私の成分(幼少期〜就活まで)
沖縄生まれ沖縄育ち、2週間以上、沖縄から出たことがない亜熱帯育ち
沖縄にしては珍しい海のない町 南風原町で生まれ、
3姉妹の真ん中、次女として育つ。
物心ついた頃から、
両親は夫婦で小さな事業(学校に教材を販売、
音響設備の設置)を始めていて、
自宅と併設された小さな「営業所」には、
学校に納品される前の「教材」で溢れていた。
3歳年上の姉と4歳下の妹。
家でよく見る本は、学校に配る「教材カタログ」
各メーカーの跳び箱や平均台
マットなどの大物教材から、
黒板に貼り付ける大型定規やタイマー、
豆電球のソケットや、
電磁コイルで動く理科の実験カーなど・・・
小学生になったら、
こんなもので遊べるんだーと
カラフルな写真カタログ見ては
まるでファッション雑誌をみるかのように、
姉妹3人ではしゃぎながら見ていた。
両親とも、実母を高校生の頃に亡くしている。
だから頼る所・預け先がなかったようで、
基本は夫婦2人だけで子育てしていた。
保育園をお休みした日は、
父親の配達車に乗ってメーカーさんへ同行したり、
学校を回ったりした。
当時「育メン」という言葉があったなら、
まさに父親は「育メン」だった。
教材をあつかう仕事だったので、
辞典や図鑑「まんが日本昔ばなし」など、
全巻揃いも多かったし、
いつも母が読み聞かせてくれていた気がする・・・
加えて、音響屋さんは、
運動会や学芸会シーズンは大忙し。
父親は機材を貸出したり取り付けたりするだけではなく、
当日はビデオ撮影係。
まだホームビデオがない時代。
テレビ局のカメラさんが担いでいる
大きなビデオカメラを回し
学校全体の撮影を担当していた。
(娘たちが出演する時には、
ついつい我が子を沢山撮ってしまうという、
おちゃめな父親である)
小学2年生でお隣の町へお引越し
私にとっての転機は小学2年生。
父親の出身地である、
佐敷町(現在:南城市)に家を構え、
お引越しした時である。
南風原町と同じ南部地区で、
さらに車で40分程しかかからない
近距離への引っ越しだったにもかかわらず、
田舎だった為、
同い年の子の喋っている言葉が「よく分からない」
子供たちが、なまりたっぷりの
「うちなーぐち(沖縄方言)」を喋っているのである。
「うちなーぐち」は、
祖父母が使っていたり、両親同士が、
夫婦の会話の時だけで使う
「昔の言語」だと思っていたので、
正直戸惑った。。。訳がわからない。
それも「ゴムまり遊び」や「馬跳び」
時代錯誤の
昔遊びで楽しんでいる。
ついていけない。
どうしよう・・・焦る
それに授業が簡単すぎる。。。
手をあげて発表すると1回目はOKだが、
2回、3回と何度も答えていると、
「お前、頭良いじらーかー
(頭がいい人ぶってるのか?)」
同級生からの白い目。
最初のうちは物珍しそうに、
女の子が沢山声をかけてくれていたが、
当然、深い話は出来なかった。。。
他にも「仲良しグループ」が苦手だった。
トイレまで一緒に誘われる。
緊張で全然トイレが出来ない。
ずっと、
以前の小学校に戻りたかった。
新しく「学べる」
「知識が増える」学校の授業は
嫌いじゃないのに、
休み時間が大嫌い。
友達のいない私は、
どう過ごして良いのか分からなかった。
教室移動のない時間が
退屈でしょうがなかった。
暇なので
先生の手伝いをやったり、
役割があれば「係」も喜んで引き受けた。
自分にも、
やることが「ある」
居場所がある事に救われていた。
勉強が好きだった。
小学生の時の単元ごとの
テストも大好きだった。
教科書にのってる事ばかりが載っているから、
100点をとるのが普通だと思っていた。
ただ、おっちょこちょいな性格と、
早合点が多い事から
「よいこのあゆみ」通知表には、
ケアレスミスが多いです。
名前は書きましょう。
忘れ物、無くしものが多いです・・・という感じ。
まーちーは、
しっかりしてるようで
抜けているよねーとよく言われていた。
苦手な教科は「国語」
緊張して、人前で本読みが上手にできない。
お話大会でも、
台本を覚えられず、
緊張しすぎていつも落選。
とにかく人前で注目される事には、
苦手意識があった。
おじいちゃん家が学童
当時、学童なんて所はなく、
共働きの子供たちは
「鍵っ子(かぎっこ)」と呼ばれていた。
私は学校が終わると
近所の「おじーちゃん家」に帰って、
自宅の鍵を取って家に帰る生活。
農家をやっている
お祖父ちゃんとお婆ちゃん。
オクラの出荷の時期は、
内職のようなお手伝いをしたりした。
明治生まれのおじいちゃん。
自分からは、全然話さない
おじいちゃんだったので、
会話した記憶はほとんどない。
記憶にある頃から、
しわくちゃで、めっちゃおじいちゃんだった。
「まーちー、黒サトウたべるね?」
「だ~、あっちにお菓子あるはずよー」
そんな一言だけ。
お婆ちゃんとも深い話をした思い出はない。
ただ、お婆ちゃんはいつもご機嫌で、
会話にメロディーを付けて「歌っている人」だった。
父親は8人兄弟。
だから行事があると、
じーちゃん家には沢山の人がでごった返した。
賑やかで楽しくって、
いとこも沢山あつまる年中行事が大好きだった。
佐敷に引っ越してからは、
余計にお手伝いも増えたので、
台所でオバちゃん達のお手伝いをしながら、
カツオ出しの香りや昆布の結び方、
ごぼうの揃え方など、
重箱料理の手伝いや配膳が、
上手にできるようになっていった。
学校にも馴染んでくる
人は環境に慣れる。
だんだんと馴染んでくる。
沢山の友達がいるわけじゃないけど、
集団生活も徐々に慣れてきた。
高学年になると、
勉強が出来るという理由で
学期ごとの級長や副級長をよくやっていた。
そのうち、学校の代表として、
姉妹校の「福岡の小学校」に派遣されたり、
学校代表で
読書感想文や読書感想画が推薦される。
一番にはなれないし、
一番を目指したいわけではないけど
「上位」にいる事は、必要な事だと思っていた。
10歳の時、弟が産まれる
10歳年の離れた弟が生まれ、
3姉妹+1男の4人兄弟になった。
この頃には、両親の事業も
大きくなってきていて、
従業員さんを4名程やとっていたので、
家の手伝いは姉と一緒に担当があった。
私は、洗濯物たたみ係。
小学校4年からは
吹奏楽部に入り、トランペットを担当。
合唱コンクールの時期になると、
「合唱部」にも入れられた。
この頃、
みんなで1つのテーマに向かって、
音を合わせる楽しさを知った。
ハーモニーの為には、
どのパートもどの楽器も大切だと、
やっとわかった。
合唱部はNHK合唱コンクールで、
沖縄代表の座を狙える位置にいたのに・・・
最後の年は、残念ながら2位。
それでも「みんなでやりきった爽快感」は
大きな経験だった。
なんとなく、女子が難しい
運動が苦手な分、
中学に入ってからは友達に誘われて「テニス部」へ。
バスケやバレーなど
小学校からの競技はどう逆立ちしても
やれる気がしなかったし、
軟式テニスならみんな初心者‼
さらにダブルスだから、なんとかなると思えた。
やっぱりこの頃も、
女子が大好きな「恋愛トーク」が苦手で、
どの先輩がカッコいいとか、
誰が大好きっていう・・・
みんなの前で言わなきゃいけない、
やっぱり私は「女子じゃない」感じや
「同じテンションで上手にはしゃげてない」感じが、
少しきつかった。
家に帰るとホッとした。
誰に見せるわけでもなく
イラストや物語を作って、
そっと机の奥にしまっていた。
高校時代
なんとなく、
みんなと同じ高校には
行きたくなかった。
新設されたばかりの
公立の進学校に入学を決めた。
沖縄で初めて、
中国語と英語が両方まなべて
単位が取れるというコースだった。
英語が苦手な私。
苦手を克服したくて選んだ学科では、
みんな「英語が好き」「外国で活躍したい」というエリート達。
どこに留学したいとか・・・そんな話ばかりが飛び交う。
正直「やばい」と思った。
実際、英語好きな女子の中で
いつも英語は平均以下。
英語専科なのに
「真知子はセンター試験で英語7割でOK」と
先生から励まされていた。
その分、数学や社会など、
他の教科でカバーして総合点で上位をねらっていた。
運動オンチなのでテニスを卒業して
野球部のマネージャーへ!
野球の事は全然わからないけど、
誰かを支えるってポジションに惹かれていたし
「女子の集まりじゃない」所にも惹かれていた。
弱小野球部だったから、
グランド整備はマネージャーの仕事だったし、
マネージャーの先輩は部活中にノックもやっていた。
結果、一番日に焼けていたのは
マネージャー集団だったかもしれない。
結果的に「青春」してしまっていた。
ただ、頑張っている人の力になりたい。
「頑張っている人の力になりたい」
そう思えたのはこの時期。
幼少期から、ずっと「学校の先生になる」と思っていたのに、
心理学やカウンセラーに興味がわき、
大学は「心理学」を専攻する。
沖縄からも出たかった。。。
何度も親とかけあったが
「まだ弟は8歳だよー。
県外に出してあげるお金はないからねー。
それも国立じゃないと県内でも無理かも」
あえなく志望校を沖縄内へ。
バブルも弾け、
両親の会社が大変なのも知っていたから、
大きな事は言えなかった。
大学受験を控えても、塾に通えない
県内の大学に受験すると決めても
「塾」に通う余裕はない。。。
仕方がないので、
学校で残って勉強できる時間は
とことん残り、
分からない事は、
先生に聞いてまわった。
新設校だったため、
先生たちも喜んで付き合ってくれたし、
野球部マネージャーの子だよね!!と
ちがう所で評判がよかったので、
いろんな先生方が協力してくれた。
夜は寮の中で徹底して試験対策した。
昔から、なんとなく「内申点」の稼ぎ方が分かる。
そんな、ずる賢さは変わらない。
高校受験も大学受験でも、
学校推薦枠を勝ち取る。
(国立なのでセンター試験は必須だったけど)
2月。
一足先に大学が決まると、
中学の頃、1年だけお世話になった
地元の塾に「バイトさせてください」と頭を下げに行った。
これで大学の間のお金は
なんとかなる。
ここから3年間、
塾の講師として鍛えてもらう事になる。。。
大学時代
大学に入ると、
レベルの低さに失望した。
高校の頃より簡単な講義。
やっぱり県外に行っとくんだった。。。
5月ですぐ5月病にかかっていた頃、
彼氏が出来た。
東京出身の彼は、
頭がすごく良くて、すぐに惹かれた。
あちらも、超沖縄っぽい私の
挙動や「なまりが可愛い」とよく笑っていた。
バイト先の塾では、クラス担当制。
毎回テキストや問題を担当教師が作成。
裁量権が大きい分、結果がでない時には、
偉い先生達の前で模擬授業をさせられる。。。
やりがいと厳しさを学べた塾だった。
その時、上位クラスは
どんどん伸ばす事が出来たが、
下位クラスの子達(しぶしぶ塾に来ている子)達を
伸ばして上げられない歯がゆさがもどかしかった。
こんなんじゃー、学校の先生なんてなれない。
夢を1つあきらめたのも、この時
夢がどんどん潰れていく
そして、もう一つの夢、
心理士やカウンセラーの夢もあえなく潰れる。
理由は、児童養護施設のボランティア。
何度も通ったボランティア施設で、
子どもたちの境遇に驚き、涙し一緒に落ち込む。。。
気持ちが引きずられ、数日立っても、
気持ちを通常モードに持っていけなくなる程、
その子のことばかり考えてしまい
気持ちを占拠される。
学びたての心理学では
「心理学は統計学だから!」とか
「気持ちが引きずられるようでは
患者を治療する事なんて出来ない」と
叱咤される。
教授に人間の
温度感を感じなくなってきて・・・
嫌いになる。
「別に、知らない誰かを
救えなくってもいい。
身の回りの友人のチカラになれれば、それで良い」
教師にもなれない、
カウンセラーにもなれない、
心理学を諦め、もう大学に通う意味が
わからなくなっていた。
ただ成績優秀者は
「学費の半額免除」が与えられていた為、
これだけは逃す事ができない・・・
どんなにモチベーションが低くても、
授業には参加しつづけた。
そして唯一、
次にできた大阪の彼氏が
ユニークな人で、
彼と過ごす日々と「優」で卒業する事だけが、
大学に通う理由になっていた。。。
そろそろレールから外れたい・・・でも飛び出す勇気がない
「専門を変える」形で心理学専攻から、
人と人との関係性を学ぶ「社会学」に変更。
後にフィールドワークや
インタビュー社会調査の楽しさを知ることになる。
ただ、、これを学んだ所で、
何者にもなれない感じは、
ずっと消えなかった。
毎日、それなりに楽しいけど
「これをやって何になれるの?」という不安。
実際、就職活動にも熱が入らず、
親に内緒で、大阪の彼の実家に挨拶に行った。
大阪で働こうかなーと思っていたのに、
就職対策が間に合わず、
ものの見事に、すべて落ちる・・・
沖縄での就職活動も、
すべて落ちる。
「まーそうだよな」って
どこかで思っていた。
これまで、ずっとレールに乗って、
進んできたので、そろそろ休みたい。
留学している友達や、
休学してワーホリに言った友人、
留学先から帰ってきた同級生が眩しくうつるけど、
英語が苦手・・・
結局海外に飛び出す勇気もない。。。
母の一声
新卒を諦めて、
姉と「卒業旅行のタイ」を決めると、
ラジオ好きの母親から
「あんた琉球大学出ても、
何にもならなくていいの?
ラジオ聞いてたら、
琉球放送でまだキャスター募集してるけど。
これ、あんたに向いてそうじゃない?」
と言われ・・飛行機に乗る前夜、
エントリーシートと課題の小論文を仕上げ、投函。
旅行から帰ってき時には
「1次合格」の通知が届いていた。。。
ーーーーーーーーーー
昔から、頑張っている事は、
うまくいかない事が多い。
「これ、いいんじゃない?」
「出来そうじゃない?」
言葉に乗っかってみると、
結構うまくいき始める。
周りからの人運だけは、
本当に恵まれている。
家族や周りの人が、私のことを、
よく知ってくれている感じがする。
目標をもって
進んでるつもりだけど、
よくうまくいかなくなる。
でも
そのたびに周りがヒントや
お題をくれるから、
それに乗って応えていると、
最後には「なんとかなる」って感じがする。
流れに身を任せて、
これからも進むのだろうか。。。
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