分の首を締めている。でも自分がやりたいことをやらせていただいて、課題に直面して、改善しようと思えているなんて、なんだか「生きている」と感じられる。

 本当は、ある記事の前置きにするつもりだったこの話。前置きにしては長くなりすぎたため、ひとつの記事にしてみた。そんなに更新頻度は高くないだろうが、今後も温かく見守ってくれるとありがたい。



生意気ながら注釈を

*1
筆者は大学3年の春学期にグループ研究を行った。研究については、冒頭で載せた投稿を参照して欲しい。研究内容には触れていないが、ちょっとは解像度が上がるのではないかと。

*2
バレーノートとは、筆者がバレー部だった時代につけていた記録のこと。うろ覚えだが、①その日行ったメニュー、②出来たこと/出来なかったこと、③先生からのご指導、④次にどうするか、らへんを書いていたと思う。私は③先生のお言葉を、一言一句逃さず、口調もそのまま書いていた。状況を思い出せるからそうしていたのだが、情報の取捨選択能力が欠けているということでもある。

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