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新世代エヴァンジェリストの憂鬱(5)僕たちの前途

『若者とキリスト教』(2014年、キリスト新聞社)より抜粋。

軽やかな「越境」と緩やかな「連帯」

 以上の問題意識を前提に、今後のキリスト教について若干の希望的観測と提言をしたいと思います。キーワードは、「越境」と「連帯」です。しかしそれは、何らかの強制力や義務感を伴うようなものではなく、境界の「あちら側」と「こちら側」を気軽に往来できる軽やかさと、ある程度の自由度を許容し合える緩やかさが保持されなければなりません。自身の信仰のアイデンティティである教派的背景を重んじつつ、他の教派への尊敬の念を失わず、互いの異なる立ち位置も尊重しながら狭隘な枠組みやバリアを一つひとつクリアしていくこと。

 すでに教派に捉われない牧師たちの連携は随所で生まれています。たとえば、開塾25周年を迎えた「説教塾」(2013年現在、20を超える教派の牧師や信徒約200人が塾生として登録しており、北海道から沖縄まで計13地域で独自の集いが活動している)、「牧会塾」(指導者による講義を中心に実践的、臨床的牧会学などを学ぶ集い。2009年春から5年間限定で実施)といった牧師有志による自主的な学びと継承の働きや、近隣の教会が定期的に協力し合う「地区牧師会」、教派を超えて一般にも開かれた「市民クリスマス」の共催など、具体的なネットワークの形成が模索されつつあります。

 とりわけ、震災後に求められた宗教者の役割、新たに生まれた「超宗派」のネットワークは重要な鍵を握っていると思います。すでに地方の教会では、一つの教派だけで立ち行かず、自発的に教派間・宗派間の交流が生まれている例も多く見受けられます。動機としては「協働せざるを得ない」という消極的な理由もあるかもしれませんが、それはむしろこのご時世には歓迎すべきことではないでしょうか。

 また、業界内でも小さな変化が生まれています。日本キリスト教団出版局が発行する教団信徒向けの月刊誌『信徒の友』に仏教者が登場したり、いわゆる「福音派」向けの月刊誌であった『百万人の福音』にカトリックの司祭が登場したりといったことは、おそらく10年以上前では考えられなかった事態です。

 客観的な視点を養ううえで同業他社、さらには異業種間の交流も必須になってくるでしょう。業界内の記者や編集者有志で立ち上げた「キリスト教記者クラブ」では、隔月でオフ会を開き、他業界の編集者や牧師たちも交えた勉強会を継続しています。興味関心のある方は、ぜひアポイントメントを取ってみてください(*現在はメーリングリストによる情報交換のみ)。

仏教界から学ぶ

 若者へのアプローチを考えるうえで、他宗教に学ぶという視点も欠かせません。私自身、若手仏教者たちのニューウェーブは大いに参考にさせていただいています。インターネットを中心に、ブログ記事の単行本化や座禅アプリの開発、イベントの企画運営までも手がけるバーチャル寺院「虚空山 彼岸寺」、「日本フリーペーパー大賞2013」で特別賞に選ばれた超宗派の若手僧侶たちによる「フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン」、住職、宮司、牧師のDJによるFM放送「8時だよ!神さま仏さま」など。いずれも、これまでの仏教観を覆すような斬新なアイデアとポップさにおいて出色です。

 かつてダイヤモンド社から「21世紀のブディストマガジン」と銘打って発刊されていた季刊誌『ジッポウ』(2008年7号で休刊)も、仏教関係者以外の読者を想定したオシャレな雑誌としてたいへん刺激を受けました。以下に紹介する巻頭言は、「開かれた業界誌」としての編集方針を的確に言い表している文章だと思います。

 争いを起こす宗教なんて、もういらない。/世界のニュースを見て、そう心に思ったこと、ありませんか?/宗教は、ほんとうは人を幸せにしてくれるはずのもの。/でも悲しいことに、ひとたび地球の現実に目を向ければ、決して相容れることのない宗教どうしのぶつかり合いが、各地で悲惨な戦争を引き起こす原因のひとつともなっています。
 世界三大宗教のひとつに数えられる仏教。/その大きな特徴は、絶対的な唯一神がいないこと。/お釈迦様が仏となった悟りへの道を歩むブディスト=仏教徒たちは、こちら側からあちら側へ仏をただ拝むばかりでなく、自分自身もやがて悟りを開いた仏となる道に連なっています。/互いのいのちを尊重し合い、あらゆる縁を大切にする仏教徒はいま、ピースフルでクールな宗教として世界中からあらためて注目を集めています。
 ジッポウは、十方。東西南北に四隅と上下を加えた全方位をあらわします。/生きとし生けるものをあまねく照らす仏の智慧と慈悲のように、いま、仏教を生きるすべての縁ある人々を、ジッポウは応援します。

 さらに、仏教界もキリスト教界と共通の課題を抱えていることを知らされた『寺よ、変われ』(岩波新書)から、臨済宗僧侶である高橋卓志の言葉を引用いたします。

 寺に人が来ない、社会から取り残され、社会的有用感がない、といった機能不全はそのままでいいのか。若い坊さんたちが、出る杭として打たれ、自由に発言できずにいる長老主義や大寺主義的関係を改善しなくていいのか。門を開けられず、社会的問題が見えず(見ようとせず)、調整能力をもたず、異分野との協働ができない、といった寺と社会とのかかわりは、このままでいいのか。経理公開を含めての情報公開も不十分、経済的自立への意欲も感じられず、寄付金に依存し、その結果、壇信徒とのトラブルも頻発、という経済感覚でいいのか。後継者に寺の魅力を残せない、それゆえに世襲に頼るしかないという将来展望でいいのか。壇信徒のニーズがわからず、したがってそれに対応したサービス提供に至らない状態でいいのか。社会の人々の棄信感に対処できず、宗教的権威はいつまでも続くと信じ、社会の方向性が読めない体質のままでいいのか。葬儀社主導に追随し、個人のリビング・ウィルを無視し、喪主家や会葬者が納得できない葬儀を行い、その結果としてグリーフ・ケアへの展開を放棄する葬儀執行者でいいのか。

 仏教用語を教会用語に翻訳すれば、そのままキリスト教にも適用可能な問題提起として耳を傾けるべきではないでしょうか。

「老舗」政党への提言に学ぶ

 すでに「お硬い」組織の例としてNHKを挙げましたが、ここでは果敢にも「万年野党」と揶揄されることの多い日本共産党に言及したいと思います。実は、思想・信条の親和性を抜きにしても、組織として直面する問題において酷似する点が多々あります。ここでは、90年代末に発行された『隣の共産党員』という書籍から、教会にも適用可能な個所を抜粋したいと思います。

 テレビなどのメディアの役割を理解できないと、これからの共産党員はやっていけないと思いますね。……はっきりと申し上げて、〝金太郎飴〟の人たちとのカンパニア活動や会議、会議で疲れている、テレビなんか見る暇がないと公言する「隣の共産党員」の人たちより、テレビの政治バトルに声援を送る零細庶民の無党派の方が、はるかに高度の政治意識を誘発されていますね。もしかしたら、こういう人たちこそ、ホンモノの〝影の共産党〟になる可能性があるのかもしれない。メディアの時代は、口コミ、パーソナル・コミュニケーションの時代でもあります。
 党に対する古いイメージで生きている人たちには、こういう古さでしか、共産党の価値観を表現できないんでしょうね。しかし、迷い犬が入って来れるほど、共産党の建物は開放的にしてほしいと思う人は多いでしょうね。これから、……頼りになる共産党へ相談したい人が、増えていくことは間違いないのです。ガラス張りで、役場のようにカウンターがあるところで、相談したい。そう思う人は少なくないはずだ。……地域の中にどっしりと、根をおろす。建物だって、同じです。敷居の低さ、透明性。こんなことを考えていい時代です。(金井次郎&共産党〝私設〟応援団『隣の共産党員』データハウス)

 こちらもうまく翻訳すれば、そのまま教会の課題として当てはまりませんか? ちなみにこの党は、2013年の選挙で「カクサン部」という広報用のキャラクターを考案し、インターネット上でも幅広く「拡散」され話題を呼びました。NHK_PR同様、これまでのイメージを刷新する役割を担ったと言えるでしょう。

まとめとしての野望

 以上、駆け足で「新世代エヴァンジェリスト」が直面する「憂鬱」な現状を概観しながら、この間のキリスト教書「ブーム」の特色について触れ、知的関心が高まる流れに「本家本元」としての責任と、「応答」の可能性について述べてきました。新しい時代と世代的なニーズに対応し、牧師と業界の「憂鬱」を克服するためには、やはり発信力、広報力、翻訳力が欠かせません。

 さらに加えるならば、他のセキュラーな業界に負けない企画力です。個人的な野望として、ぜひ実現させたいと考えている具体的な企画は、現代人に通用する言葉で綴る『萌え訳☆聖書』、サブカルからキリスト教を学ぶ『空想神学読本』、歴史的に著名な神学者たちからルーツをひも解く教派擬人化漫画『教会たん』(*この構想は、後に『教派擬人化マンガ ピューリたん』として具現化)、ライブストリーミングの動画共有サービス「ニコニコ生放送」を用いた神学生による「ガチンコ公会議」など。これ以上は、企業秘密です。

 ともあれ、これだけキリスト教を含む宗教界が注目を浴びるご時勢に、2000年の歴史と遺産、人材を生かさない手はありません。もはや一企業、一教会、一教派で対処できるレベルではありません。問題意識を共有する個々人がそれぞれの場で、今できることから始めるしかない。まずは模倣からでも、「群れない」個人が枠を越えながらゲリラ的に活動するしかない。「若気の至り」で失敗もするでしょう。でも、その失敗も含めて、「時を用いてくださる」主に委ねて歩みたいと思います。では、いつやるか? 答えは明白です。


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