見出し画像

椅子取りゲーム

「自殺は甘えだろうか?
場合によっては、意味なく生きることこそ、堕落という甘美ではないだろうか」

ある無名哲学者の箴言より——

 朝が来た。私は急いで支度をして、家を出て蒲田駅へと向かった。既に汗が滲んでいた。
 駅のホームにたどり着くと、人々の列が並んでいた。その末尾に参列し、手をうちわ代わりにひらひらと動かした。流れ出る汗は皮脂と混ざり合いねっとりとしている。額を拭うと前髪が崩れるので我慢した。
 電車が来た。満員である。僅かな隙間を見つけ収まっていく人だかり。無理やりに体をねじ込み、車両内へと入り込んだ。右手でつり革を掴むと、隣の半袖シャツのサラリーマンの腕が私の腕とぴたっと触れた。お互いの汗の水分が混ざり合う感触が伝わりすぐにつり革を離した。腕に付着した汗をどこかに擦り付けたい衝動に駆られたが、自分の服にはできず、いつの間にか冷房で汗は乾いた。
 時刻は六時。睡眠時間は三時間も取れていなかった。眠れなかったのは遊んでいたからではない。純粋に眠れなかった。電気を消してベッドに入り込み、固く瞼を閉じてみたものの意識は良好だった。早く眠りが意識を奪い去ってくれればいいのに。もう仕方がないから、明日の仕事の手順をおさらいしてみることにした。
 まず厨房に入ったら、各フロアに白布巾を設置。その後は大根と山葵を擦っておく。擦ったものは冷蔵庫にしまっておいて、漬けて置いた胡瓜を切り、小皿に盛り付ける。だいたい五十皿くらい。ああ忘れていた。ぬか床をひっくり返かないといけない。いつもこの作業を忘れる。朝すぐにひっくり返さないと駄目なのだ。そうしないと意地悪な田村さんにまた叱られる。その後は卵を研いで……。
 そうこうしているうちに瞼の裏側が白んできた。眠っていたのか起きていたのかわからないが、とりあえず時間は進んでいた。目を閉じていても仕事をしている感覚があって、たまに職場でデジャヴが起きた。そうなってくるといよいよ、寝ていようが起きていようが変わりがなかった。
 川崎駅に着いた。周りを見渡して、座っている乗客が降りるために立ち上がるその隙を伺った。しかし立ち上がった傍から目の前に立っている客に席を取られてしまい、座ることはできなかった。満員だった車両が少し空いたので、OLが座っている席の前に移動した。眠っている奴は論外で、スマホをいじったり、周りをきょろきょろ見ている奴には可能性があった。私はその席を標的にしながら、その隣の席も空きそうな予感がしたので、その両方のちょうど中間あたりに立った。次こそは座りたい。座って目を瞑りたい。
 鶴見駅に着いた。目の前の二席は空かず、背を向けていた反対側が空いた。咄嗟に身を翻し座ろうと思ったが、勢いよく滑り込んできた体格の良いブラックスーツの男に取られた。この暑さの中で背広を羽織っている姿を見ると無性に腹が立った。見ているだけで暑苦しい。
 元いた位置に戻ろうとしたら、私が陣取っていた場所に小柄な女が立っていた。絶好のポジションを奪い返したい気持ちに駆られたが、無理にやると痴漢だと疑われるので、やめた。見ているだけで暑苦しいブラックスーツ男の目の前に立って、そいつが立ち上がることを願うしかなかった。
 小学生の頃の椅子取りゲームを思い出した。
 もう名前も思い出せない、廊下とはまた違うだだっ広いスペースに席を持って輪になった。音楽が流れだし、皆が歩き出したので、同じようにした。音楽が止まると一斉に席に座り始めた。私は自分の席にしか座れないと思って、自分の元居た場所に戻ったがもう既に座られていた。脱落者は輪から抜けて体育座りで座った。
 二回目のチャンスがやってきた。音楽が止まった時の一番近くの椅子に座ればいい。ただそれだけだった。音楽が止まった。さぁ座ろうと勢いよく尻を椅子目掛けて突き出したが、隣の男の子に押し負けた。またもや体育座りを強いられた。
 新子安駅に着いた。目の前にブラックスーツは微動だにしなかった。元々私が立っていた場所を陣取った小柄な女はすっと座った。周りを見渡しても席は空いていなかった。もう仕方がないので立ちながら目を瞑った。桜木町駅まであと三駅しかなかった。
 ゲームに負けると不快なのは当たり前だった。そしてその当たり前が日常の当たり前になると、全てのやる気が削がれた。テストで良い点が取れないと分かってからは、紙に名前だけ書いて後は突っ伏して眠った。徒競走で一番になれないと分かってからは、体育の授業はサボった。初恋の女の子が隣のクラスのイケメンに告白したと聞いたときは、好きだったという感情を殺した。もう名前も顔も思い出せない。それでも不快なことは不快だった。どこまでもその感情はついてまわった。そして今も続いている。生きることが不快……。

 目を開けると、もうブラックスーツの男はいなかった。代わりに、くたびれた老人が腰かけていた。
 電車は止まっていた。車窓から外を覗くと、真っ暗だった。暗闇の中で電灯がぽつんとオレンジ色の光を放っており、駅ホームのごつごつとしたコンクリートが反射で鈍く黒光りしていた。「夜駅」と看板に書かれていた。「夜駅」という駅名は聞いたことがなかったし、記憶の中の京浜東北線の路線図に、そのような駅はなかった。ここはどこだろうと思う前に夢だと感じた。しかしもし今が夢だとしたら、現実では眠っていることになる。寝過ごしてしまう。早いところ起きよう。目を閉じた。
 電車が発進した。薄目で窓から外を眺めると綺麗な暗闇だった。街というか景色そのものが無い。漆黒。漆黒が流れている。
 夢の中でも席に座れないことに落胆した。もうこれは起きたら大船まで行っているだろう。駅員に肩を叩かれて目覚め、大急ぎで反対車線の車両に乗り込んでも遅刻は決定的だった。もうこのまま仕事を飛んでしまおうか。
 実際、なぜ働いているのかわからなかった。一週間前、飯のストックが無くなって急いで一升半炊き始めた。それでもオーダーに間に合わず、十歳上の先輩に叱られ、蹴られた。「お前はなんでもっと早く炊き始めねえんだよ。真面目にやってんのか!」大真面目に働いているつもりだった。飯が多めに残っても叱られるので調整していたのが裏目に出ただけだった。結局やられることは変わりない。それでもなるべくロスも作業量も減らしたいので、「やらない」に舵を切っただけだ。
 厨房の中には「追いまわし」という文化があり、割り振られている仕事が終わった後に、別の仕事が振られ、その仕事も終わればまた別の仕事を振られ、という感じで仕事量が増えていく。息つく暇もなく仕事に追いまわされ、自分の場所に戻った頃には、漬物や飯、玉子焼きのストックが無くなっていた。ストックを作るために自分の作業に移るが、追いまわしは尚も続いており、そちらを優先させていると、オーダーに間に合わなくなって、叱責と暴力が始まる。それの繰り返しだった。逆に自分の作業を優先させても、「なんで俺の言ったことができてねえんだ」と頭ごなしに言われるので、最終的に自分の作業の優先順位を下げざるを得なくなっていった。それ以外に道があるなら教えてもらいたいくらいだった。
 働いている理由がわからないのと同じように、生きている理由もわからなかった。働くのは生きるためだ。金を稼がなければ飯も食えなくなる。その点、料亭で働いている分には飯に困ることはなかった。最終的に賄いで腹は膨れる。残った飯と漬物を茶碗によそり、調味料がストックされている倉庫で飯を食っていると、涙が出た。働くために生きているように思えたからだった。生きるために働くのか、働くために生きているのか、毎日十六時間労働していると、それがわからなくなった。
「真夜中駅」に着いた。相変わらずの真っ暗だった。自分の人生も同じような真っ暗加減なのでどこか心地よかった。目は冴えている。目の前にいたはずの老人は赤子にすり替わっており、その隣には母親らしき女が座っていた。開いたドアから何人かの客が乗り込んできており、私の周りを囲むように立ち止まった。赤ん坊と母親が立ち上がるのに賭けるのは流石に分が悪いと思い、かき分けるようにしてその場から移動した。
 もう大船駅に着いた頃合いだと思ったが、真夜中は続いていた。早く車掌が起こしてくれればいいものを、まだ夢から覚めなかった。電車は動き出す。
 つり革を握り、重心を掛けた。もう立つのが限界だった。電車の中で座るのはマナー違反だが、夢の中であれば、座ってもいいのではないか? そんな気がしたが、やはり立ち続けた。一度座ってしまえば、もう立ち上がれなくなりそうな気がした。
 飛んだ後、自分にどんな仕事が用意されているのだろうか。だいたいは肉体労働だろう。というか、それぐらいしか残っていない。エッセンシャルワーカー、底辺労働者。言い方はいくらでもあるだろうが、そういう場所では、おそらく今と変わらない「しごき」が待っている。結局辞めても変わらない。どこにも私の居場所はない。
 死んだ方が、コスパがいい。生と死の選択肢があって、より単純で作業量の少ない、つまりコスパの良い選択肢を取ろうとすると「死」一択だった。これから就活も面倒。専門学校に行くという手もあるが、お勉強が嫌いで高卒で働き始めたのにまたお勉強かよ、となる。生きていても不快、面倒、コスパが悪い。逆に死ねば、不快は取り除かれる。不快を感じる私が、世界から取り除かれる。そっちの方が断然いいではないか! 死のう! 今すぐ死のう!
 思い立ったが吉日、早いところ電車から降りたかったが、なかなか真夜中は過ぎない。暗闇の中で滑走する電車を想像した。車窓から身を乗り出して外に出れば、投げ飛ばされた衝撃で死ねる気がしたが、周りに迷惑がかかると思った。最終的に死ねば誰かしらに迷惑をかけることになるが、最小限に抑えるのがマナーな気がした。とりあえず次の駅で降りて、一人で死のう。タイミングよく車線に飛び降りてこの世にさよならしよう。
 電車はトンネルに入った。外は暗闇なので視界に変化はない。闇から闇へと高速で移動しているに過ぎない。
 窓ガラスに映る自分の姿を見ると、老人が立っていた。いつの間にかいなくなり赤子にすり替わっていたあのくたびれた老人そっくりだ。死ぬには都合がいいと思った。老人は死んでも不自然じゃない。老いて死ぬことは自然なことで、自分の死もその自然の一部だと実感した。
 普通トンネルを抜ければ、光が見える。人生がもしトンネルだとしたら、いつかは光が差し込んでくる。母親がそんな例え話をしてくれたことがあった。トンネル、光、人生——全ては比喩に過ぎない。薄っぺらな言葉で現実をコーティングしても中身は変わらない。
 真夜中が過ぎ去っていった。薄青い空に靄のような雲が霞み、鳥のさえずりが聞こえ、乾いた風が吹いた。
 ホームに降りて過ぎ行く電車を見送る。あの電車はどこまで行くのだろうか。夜も、真夜中でも、走り続ける電車。休むことなく人を乗せる使命を帯びた箱。あれはどこまで人を運んでくれるのだろうか。私なら、適当なところで止まるだろう。
 老体に鞭打ち反対のホームまで走った。階段を登り、連絡通路を渡り、階段を下った。駅には誰もいなかった。駅員すらもいない。飛び降りるには好都合だった。死の段取りは着実に進んでいる。

 電車を待った。いつまでも待った。かれこれ何時間も経過していることはわかっていた。縄ひもを買って椅子を用意してもそこに上がれないように、風呂に水を溜めカッターを用意しても手首が切れないように、最後の一歩が踏み出せない。自分を轢き殺してくれる電車はいつまでも来なかった。
この駅に電車は来ない。そう確信して、駅を出た。そしてひたすらに走った。真夜中の方向に。
 もし仮に、このまま走り続けてもう一度真夜中を迎えるとしたら、可逆的な道筋を辿っていることになる。しかし時間は巻き戻らない。西から太陽が昇り、東に向かうことはない。あの時にこうしていれば、あの日に戻れれば、何かが変わったかもしれない。時間を巻き戻して、やり直したいことが山のようにあった。手に入れられないものが多すぎたんだ。今からなら、時間さえ戻ってくれれば、手に入るかもしれない。
 太陽が昇った。路線沿いを走っているのに、まだ駅は見えてこなかった。いつまで走ればいいのかわからないが、走り続ければ、身体は次の場所へと運ばれていく。もうこの身体があの厨房に入ることはないだろう。飛ぶならいっそのこと派手に飛ぼう。どこか遠くへ飛ばしてやろう。今も過去も消し飛ばしてやろう。もう元に戻れないほどに。

「お客さん終点ですよ」
 目を醒ますと、大船駅に着いていた。無意識に反対ホームの車両まで走り始めたが、もうそれも無意味だと気付いたので、走るのをやめた。スマホで時間を確認すると、職場の先輩から数十件にわたる着信履歴があった。これ以上連絡が来ると罪悪感が生まれそうだったので、スマホを機内モードにした。スマホは時計代わりの鉄の板切れになった。
 まばらに人が入っていく車両に足を踏み入れ、ドア近くの席に腰かけた。やっと座れたと安堵したと同時に、機内モードにしているから羽田までの最短ルートを調べられないことに気が付いた。しかし、たしか川崎で乗り換えればいいと思い出し、考えることをやめた。飛ぶ先の場所に想いを馳せたが、正直どこでもいいと思った。今いる場所からなるべく遠くへ行きたい。どこまでも遠くへ飛んで、もう帰って来れない場所が良いと思った。
 電車が動き出した。川崎へ着いたら乗り換える。もうきっと京浜東北線に乗ることもないだろう。人生の乗り換え地点。駅がホームに着いたら立ち上がるのだ。もし乗り換え先の電車で座れなければ、次に座るのは飛行機の中の狭いシート。でも座れるだけマシだ。まだあのクソみたいに不快なゲームは続いている。立ち上がるその時は決まっている。
 川崎駅に着いた。立ち上がり車両から降りて、私は走った。次の電車まで走った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?