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香りの儀式

 誰かに会う日、一人で過ごす日。
洗面台の棚には、壜に入った二つの「選択」が並んでいる。その日をどんな一日にするか決めたら、二つのうちどちらかを選んで、手首、ときには首筋にふりかける。これが、毎朝わたしが秘かに行う、小さな儀式である。

 人と会う予定がある日、わたしは決まってメゾン・フランシスクルジャンの「ジェントル フルイディティ ゴールド」をつける。

香りの中でもわたしが一、二番目に好きなムスクに加えて、バニラの甘い香りが目立ちながら不思議と透明感があり、決してしつこくない。時間が経つと香りは深みを増し、より人の肌に近い甘みを帯びてくる。華やかさと明るさに程よく官能的な印象があって、ポジティブな親しみやすさがあるから、わたしが自然体で人と交流することをいつも助けてくれる。わたしにとって、人とのコミュニケーションは常にぎこちなさと共にあることが多く、しかも形骸化しやすいので、この香水の持つ力はほんとうに心強い。
 メゾンのホームページには、フレグランスの意図がこんな風に書かれている。

ジェントル フルイディティは、現代のジェンダーに対する彼の考えでもあります。Gentle(おだやかな)は、ブランドが大切にしている価値観のひとつである「博愛」を、Fluidity(流動性、なめらかさ)は、メゾンの自由な精神とクリエイティビティ、また、人は誰でも自由に個性を表現できるということを表しています。(公式HPより)

この黄金色をしたパルファンこそ、わたしがコミュニケーションのときに求めるやさしい寛容、そして流動性を、まさに表した香りだった。きっと、この香水はこれから先もわたしの日常に欠かせないものであり続けるだろう。なんとなく“パートナー”と呼びたくなる、そんな香りである。

 では、一人で過ごす日は?
TOBALIの「スプリングスノー」がわたしのルーティンになっている。

茶道具にも似た真っ白な陶器の入れものは、サロンドパルファンの売り場で手にとった際にすっぽりと掌に収まった。「春の雪」という名前は、歌舞伎役者の中村歌右衛門に由来するとのことだが、わたしには三島由紀夫による同名の小説が真っ先に浮かんだ。

優美に秘める冷静
女性のみを演じる俳優として真の女性を表現した、歌舞伎界を代表する女形の最高峰、歌舞伎役者。幻想的な<優美>さと、静かな<冷静>さを持ち、性を超越して女性の美しさを見事に表現した。世界的な作家“三島由紀夫”はその美しさを称賛し、共に歴史に残る作品を残した。スターとなった後も自身に奢ることなく、人に対し非常に柔らかく丁寧な言葉と物腰で冷静に立ち振る舞い、人格者としても多くの尊敬を集めた。性を超越した美しさで舞台に生涯を通して立ち続け、春の日に満開の桜が庭に咲き誇る中、季節はずれの粉雪が舞い散る彼の存在を象徴するような幻想的な日に、その生涯を閉じた。(公式HPより)

白檀が最初に香る「スプリングスノー」は「ジェントル フルイディティ」と違って、周囲から見えない静けさで自分を隔絶してくれるような気がする。だから勉強や作業に集中したいとき、一人でどこか静かな場所に出かけたいときには最適なのだ。それに、香水自体に完璧な世界観があるから、この香りをつけることで自分の世界もほんの僅か完成に近づいて、クリエイティブな情熱が静かに滴るのを感じられる気がする。

 わたしが香水に求めるものは、どちらのパルファンにもそなわっている。いわゆる、「性の超越」「気高さ」「優美さ」――そしてほんの少しの官能性。
やはり気兼ねなくつけられるのは無性別な香りだし、香水をつけるのは、なりたい自分になるためというより、精神に化粧をする感覚が近いから、背筋が凛とするような香りがいい。そして何より、出会う人たちに香りとわたしを結びつけてほしいので、日常で使う香水はできるだけ少なくするようにしている。(それでも欲に負けていつのまにか増える小壜……)

 日本では、香水に対してネガティブなイメージが往々にしてあると感じる。満員電車やエレベーターなどで香水のにおいを発する人がいると、確かにいやがる人は多いな、というのがわたしの体感だ。海外では香りは社交と結びつく「外」の文化であるのに対して、日本では香道という芸事があるように、きわめて私的な「内」の文化であることも関わっているのかもしれない。多くの日本人が、他人の強い香水を嗅いであまり良い気分にならないのは、否応なくその人のプライベートな領域を目の前で開示されているような、そんな心持ちにさせられるからだろうか。

 けれどもわたしは、パリのメトロで力強い香りを流星のように残して、颯爽と歩いていった女性の姿が忘れられない。近頃、大学の研究の関係で身体について考えることが増え、ふとそんな記憶が甦った。思えばパリの女性たちは、自分の体を越えて香りという「atmosphère(雰囲気・ムード)」を捉えていた。香水を使うことで、わたしたちは“身体の境界線”を、こんなにも簡単に超えることができるのだ。

 だから、わたしは香水を、精神を飾れる唯一の化粧として用いるだけでなく、うっかりすると日常に稀釈されてしまいがちな、わたしたち個人の「核」を守るための鎧として身体にふりかける。あるいは、わたしという城の周囲に巡らす深い森として。香りは、その森に色とりどりの花を咲かせることもできるし、雪や雨を降らせたり、ときに湿った木々や苔で静寂をもたらしてくれる。

そんな香水をつける瞬間は、わたしが社会に、他者に関わるのだという強い覚悟を確認するための儀式になる。コミュニケーション、つまり自分ではない誰かの“領地”に入るということは、心温まる交流でもあるけれど、同時に危険を伴うこともある。

香りのヴェールは、こうした恐れに屈しそうになるわたしの背中を押して、光さす扉の外へと導いてくれるのだ。

青磁

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