悔しいって、思える自分になるまで。
最後に悔しいと思ったのはいつ?
最近、悔しいと思えることがあった。
小学校以来感じたことのない感覚だった。
悔しいと思うためには、自分がその分野に興味があることが必要だと思う。
小さい頃は何にでも興味があった。
スマブラで負けて悔しいなと本気で思えていた。
じゃんけんで負けて放送委員になれなくても本気で泣けていた。
でも、ドッヂボールで相手から投げられた球が明らかに早すぎる時。
野球でバットを振った時に、どう考えても相手の投げた球にかすりもしない時。
どんだけ足を早く回転させても50mの間に相手の背中を追いかけることになった時。
そんな時に、「これ、悔しがってもしゃあないやん」と思う自分が生まれていった。
逆に、漢字テストで満点を取れなかった時、友達は満点で、僕は確かに悔しかった。
それは漢字テストで満点が取れる実力に自分がいたからだし、自分でもそう思っていた。
でもそれも、中学になって勉強の難易度が上がって多様化していくと、どう足掻いても越えられない人が現れる。
「多分無理だな」と思ったその時に、負けても悔しくなくっていった。
自己評価と悔しさは反比例する
そこから僕は負けても悔しくなかったし、どうやったら悔しいと思えるのかもわからなかった。
時を同じくして、自分の評価自体もどんどん下がっていく。
謙虚であることを僕はかっこいいと思っていて、謙虚なのに何かができる男になりたかった。
自分の行った行為をすごいと思わないようにしてきたし、いつしか自分が負ける分野は自分が関心がないものだと思うようにしてきた。
無駄に悔しがっている人を見て、「なんか青いな」と、本気になっている人を斜めから見る自分も生まれてくる。
そんな時に、有吉や若林と言ったラジオスターが現れて、心を奪われたりする。
失敗したくないから人生について考える
そうやって悔しさというどうにもならない感情を飼い慣らした僕だけど、結果としてそこには無能なネガティブ思考だけが残った。
何かに本気になる経験くらいはしておきたいと勉強を本当に頑張ったら東京大学に合格した。
これは本当にありがたい経験で、自分の自己肯定感や自分の人生観に対してプラスに働いたと思う。
受かっていなくても本気で頑張ったので、プラスではあったけど、自己否定していた自分を少しだけ認めてあげる機会になったし、人生に対して少しだけ余裕が出た。
論理的に意味があれば失敗しない…?
それから僕は人生に対して考えることが多くなった。
もう失敗したくなかったからだったと思う。
自分の中での成功を手にしてもまだ、自分は一向に自己評価を高く持つことができなかったのだ。
今思うと、僕はどこかで負けたくなかったのかもしれないけど、どちらかというとまた失敗することが怖かったし、嫌だったし、悲しかった。
ただ当時は負け癖が抜けていなくて、とにかく勝たずに勝つ方法を探していた。
人生にとって意味があることとは何かがわかれば、自分は意味のある行為をすることができると考えた。
だから人生とは何かをずっと考えて、それに資する行為をすれば失敗することはない。
もしくは人生とは何かを何やらわかったふうになれば、人生とは無意味だと看破して仕舞えば、自分が負けたところでそれは意味がないことになるわけだから失敗しないとも思った。
意外なことに僕は宗教的な手法に頼らなかった。
大いに宗教的な知識を参考にしたけど、物理が好きだったのもあったのか、宗教だとわかった気にならなかった。
実際僕の見立てでは、人生はかなりの確率で無意味だと思う。
それは、個人の体験として無意味ということではなくて、何か神秘的な体験とか神々しい価値のような意味を授けられていることは少ないんじゃないかと思っている。
論理的な教材を使ってある程度、人生というものを分かったつもりになれた僕は、人生は無意味であるはずだという結論を携えてもまだ、何一つポジティブにはなっていなかった。
ただ、無意味であるということに少し救われつつも、曇った心は一向に晴れなかった。
無意味な世界を無意味に生きることでは、今思えばそりゃ満足できないと思う。
自己評価低すぎて論理や意味に依存する
無意味であることがわかった以上、無意味な世界を楽しく生きることが大事だと思うようになった。
人生の体験を好転させることが命題になるわけだけど、そこでこのネガティブ思考とぶつかってしまう。
普通なら何か楽しいことをしてみたり、友達と遊んでみたり、新しい挑戦をしてみるんだろうが、僕は大剣なんかとは程遠い、思考というものに耽っていってしまった。
ネガティブだからか人が怖いし、ネガティブだからか人と会うだけで疲れる。
人が何か言ってこないかなと気にしている。
何かを言われると次から次に自分を自動的に否定していて、自分を肯定することや楽観的になることが全くない。
さらに窮屈なのは、頭は変に論理的な世界で動いていることだ。
自分は楽観的になりたいのに、論理的に楽観的になることの意味とは何かとか、欲求が生まれるたびにそれを論理的っぽい意味で説明したくなっていた。
でも、これも失敗への恐怖からの行動だった。
楽観的になりたい。
ただそれだけだったのに、楽観的になることの意味を論理的に言えれば楽観的になることが失敗ではないから、ようやく楽観的になる資格を得られる。
そんな感覚だった。
逆に言えば楽観的になることすら、失敗なんじゃないかと恐れていたのである。
あまりに自分に自信がなさすぎて失敗に過度に怯え、意味とか価値とか論理的なものにとらわれていた自分が、どう言った経緯で、どう言った答えに行き着いたのか、そして最終的にどうして悔しいと思えることが良いことだと思えるようになったのかを有料パートでは書きたいと思う。
今の自分も暗中模索の日々であるけど、少なくとも数年前までよりはポジティブになれていると思い、そこまでの経緯を少し書かせていただいた。
有料記事のキャンペーンがやっていたので勇気を出して、有料にさせていただいたが、共有していただけると無料で見ていただける。
ここまでが2500文字弱で、残りも同じくらいあるらしい。
お気に召した方がいらっしゃったら見ていただければ幸いだ。
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