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幸せと忙しさ


今日は、全く忙しくない日だった。
前日までは、ひどく忙しかった。
人生を決める試験を受けた後に、そのままバイトに行って、さらにそのまま大学に行って全く進捗がないことを思い出し、そのまま飲み会があり、帰ったら少し時間があったので動画編集をして40分くらいのものにテキストをつけたりしてパブリッシュするというハードワークをしていた。
そして今日は忙しくない日を逆に送った。
今日までに本当はESを出さなければいけなかったが、あまりに忙しかったので、出さなかった。
そうすると、ものすごく良く寝た。
デジタルデトックスも終わって、動画も見れた。
でも前日に時間がないけど動画編集していた時の方が俺は人生が楽しかった。
だから、結局youtubeはまた制限を始めた。
制限されたら困るものだけ人生に残していくのが良いと思ってる。

動画も制限して、パブリッシュした動画もみんなに喜んでもらって、ひと段落したところで、「忙しくないなぁ」と思った。

忙しいとしんどいって思う

ここでいう忙しいというのは、みんなが思っているような忙しいではない。
あの仕事もしてこの仕事もしてとワーカホリックになっている状態じゃない。
なんなら一日に2つの用事を済ますみたいな小さなことを忙しいと言ってたりする。
僕は忙しいのが嫌いで、睡眠時間はきちんと取りたいタイプ。
睡眠を削らないといけないくらい忙しいとき、自分がやりたいこと以外の時は絶対断る。
でも今は「ちょっと行為する」という意味での忙しさに対しての思いが変わってきた。

昔は、忙しくすること自体がとてもしんどいと思っていた。
ベットに寝っ転がりながらyoutubeやtwitchを見ていた頃の話である。
それもものすごく最近だ。
1ヶ月前くらいまでそう思ってた。
もうこれで良いって思ってた。
これで良いのに、なんで体をしんどくしたり、頭を使ってしんどくなったり、人に気をつかったり、約束を守ったりしないといけないのだろうと思っていた。
寝るという行為よりもしんどいことをしたくない。
何もない日に、何も考えずラーメンを食べにいくということすらしんどかった。

今は忙しくできているから思うけど、ちょっと遠くのラーメンを食べにいくって楽しい。
でもそれって、忙しいに慣れてたり、自分をコントロールして自分が好きなことが何かわかってないと無理なことだ。
僕はニートになっても、ラーメンを食いにいくことをしんどいと思っていただろう。
時間がどんなにあっても外に出てることがしんどいと思っていたから。
自分の好きがなんなのか全くわからなくなっていたから。
動画の中の世界は心地が良いから、それでいいと。
昔のSFで描かれてたディストピアを僕はもう経験しているのだと思う。

でも、体験してみると正直そこまでめちゃくちゃディストピアでもない。
だってあまりに楽だから。
ただ、僕は自分をコントロールして生きていたいから動画を見るのをやめた。
人生を取り戻したくて動画を見るのをやめた。
大学を卒業するタイミングになって、どうせ普通の人生を送って死ぬということがわかったから、だったらめちゃくちゃやった方がいいなと思った。

行為をしても忙しくなかった

あと昔と比べて忙しいの定義が違う。
時間があるから動画編集しようと思って動画編集するのは忙しいことだろうか。
昔の自分からしたらそれすらも忙しいことだった。
とにかく行為をすること自体が忙しくてしんどい。
誰かにあったり、飲み会行ったり、飯食ったり、風呂入ったり。
そんなこと全てを忙しいと思っていたのである。
昨日の僕は初めてその概念から脱出した気がする。
今までは漫画とかを読んでいたけど、昨日は初めて動画編集をした。
行為をした。
個人的には、休みの日に勉強をしてみたくらいの感じ。
そうしたら、「これ、娯楽かもしれない」と思った。
勉強なんて忙しいとかしんどいとかの代表格だけど、やってみたら、「あれ?動画見るよりも血肉になるし、生き生きできるし、楽しいかも?」と思うみたいな。

幸せ

「はぁ幸せだなぁ」
と思うことが最近少しずつ増えている。
動画を見なくなる前から思っていたことではあったけど、飯食ったりとか風呂入ったりするとめっちゃ幸せになる。
昔は、その幸せを最大化させようとか考えていたけど、それだとうまくいかない。
ゴリゴリにやろうとしていってもうまくいかないし、最大化しようとするあまり何が面白いのかを考えたり、なぜ面白いのかとかを考えてしまう。
その結果、大事なことをそんなに面白くないんじゃないかって思ってしまう。

僕は、そんなに面白くないことが実は幸せっぽいということに気がついている。
面白くない研究室の飲み会も人が良ければなんだかいい気分になれる。

仲間との思い出をまとめるための動画編集は僕にとってはものすごい幸せなものだった。
そしてそれは無駄に思える時間にスマホのカメラを回してとった映像を編集したものがほとんどだった。
つまり、ただだべっているだけの時間ほど、動画に残すといい感じなのだ。

無駄は意外と悪くない。

忙しさと幸せ

僕が忙しくないなぁと思ったのは、忙しかったのをやり切った後の達成感みたいなものを感じて幸せになっていたからかもしれない。
でもそんな幸せも動画を見ずに、ひとつながりの人生を生きていたから思えたことだと思う。

忙しくない日を過ごすと大概、戻りたくなくなるけど、僕は戻ろうとしてる。
戻りたいとかじゃなくて、戻ろうとしてる。
早く現実の問題を解決したいし、現実の中で確かな幸せを見出したいって思ってる。
忙しくしたいのではなくて、そういった行為をするのには忙しさが必要で、忙しさが終わるたびにちょっと思い出になる。
今の僕はもうちょっと忙しいをうまくコントロールできると思ってるし、忙しくすることの効用を少し感じている。

忙しいは学歴とか職歴とか経歴を作ってくれるけど、思い出も作ってくれる。

小さい頃に親が忙しそうなのにココスに行ったのを思い出した。
結構空気が悪かった気がする。
楽しそうに食事してなかった。
まぁココスだけど食うか〜みたいな。
もっとうまそうな飯屋行きたかったなぁ〜みたいな。

でもココスの景色はやっぱり幸せそのものだ。
包み焼きハンバーグなのか、なんか焼くやつがついてくるハンバーグなのか知らないし、夜だし、雨だし、照明もなんだかちょっと暗い気がしたけど、それでもなんだか大事な記憶だ。

あの時の親は、忙しかったのだと思う。
でもその忙しさの中にあるココスの焼くやつにくっついた肉をフォークで取っていた記憶を僕は今でも大事に持っているのだ。
忙しいって大変だけど、それでもやっぱり幸せがそこにある。
気づきにくいけど、忙しさもゆったりと流れる時間の一部なんだ。

忙しいが大変な条件

忙しいのがしんどい時もある。
でもそれには色々条件がある。

そもそも、ねれないくらい忙しすぎる時。
これは普通に、しんどくなってくる。
体調的に。

嫌な奴がいる時。
これは最悪。
普通に暴言とか吐いてくる。

嫌なことをしてる時。
最悪。しんどすぎる。
というより、心を蝕んでくるようなことのことを嫌な行為だと思ってる。
人によって違う。

一番しんどいのは一生逃れられないと思ってしまうことかもしれない。
忙しい時に、ずっとこの牢獄にいるのかと思う時が一番辛いかもしれない。
瞑想とかして、いやこれどんだけ焦っても自分ができる量しかできないんだからって割り切って、忙しい時こそ日常モードになっておくのは大事だと思う。
あとはどれくらいの忙しさだと体が「終わる」のかを知っておくのはものすごい大事。
あと、友達と飯に行くこと。
これによって、日常なんじゃないかと錯覚できる。
忙しくないんじゃないかと。

幸せとは

幸せって言葉を使いたくないのは、多義的だから。
いろんな形の幸せがあって、noteとかで幸せって検索すると結構、「諦念しましょう」みたいなのが多い気がする。
もしくは仕事やっててちょっと楽しいかもみたいなやつとか。
幸せがなんなのかをズバッと言ってる奴をあんまり見たことないかも。

僕はそういうのきちんと言ってないと嘘だなと思ってしまう。
だから、あんまり幸せという言葉を使わない。
幸せについての定義をかけるわけないと思うから。

でも今回は、使った。
飯を食う時とか、友達や後輩や先輩と繋がってる時とかに感じた昂揚とエモさと嬉しさは幸せという言葉が一番近かった。
エモさって、僕の考えでは結構よくない。
ネガティブの源泉な気がしている。
例えば、卒業式とかエモい。
でもそれは別れであり終わりだからエモいのだと思う。
それってちょっと悲しいみたいなニュアンスがある。
でも幸せにエモさがちょっと入ってる気がした。
人生に対するエモさかもしれない。
人生っておもんないけど、この食事は最高すぎて、こういう最高な時間を経験できる生が死によっていつか終わると思うと悲しくなってくるみたいなことかもしれない。

逆にエモさがない幸せもある気がしてきた。
例えば動画編集終わって、忙しくないなぁって思ってる時は、次があるからエモさはあんまりない。

僕の幸せの定義は
「結果」
だ。
幸せは結果に過ぎない。
何か輝くものに対する嗅覚を使ってそこに飛びつく。
輝くものは、動画編集かもしれないし、歌かもしれないし、友達の才能かもしれないし、友達とのつながりかもしれない。
そこに飛びついてみて、「あれ?ちょっと楽しいかも?」と思ってみる。
もうちょっとやってみていい感じの結果が出たり、もっと楽しくなった時に、心の奥の方でじんわりと感じるものが幸せだ。
もし幸せが欲しいというのなら、結果に過ぎないということを理解しないといけない。
感性で生きてみてその幸せという結果にぶち当たるのを願うしかない。

やらないといけなくてしんどいって思ってた学校とか仕事にも幸せが潜んでいたりするのはその例だ。
結果がいいから幸せだったかもって思うということだ。
(結果が悪くてもそこから逃げられたらそれは良い結果だから幸せだと思ったりもする。)

僕の思う幸せのイメージを例えていうなら、「『この方向めっちゃ良かったよな』っていつもは心の奥の方で寝てる幸せ担当の俺が興奮気味に話してくること」だと思う。
だから、ああ、こいつがこんな興奮してるってことは俺って結構幸せなのかなって思う感じが近い。
だから幸せは、方位磁針だ。
目的じゃない。

じゃあ人生の目的は何だっていうといっぱい幸せな思い出を作ることかなとも思うけど、幸せを目的に走ることはそもそもできない気がする。
とにかくやってみて、結果を見てみることしかできない。
それで結果が良かったら、もれなく幸せがついてくるだけで、別に幸せがついてこなくても結果が良かったらそれでいいと思う。

幸せがあったら、もう一回その幸せを感じたいと思うかもしれない。
でも結構幸せ担当の俺は飽きっぽいから、おんなじってのは多分ない。
でも方向とか、ヒントとかはもらえそう。

例えば。

飯腹一杯食った時に、幸せ担当の俺が興奮気味に
「良かったな!」
と大きい声を出した。
確かに最高の食事で、友達とも色々話せて、最高すぎた。
そりゃこいつが出てくるのも頷ける。
「やっぱ、普段食わないようなものをいっぱい注文するのってテンション上がるよな!」
こいつはそう思ったのか。
でも確かに、普段食えないフレンチとか多分テンション上がるし、あながち間違いではないかもしれない。

みたいな。

幸せはヒントをくれるし、結果に勝手についてくるお調子者だ。

他のヒント

今は忙しくできている。
忙しくしてもいけると思うことも少し嬉しい。
もちろん、忙しさに限界はあって、今月だけでもペースダウンをしたりしていて、適切な忙しさに落とし込めている感じも嬉しい。
自分がやりたいことがその忙しさの中の割合で増えていくのも嬉しい。
いらないものを捨てていって、やりたいことが増えていく。

最近少し思うのは僕は自分がアウトプットしたものを見るのが結構好きだ。
文章も動画も、自分なりに気持ち良くなるポイントがある。
自分が気持ちよくなるために書いたり作ってるから当たり前なんだけど、誰も作ってくれないから自分で作るって感じに近い。

これらは幸せにも満たない嬉しいとか楽しいとかからのヒントだけど、そういうの大事にしてみたい。

まとめ

今回学んだのは

・幸せは結果についてくるだけのやつ。でもヒントをくれる。
結構いい加減なやつ。でもヒントくれるから大事。
・行為はしんどくない。
行為は実はしんどくないことがある。そういうの見つけたい。
忙しすぎるのはだめ。でも行為を積み重ねるのはちっちゃい輝きがいっぱい手に入って嬉しい。
・無駄も大事
無駄って結構大事。ものごとは裏表があるって考え方が好き。いいことにはそれだけのデメリットがあるし、逆に無駄には意外と思い出というメリットがあるかもしれない。
・動画は制限しよう
人生が断絶していて何をしていたか「忘れる」から
・体がしんどいくらいの時は、減らす、割り切る、遊ぶ
体がしんどいのが一番しんどい。だから忙しいを減らす。
心がしんどいせいで体がしんどい場合もあるから、もうできるとこまでしかできないし、今焦っても俺はベスト尽くすから意味ないわけで、ベストを尽くす以上は焦る必要が全くないと割り切る。
あと遊ぶことで、日常の感覚を取り戻す。忙しくてもこんな遊べるんだって思うと、これが日常なんじゃないかって思えてくる。


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