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未完成なぼく@町医者エッセイ

大都会で働いていた湊さんは、60歳を目前に故郷岩手に戻りました。運命は残酷でした。岩手に戻り程なくして、湊さんを病魔が襲います。胃ガンでした。手術にて一旦は改善するも病魔はすぐ勢いを取り戻します。再発と転移。抗ガン剤治療を受けましたが、少しずつ効かなくなりました。いよいよどの薬も受け付けなくなり、緩和医療中心の自宅療養を希望され、私のところにやってきました。梅雨の最中、ジメジメした7月初めでした。

初対面の折、末期ガンであることは一目瞭然でした。顔はやせ細り、治療の影響で喉が弱くなり、十分に食べられていませんでした。ただし眼光だけは鋭く、よっぽど強い気持ちをもっていないと目をそむけてしまいそうな、そんな鋭さでした。

 

「先生、包み隠さず何でも言ってください」

「いいんですか。ではお伝えします。残された期間はおそらく1ヶ月ほどです」


こういうとき、お互い泣ければどんなに楽でしょう。しかし男同士、簡単にいきません。湊さんは表情を一切変えず、淡々と私の厳しい宣告を受け止めているようでした。

このとき、私は自分でも驚く提案を湊さんにしました。


「湊さん、中心静脈栄養を受けませんか」


中心静脈栄養というのは太い血管に栄養を注射する方法です。一般的に、寿命が近い方にはあまりやらない治療法です。残された寿命が1ヶ月ともなれば尚更です。

では、なぜ医師である私が中心静脈栄養を提案したのでしょうか。湊さんが希望し私が受け入れるのであればまだしも、専門家である私からの提案です。いまだに謎です。

湊さんは、一見、全く諦めていませんでした。緩和医療しかないと言われても、治る希望を捨てていませんでした。食事は満足に摂れていなかったものの、治療やリハビリでまた口から食べられるようになると信じていました。「残された寿命が1ヶ月」との指摘を受け止めつつも、もっと生きるつもりでしたし、大好きな家族とまだまだ元気に過ごすと決めていたようでした。

私は医師ですから、湊さんの希望も願いも期待も、いずれも厳しいことを誰よりも知っていました。奇跡は起きるものではなく起こすものだと私は信じていましたが、少なくとも私には、湊さんが願うような奇跡を起こす術は持ち合わせていませんでした。唯一できることは緩和医療、そして願うことでした。

お互いに絶望の淵に立っていました。しかし、その淵での振る舞いが湊さんと私では明らかに異なっていました。私は盛んに後ろを振り返り、崖を転げ落ちないよう静かに降りてゆくイメージ。一方で湊さんは後ろを振り返ることなく前に歩き出していました。そんな強い湊さんを間近に見ていると、不思議と奇跡が起きそうな予感もしたのです。きっと、そういう湊さんの強さに私の心が揺さぶられ、反射的にあの提案に至ったのだと思うのです。

湊さんは、私の提案を受け入れてくださいました。中心静脈栄養が始まり、リハビリも行いました。藁にもすがる思いで、いくつかの薬も使いました。すると、どうでしょう。若干なりとも改善するのです。私は、ひょっとすると奇跡はおきるのかもしれないと思いました。

「先生、お礼に何か絵を書いてあげようか」


幾分元気を取り戻した湊さんが、お返しとばかりに提案してくださいました。湊さんは元々プロの絵描きさんだったのです。


「とっても嬉しいです。では私の似顔絵を書いてくださいませんか。自分の講演のときとかに使うマスコットのような自分の似顔絵が欲しかったんです」

「お安い御用だね。いつまでに描けばいい?」

「8月5日ではいかがでしょう。次の講演が8月6日なので」


湊さんは患者さんでしたが、このときは違いました。病気を患っていようともプロはプロであり、私が仕事の依頼主、つまり客でした。

プロとの仕事には期限がつきものです。私は複雑な思いとともに、8月5日を締切日に設定しました。なぜ複雑だったか? 8月5日は私の寿命予測を超えていたからです。ただ、長めの締め切りに、生きる原動力になってくれるよう願いを込めました。


絵を描けるほどに元気が戻ったと喜んでいたのも束の間、湊さんは再び悪化の一途を辿ります。どんなに頑張ろうとも、どんなに願おうとも、病魔は淡々と進みました。病魔とは残酷です。

この頃になると、栄養点滴が身体の負担になりはじめていました。しかし、湊さんの心の支えになっていたのでしょう。点滴を減らすことには否定的でした。

少なからず害を与えてはいけない、医師が守るべきルールの一つです。湊さんと語り合い、点滴を減らしました。医師としては当然の決断ですが、湊さんにとっては苦渋の決断だったことでしょう。栄養を減らすということは、そういうことなのです。


寿命が確実に近づきつつあったある訪問診療のとき、ご家族が湊さんに内緒で私に一枚のメモを見せてくれました。湊さんがご家族に宛てた直筆のメモです。衝撃的な内容でした。自殺に見せかけての他殺、家族への詳細な指示が書かれていました。辛くて死にたいけど、さすがに自殺はできない。だから殺してくれと。しかし残された家族を罪人にはできないから、あくまで自殺という見せ方でと。私は湊さんに何かを為していると信じていました。しかし、「つもり」だけで、実は何も為していませんでした。自殺したいほどに孤独に悩ませていたわけですから。ところが、これほどに悩んでいた湊さんに私は謝罪されます。


「先生、すまない。約束の絵、間に合わなかったよ」


言葉を失いました。死がもうそこまで迫っているにもかかわらず、湊さんは自分の仕事と私を気にかけている。湊さんは私なんかより遥かに強い人間で、明らかにプロフェッショナルでした。


「先生、不安だよ」と、いよいよ起き上がることも、目を開けることも難しくなった湊さんが絞り出すように語りました。


「何が不安ですか?」

「死ぬこと。だって死んだことがないからね」


湊さんの理由はえらく腑に落ちました。私たち人間はいつか確実に死にますが、死を経験したときにはすでに亡くなっています。ですから、死ぬという経験を後進に説明できる人はいないのです。私たちは、死に対しては常に初心者なのです。

死を目前に不安とともにある湊さんを前に、私はただ沈黙する他ありませんでした。情けない医者でした。

私の予想――1ヶ月という湊さんの予後予測―−が刻一刻と迫っていた7月末、湊さんの意識が朦朧とのことで、すぐご自宅に伺いました。湊さんにあの鋭い目はありませんでした。もはや目を開けることも、お話することもできませんでした。悲しいかな、医師の予想は案外当たるものです。死はもうそこまできていました。医師である私にできることはほぼ残されていませんでした。一方、一人の人生の後輩としてできることがありました。敬意と謝意を伝えることです。


「湊さん、言い忘れないよう、いまのうちにお伝えしますね。私はまだまだ若い男だけど、いつかは湊さんのような強い男になりたいです」


わずかに目元と口元が緩み、微笑んでくれたように見えました。ただ、どちらかというと苦笑いのような。「お前には無理だぜ」か、「それほど強くもないよ」か。 

結局、湊さんとの最後の会話になりました。「言い忘れないよう」とはお茶をにごしただけです。次にお会いする時は臨終のときと確信していたので、このタイミングを逃せば伝える機会がないと思ったからです。


8月1日早朝、私の携帯電話がなりました。湊さんの呼吸が止まったと。瞬間的に白衣が思い浮かびました。普段、訪問診療で白衣を着ない私ですが、このときばかりは白衣を羽織ることにしました。湊さん――憧れの男の先輩――の臨終に際し、私は個人・松嶋ではなく、医師・松嶋である必要があると考えたからです。

自宅に伺い、白衣をまとい臨終を確認しました。まもなく看護師たちがビールを飲ませようという話をしました。湊さんが生前、病気が治ったらビールをゴクゴクと飲みたいと願っていたからです。コップのビールが湊さんの口に注がれました。もう目を開けることも、むせることもできない湊さんでしたが、最期のビールを間違いなく飲みました。ビールは喉で飲むものだと仰っていた湊さんが最期に私たちに見せつけてくれました。


ビールを楽しむ湊さんの近くで死亡診断書を書いていると、湊さんのお父様が語ってくれました。


「毎月1日が大好きな子でねぇ。1日には月のカレンダーをめくるでしょ。小さい頃から絵を書くことが大好きだったから、1日にカレンダーをめくってその裏に思いっきり絵を書くんですよ」


大好きな1日である8月1日に臨終。偶然ではない必然を感じる私は不謹慎でしょうか。


書き終えた死亡診断書をお渡しし、ご自宅をあとにしようと玄関で靴を履いていると、奥様に呼び止められました。


「先生、これ、未完成ですがよければ」と私が依頼した似顔絵。完成には至らなかったものの、途中までは書いていらっしゃったのです。


8月6日、講演にて絵を初披露しました。以後、私は、講演の際、この未完成の絵を披露しています。湊さんとの約束、そして何より湊さんの絵を自慢したいからです。でも、プロの湊さんは天国で怒っているかもしれないな。未完成の絵を世の中に広く披露しているわけだから。ただし私は未完成な男。だから未完成の絵が私には最も合っています。この未完成な絵とともに成長するつもりです。

今年もまた8月1日がやってきます。湊さん、未完成な私は、かっこいい湊さんにいくらかでも近づいていますか?いや、まだまだだね。

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