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10年前の自分が、10年後の自分をつくる

30歳になった時に「20代の結果が30代やで」と言われました。
20代がすごく楽しく充実してたので、どんな30代になるのかワクワクしてました。
その「結果」を書き綴ろうと思います。

【 30代の出来事3選 】

① 臓器が破裂?!人生初の救急搬送手術&入院

こんなタイトル付けると何事!?と思われるかもしれません。
結論から言うと「子宮外妊娠」をして、卵巣と子宮をつなぐ卵管が破裂しました。
いちおう「卵管」も臓器の一部ですから、表現は間違ってないはず笑

この事件が起こる前、妊娠に気付いて産婦人科へ。
そこで「妊娠してるけどちょっと変なので、2週間後にもう一度来てもらえる?」と言われ、帰宅。
妊娠の喜びと『ちょっと変とはなんぞや?』という不安とが押し寄せる中、とりあえず日常生活を送っていました。

産婦人科受診から約1週間後、朝からひどい腹痛があり、「まさか、生理痛?!」と思ってトイレに行ってもその様子はなし。
何の痛みか分からないけど、とにかく痛い。
すぐに病院へ・・と思うも、なんとその日は休診日。
痛いといっても、のた打ち回るほどの激痛ではなく、ズーンと重たい鈍痛が続くような感じ。
他の病院へ行ってもいいけど、もう動くのもしんどいのでとりあえず翌日朝いちで行くことにして、その日はすべての予定をキャンセルしてとにかく寝て過ごしました。

翌朝、重怠い身体を起こして、徒歩でも行ける距離を夫にバイクで送ってもらい病院へ。
(今考えたら臓器穴空いてる人がバイク乗るって危険じゃない・・?!怖)
診察室に入って先生が私の顔見るなり「こりゃアカン!!」と、大慌て。
私は訳が分からないまま別室のベッドへ寝かされ、点滴をされ。
その間頭の上を飛び交う先生たちの会話は

「救急車手配しました!」
「診断書は・・」
「(よくわからない固有名詞)がどうのこうの・・」

・・と、医療ドラマばりのワードばかり。
そんな会話を聞きながら、当の本人は『ん・・?もしや、大ごと?』と状況を全く分かっておらず。
看護師さんから状況を説明されたはずですが、もう何と言われたのか全く思い出せません。

でもなぜか救急車が来てから自分が手術台に乗せられるまでの出来事は、すごく鮮明に覚えています。
中でも面白かったエピソードをいくつか。

救急車到着して、救急隊員の方が狭い病院内にストレッチャーを持ってこようとしたので「歩けます」とお伝えすると、院内響き渡るすごい大きな声で「患者、歩けまーーす!」と無線報告されたこと。

救急車への付き添いは病院の看護師が一緒に乗ってくれましたが、夫は乗せてもらえず。
救急隊員の方に「自分で来てください」と言われ、バイクで救急車を追いかけるはめに!
私はドラマみたいにそばにいて欲しかったけど、バイク飛ばしてくれてる夫の状況想像したら面白いやら可哀そうやら。

救急車で大きな病院へ着いたらすぐ車いすに乗せられて、手術準備のための身体検査へ。
一番苦しかったのが肺活量を調べる検査。
太いホースみたいなのに息を吐くだけなんですが、なにせお腹が痛いので上手く息が吐けず。
検査する人から「もっと頑張って!」と言われ、半べそで息吐いたこと。

手術前には執刀医はじめ、担当医からそれぞれの説明を受けます。
その中で麻酔科の先生のキャラが濃すぎて、説明が頭に入ってこない事態発生。
前のめりで「今から使う麻酔はぁ~」とすごいノリノリで説明する様子に、『あなた自身が変な麻酔打ってるのでは・・?』と疑うほど。
夫も一緒に説明を受けていたので、夫婦の間では「あの麻酔科医ww」といまだにネタに上がる印象深い先生。

手術台に乗せられた瞬間までは覚えていますが、その後すぐ麻酔で意識がなくなり、気づいたときは病室のベッドの上にいました。
麻酔が切れかけの時って、なんであんなに痛みを感じるんでしょうね。
開腹手術をしてるのでその部分はもちろんのこと、私はとにかく足が痛くてしょうがなかったです。
朦朧とする意識の中「足が痛い」と騒いだような気がします。
そのあたりはもう薄ぼんやりであまり覚えていません。

後から聞いた話では、体内に2リットルの血が溢れてたそうです。
人によっては貧血状態で意識を失うこともあるそうなので、フラフラしながらも自力で動けていた私の身体はまぁまぁ強いみたいです笑

これが30歳になってすぐの出来事。
救急車で搬送されることはもちろん、手術も入院も人生初のことで、忘れられない30代の幕開けとなりました。

実はこの時期、朗読演劇に出演のため稽古期間中で、公演本番まで1か月を切ったタイミングでの手術入院でした。
舞台はもちろん降板しました。
上手く妊娠できなかったこと、せっかく来てくれた命を育ててあげることができなかったこと
その悲しみよりも、私は舞台のことを心配をしました。
新しい命より、自分のことを心配しました。
私よりも両親が悲しんでいるのをみて、何に悲しんでいるのかが分かりませんでした。

この出来事は「私は本当に子どもを望んでいるのだろうか」と考えはじめるきっかけとなりました。
これは私だけの問題ではないので、この後ずっと考え続けることになります。

子宮外妊娠から約1年後、またしても病院にお世話になる出来事が起こりました。

② がん発覚!8時間の大手術&入院生活

定期健診で子宮頸がんの再検査となり、再検査へ行ったら異細胞切除手術をすることになり、手術をした結果、ステージ1bの癌と診断されました。

こうなるまでどうして放っておいたの?
定期的に検査してたらもっと早くに治療できて、こんなことならなかったでしょ?

自分をいっぱい責めました。
20代後半で初めて頸がん検診をした時、すでに「要観察」と診断されていたからです。
その後再検査には行ったものの、「要観察」としか言われなかったことと、すでに頸がんのワクチンを打っていたこともあり、自分の中で勝手に『大したことないだろう』と思い込んでいました。
(この出来事で初めて、ワクチンは「予防」であって、すでに罹っているものの進行を「抑制」するものではないと学びました。)

結婚して、転職して・・としているうちに定期健診のタイミングを逃し、さらには子宮外妊娠で手術入院もあったのでまた一年延び。
そしてようやく受けた検診ではすでに進行していた癌細胞。

子宮頸がんで進行している場合、子宮全摘出の手術が一般的です。
そうすると、妊娠出産は望めません。

夫のこと、両親のこと、義両親のこと。
いろんなことを考えました。

すべては自分のせい、自分のせい、自分のせい、、、

この時期は本当に心が重く、泣いたって解決するわけじゃないのに泣けてきて、今思い出してもすごく辛い時期でした。

わーわー泣く私に、夫が一言

「子どもが欲しくて結婚したんやない」

夫は自分で自分に言い聞かせるために言った言葉かもしれません。
でも私はこの言葉に救われました。
そして今でも何かあるたび思い出す、大切な言葉です。

そんな「癌」という現実を突きつけられ途方に暮れそうなところに、救世主が現れました。
なんと職場の上司。
社員の約8割が女性という職場にいて、上司ももちろん女性。
通院で休みをとることが多かったため、現状報告として洗いざらいお話ししました。
すると、上司も同じ子宮頸がんで全摘出をしていること、そしてご自身が当時通院していた、婦人科疾患に権威ある病院のことを教えてくださいました。
同じ病気の経験者が身近にいること、それが信頼する上司であること。
あまりにも心強くて、存在が有難くて、話しながら私はびーびー泣いてしまいました。

教えてもらった病院をさっそく調べてみると、全摘出しない手術ができる、全国でも数少ない病院で、そんな病院が通院できるところにあるというのもまた幸運でした。
急いで紹介状を取り、藁にもすがる思いでセカンドオピニオンへ。

リンパに転移がないかなどいろいろ調べてもらい、最終的にその全摘出しない手術を受けられることになりました。

子宮を残すということは「子どもを望む」ということ。
可能性があるなら、それに懸けたい。
その時の私の判断はそうでした。

子宮外妊娠は急だったので何の準備もできないまま手術、入院でしたが、今回はしっかり準備して、気持ちを整理してから入院生活に入れたのもよかったです。
前回姉が大慌てで揃えてくれた入院グッズを「いつかまた使うかも・・」と残しておいたのが大いに役立ちました。
その「いつか」がこんなに早くに来るとは思ってもみなかったですけどね笑

私を不安にさせまいと、周りはたくさん気を使ってくれてただろうなと思います。
当時は本当に、自分のことを考えるので精一杯で全く余裕がなかったのですが、今になってみんなの気づかいにとても感謝しています。

手術前日から入院し、翌日朝いちで手術開始。
終わったのは夕方だったそうで、約8時間の大手術。
待ってた家族も気疲れしたはず。
姉に聞いた話では、術後すぐに先生たちは血まみれのまま出てきて、手術の成功とどんな手術だったかの説明があったそうです。
「切り取ったばっかりのあんたの肉片ムニムニしながら説明されたで!」とのこと。
血が苦手な人なら卒倒しそうな状況をしっかり笑いを交えてリポートしてくれる我が姉、グッジョブ!笑
姉がくれる笑いにはいつも本当に救われます。

そんなこんなで手術は無事に終わり、術後の経過も順調。
今回は腹腔鏡下手術だったので、開腹手術に比べて体への負担が少なく、手術翌日から普通に歩けるほどでした。
しかし病院ってなんでこんなに面白いことが多いんでしょうか。
私にとっては非日常なので、色んなことが新鮮だから面白く感じたのかもしれませんが、世の中に医療系ドラマが数多く存在する理由が分かったような気がしました。
ということで、ここからは記憶に残る面白エピソードをいくつかご紹介。

手術前最後のMRIの時、検査技師がとても若いお兄さんで、EXILEにいそうな風貌の方でした。
患者にリラックスしてもらうためか、検査室では音楽をかけてくれることがあり、今回もBGMを流してくれたのですが、その曲がなんとEXILE(曲名は忘れました)
『見た目どおりの選曲www』と、狭い機械の中で笑いを堪えました。

手術当日、待合室みたいなところへ通され看護師が呼びに来るのを待つのですが、その待合室内の患者の多いこと多いこと!
何だか空港のロビーにでもいるような感じでした。
大病院なので患者数が多いのは当たり前なのですが、同日同時刻にこんなにたくさんの方が手術を受けるということを目の当たりにしてすごく驚きました。
老若男女様々な人がそれぞれの手術を待っている、という異様な光景でしたが、私にはこれから同じ戦へ挑む同志のように感じてちょっと心強かったです。
ドラマなどのイメージで、ストレッチャーや車いすに乗せられ手術室へ向かうようなイメージでしたが、実際は歩いて手術室へ入り、自分で手術台へ乗ります。
ホカホカのカーペットのような毛布が敷かれた手術台は気持ちよくて、それだけで寝そうになる私はどんだけ精神強いんだろう・・笑

全国的にもまだ術例の少ない手術だったため、主治医の他に若手のお医者さん3人(男性2名、女性1名)のチームで執刀してくださいました。
入院中の巡回は、主治医は多忙なためあまりお会いできませんでしたが、他の担当医は毎日来てくださいました。
来てくださるのはいいのですが、3人がそれぞれ別々のタイミングで来るので私は1日3回「その後いかがですか」「問題ないです」のやり取りをすることに。
先生方もお忙しい中の巡回だと思うのですが、ある日男性担当医の一人が病室にスライディングインする勢いで「体調いかがですかぁ!」って現れたのにはちょっと笑いそうになりました。
手術着を着ていたので、誰かの執刀前に来てくださったのかなと思いますが、心の中では『先生、落ち着いて!www』でした。

入院は術後の経過観察のため、約1か月間と比較的長めでした。
身体は普通に動かせるのですが、排尿だけは術後しばらくの間は尿管でした。
点滴ぶら下げるバーに自分の排泄水が溜まる袋もぶら下げて、カラカラさせながら院内歩いていると、それを見た女性担当医から「あら、ポチつれてお散歩ね!」と言われ、この点滴ぶら下げるバー(または排泄水の袋?)は「ポチ」という名前だと知りました笑

わんわん泣いて、覚悟を決めて挑んだ手術でしたので、何一つ後悔はありませんでした。
「術後5年間再発がなければ完治」も、これを書いている今はクリアしていて、無事に完治した状態です。
ただ一つだけ、術後の想定外がありました。
せっかく残してもらった子宮が、機能しなくなりました。
手術の後遺症とでもいうのでしょうか。
術後からずっと、私には生理がありません。
これがまた新たな「私は本当に子どもを望んでいるのか」問題になります。

不妊治療をするのか、どうするのか。
刻々と過ぎていく時間をモヤモヤとしながら過ごしていると、次なる転機「夫の海外赴任」がやってきます。

③ 夫の海外駐在に帯同!アメリカ生活2年間

夫は以前より海外赴任を希望しており、いつか行くだろうというのは分かっていたので、赴任が決まった時には特に驚きはしませんでした。
周りはビックリしてましたけどね笑

赴任先はアメリカ、ミシガン州デトロイト、予定期間は2年。
他の候補地にドイツやブラジル、中国なんかもあって、その中でアメリカになったことに正直ホッとしました。
他の国だと言葉の勉強からしなきゃいけなくて、生活ももっと大変だったろうな・・汗

赴任が決まってからの準備期間はあっという間でした。
夫は激務をこなしながらの赴任準備で、本当に大変だったと思います。
帯同者に関してはほとんど会社がお膳立てしてくれるので、指示に従い手続きを進めていくだけ。
引っ越し荷物のパッキングもぜーんぶ運送会社の方がやってくれるという超VIP待遇!笑
私はただただ新たな生活をワクワクしながら待つのみでした。

海外に移り住むとき、役所への転居届は「海外」と記載するので、実質日本国内での住所がない状態になります。
アメリカへは夫が先に行き、その1か月後に私も渡米。
夫を見送った後、私はしばらく実家で生活していましたが、転居届はすでに提出しているので「住所不定」の状態。
さらに会社も辞めていたので「無職」。
なにか事件起こしてたら完全に「住所不定無職の30代女性」でした笑

期間限定のアメリカ生活なので、とにかく出来る限り、思いつく限り、やりたいことは全部やってやろう精神で楽しみました。
渡米後、数週間後には日本人コーラスグループへ見学希望の連絡をし、約2か月後にはそのコーラスグループの一員としてコンサートに出演してました笑
このコーラスグループの皆さんにはとてもお世話になり、色んな情報はすべてこのコーラス仲間から教わりました。
アメリカ生活を楽しめたのも、この日本人コニュニティーがあったおかげ。
日本文化を伝えるボランティア活動にも参加して、最後の方はオーガナイザー的なことまでさせてもらいました。

ある程度生活に慣れてきたころ、現地のコミュニティにも積極的に参加してみました。
ミシガンでは教会や図書館が公民館的な役割をしていて、さまざまな催しがありました。
仕事や移民でアメリカへ来た方も多いので、英語を第二言語とする人が集まる無料の英会話クラス(ESL)がたくさんあり、そこでのお喋りがとても楽しかったです。
みんな第二言語なので、それぞれお国の訛りがあったり、上手く話せなくてもみんなで補完し合ったり。
このESLで出会う仲間からそれぞれの母国を伺い知ることができたことは、今後の自分の大きな財産になりそうです。
ESL以外にもアナログゲーム会や「みんなで一緒に歌おう!」という歌声喫茶的なイベントにも定期的に参加してました。

もっと生活に慣れたころ、次は現地のアカペラコーラスグループにも参加しました。
ネットで偶然見つけたグループで、歌って踊るとても楽しそうなグループだったのでまずは見学へ。
そうしたらなんと、日本人が1名メンバーにいて、その子がいたおかげで私も臆することなくそのグループに入ることができました。
ここででの活動は実質半年くらいのものでしたが、たくさんの仲間と一緒に歌って踊って、とても楽しい思い出がたくさんできました。

もちろん夫ともよく出かけました。
ESLの番外編みたいな「多国籍の仲間で集まって遊ぼう!」みたいなイベントに一緒に参加した時のこと。
私たち同様、夫婦で参加していたシリア人カップルと仲良くなりました。
夫同士が同業他社ということから話が弾み、話していくうちにサルサダンスという共通の趣味があることがわかり、同じ歳だったり、お互い夫婦二人生活だったり・・共通点が多くてすっかり意気投合!
彼らは移民して10年になるので現地のことをよく知っていて、私たちをたくさん遊びに連れ出してくれました。
サルサダンスのイベントやアメリカのゲーセン、ホラーハウス、美味しいお店やドライブインシアターなどなど。
お互いの家に行き来してパーティーしたり、サンクスギビングディナーやスーパーボウルのTV観戦も一緒にしました。
夫が長期出張で不在の間は女同士でも遊びに出かけたり、映画観賞したり。
ハロウィンイベントも楽しかったなぁ。
彼らのおかげでミシガンでの夫婦の楽しい思い出がたくさんできました。
この出会いには本当に感謝しています。
現在も彼らとの交流は続いてて、時々テキストメッセージやビデオ通話でやり取りしてます。

アメリカ生活の最後はコロナでロックダウン生活になりましたが、それも含めて本当にいい経験でした。
移住しようとまでは思わないけど、期間限定ならまた住みたいです。

ちなみに、オンラインで音楽活動始めたのもこの渡米がきっかけ。
これも自分の未来を変える、大きな転機だったなと思います。

すっかり遊び呆けていたような2年間のアメリカ生活の間に、頸がん手術から5年を迎え、転移も再発もなく完治となりました。
そうなるとまた、頭をもたげてくるのが「子どもどうしたいん?」問題。
正直なところ、私の中では「何が何でも欲しいわけじゃない」が答えでした。
自然に授かれるのであればよかったけれど、今の体の状態ではそれは不可能。
本当に「子ども」という存在を求めているなら、不妊治療もその他の選択肢もたくさん考えて、もっと積極的に行動するはずなのに、それをしようとは思わない自分自身に対して、『これはもう諦めてるんだろうな』と感じていました。
ただ、夫や両親、義両親のことを思うと申し訳なくて、簡単に「諦めました」とは言えませんでした。

アメリカから戻って数年後に、ようやく「諦めました」と言葉にすることができましたが、それでもやっぱり『本当にこれでよかったのかな』と時々頭をもたげてくることがあります。
もう考えたって無駄な話なんですけどね。
たぶんこの問題は一生自分の心の片隅に居座り続けるんだろうな、という気がしています。
次に大きな波がきそうなのは周りが孫の話をし始める頃でしょうか。
今でも嬉々として孫の話をする先輩の話を聞きながら、「私にはこんな未来は来ないんだな・・夫からもこの未来を奪ってしまったんだな・・」と複雑な気持ちになります。
友人から孫の話を聞く頃には、今とは違う感情で聞けるようになってるのかな…

Let's go 40代!

自分の30代の出来事を書き出してみて思うのが、『自分の人生』と『自分だけの人生ではない現実』の間で迷ってたなぁということ。
40歳は不惑と言われる歳。
「迷わない」のか「迷うことがない」のか、それはわからないけど。
30代よりは「迷い」の少い歳になればいいかなと思います。
とはいえ、きっと何かしら迷うんだろうなぁ…苦笑

「20代の結果が30代」
病院にお世話になる出来事が続いて『これが結果か…』と、正直落ち込みました笑
20代めちゃくちゃ不摂生だったという自覚があったので、30代は自分なりに健康に気を付けつつ遊んできたつもりです。
その結果はこれからの10年間。
さぁてどんな結果がでるのか、ワクワクドキドキ!
40代のスタートです!!!

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