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もっと早く出会いたかった①@町医者エッセイ

「積極的」という言葉。
医師として、いつも違和感を覚えつつ仕方なく使っている言葉です。
例えば「積極的治療」のように。ガンの場合、癌を切り取る手術だったり、抗がん剤治療だったりを指します。一方で治癒が望めず、せめて苦痛だけでもしっかりとろうという趣旨の緩和ケアは「積極的医療」と呼ばないことが多いです。
 
天野さんのときもそうでした。
「積極的治療の適応ではなくなったので、あとはご自宅で緩和ケアを」と。大病院から私への紹介状の一節です。
まず、医師のこのコメントに一切の悪意がないことを強調しておきます。
しかし、患者さんの側からするとどうでしょう。
確かに、癌を治す治療はできないかもしれない。とはいえ人生は続く。続く限り、希望を捨てず、積極的でありたいと願われる患者さんは多いです。しかしながら、「積極的治療の適応ではない」と。医師としてはいわゆる事実を伝えているのみですが、このフレーズに相当なショックを受けられる患者さんが少なくないですし、見捨てられたと絶望の淵に立たされる患者さんもまた少なくありません。
 
自戒の念を込めて、私は、医師として、自らが発する言葉のインパクトを肝に銘じつつ、この「積極的」というフレーズ一つとっても、患者さんとの丁寧な語り合いを通じて、言葉の意味を共有できるように最善を尽くしたいと思います。
 
さて、天野さんは、60歳前後の女性。盛岡で生まれ、盛岡で育ちました。10代終わりに上京し、東京で家族を持ちました。順風満帆だった人生に転機が訪れたのは50代半ば。癌が見つかりました。以降、様々な治療をしましたが、癌の勢いは止めきれませんでした。結局、ご自分の判断で積極的治療を断念。「最後は故郷で」と、家族を関東に残し、一人、40年ほどぶりに盛岡の実家に戻りました。関東に残った家族も天野さんの気持ちを受け止めてくださり、頻繁に盛岡に通ってこられました。
 
先の紹介状を受け取り、その数日後、天野さんが終の棲家と決めたご実家に伺いました。立ち上がるのもやっとというほどにやせ細った天野さんは、ソファーに横たわっていました。明らかに辛そうでした。何でしょう、生気とでも言うのでしょうか、表情からはまるで生気が感じられず、明らかに死がそこまで迫っているという印象でした。
 
「今、一番治してほしいところは何ですか」
「とにかく寝たい。この半年、全く眠れていないの」
「えっ、それだけ!?難しくないですね。ちょっぴりお薬を調整しますから、きっといくらか眠られると思いますよ」
 
数日後に再訪。天野さん、初対面とはうって変わった表情で、笑顔でおっしゃいました。
 
「先生、ぐっすり眠られたわ。こんなことだったら、もっと早く先生に出会いたかった」
「それは良かった!同じく、私も早く天野さんに出会いたかった。僕が有名な医者だったら見つけられたでしょうに。無名ですみません」
 
お互い笑い合いましたが、一方で私は心中複雑でした。もっと早く天野さんに出会っていれば、いくらでも苦痛が和らぎ、もっと悪くない晩年を過ごしていただけたのかなと。このときの天野さんとのやり取りが、私が「暮らしの保健室もりおか」という街のよろず相談所の活動を加速させる原動力となりました。保健室についてはまた後ほど。
 
さて、もっとも苦しかった不眠がとれた天野さん。ここから、あらためて、天野さんと私の最後の物語が幕をあけました。積極的な緩和ケアという物語です。(続く)

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