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考えることっていいことか?


3/18に書いた文章

考えることってすごい大事だ。
こうやってnoteに考えをまとめることで、物事がどう動いているかが整理される。だけど、色々noteに書いた日に限って、そんなに物事が進んでいないと気づく。noteをめちゃくちゃ書いた日はそんなに進んだ感覚がない。

どういう考えなら有効で、どういう考えならあんまり役に立たないんだろう。
考えの中でも、あふれんばかりに学びが出てくるデジタルデトックスの記事はいい考え方な気がする。
どんどん考えが出てきて、書くたびに前に進んだ。
学びの塊みたいな物を書くときは前に進んでいる気がする。

一方で迷っていたり、悩んでいたりする文章はあんまり前には進んでいない。
でも、その中でも次の行動が決めれていたり、工夫を思いついているものもある。
目標のハードルを鬼のように下げることとかの記事は結構いいと思う。
あとベッドライトの記事とか。
だから迷ったら、打開のための思考をするべきだ。
わからないものを考えることの燃費は結構悪い。

4/7に書いた文章

なぜと考えるのは意味がないことが結構ある。
死にたい時に、何で生きていないといけないのかを考えても答えは出ないのに、気がついたら生きていこうと思えている。
何もしたくないと思っている時に何で行動しないといけないのかと考えても答えは出ないのに、気がついたら頑張ろうと思えている。

事実じゃなくて認識が世界を作っていると思う。
気分によって考えなくて良くなることが多すぎる。
最近熱いのは、今も未来も、うまく行くし、うまくいっている。今も未来の選択も正しいし、正しくなる。
って考えること。
そのために一生懸命やるってことが大事なんだけど、一生懸命って何?って話で。
僕が思うのは、クオリティなんかは捨て置いて、今始めることだと思う。

今始められたら、もう一生懸命としか言いようがないよ。

4/16に書いた文章

考えることが大事な場面は、おそらく、自分が抱かされてきた世界観から自分が考える世界へと考えを移行するときに必要なのかなと思う。
それが終わるとある種悩む必要がなくなる気がする。
大学時代の僕にアドバイスをするなら、悩む気持ちはわかるけど、効率に気をつけろと言いたいし、早く悩み終わって、大学時代を何も悩まずに楽しめと言いたい。
つまり、基本的には悩む必要はなくて、人生はすごくシンプルだと思う。
だから、悩むために人生を楽しむことを捨てる必要って本当になくて、全力で遊んで、全力で悩むっていう生活ができてたら、たぶん後悔なんてなかっただろうなと思う。

6/30に書いた文章

考えることはもはやしなくて良い。
最近僕がたどり着いたのはそういう境地だ。
というのも、この時僕が考えようとしているのは言語化しようとしているということだ。
でも、僕は視覚思考というところが強くあるため、言語化をしようとすると情報量が落ちるというのがあることに気がついた。
自分の微妙なニュアンスが画像とか、体性感覚とか、位置とかでイメージ化されることが多いことに最近気がついたので、それを画像化できた時点でスッキリしたり、そこで感じたことの情景を言葉にするというだけでいいと感じている。
そしてそのイメージとか情景に向かったりするというので解決したりする。
就活などは特にそうした感覚を言語化することが求められるため、視覚思考の人は特に言語化するときに社会通念を内面化してしまって、疲れてしまうことがある。
考えることに違和感を感じていたのは、志向の性質が自分に合っていなかったことが大きいのだろうと感じる。


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