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新世代エヴァンジェリストの憂鬱(4)教会よ、応答せよ

『若者とキリスト教』(2014年、キリスト新聞社)より抜粋。

対極としてのキリスト教「ブーム」

 ここまで、業界内の比較的暗い「憂鬱」な話を続けてきました。気分を害された方、先に謝っておきます。ごめんなさい。この後は、少し違った角度からお話をいたします。

 目を外に転じてみると、すでに(1)で触れたように、世間では対極的とも言えるような動きが起こっています。改めて、この間の動きを概観してみましょう。まず注目すべきなのは、一般誌におけるキリスト教特集の火付け役となった阪急コミュニケーションズの『Pen』(月2回刊)が、すでに2007年の段階で「ルーブル美術館」特集に着手している点です。そしてその流れは、「ダ・ヴィンチ」(09年)、「キリスト教」(10、11年)、「エルサレム」(12年)へと続きます。10年3月1日号の「キリスト教とは何か。」は、初版11万部を2週間でほぼ完売し、特集を増補して同年5月に発売された別冊も、初版の13万部を完売しました。70ページを超える特集を組んだことも含め、いずれも同誌では異例のこと。

 誌面の中心は絵画と教会建築で、「知っておきたい西洋文化」としてのキリスト教をさまざまな角度から解説しています。担当した編集者は、「専門的な用語を難しくせずに説明するのが難しかった。普通の読者が読んで引っかからないように心掛けた」と振り返りました。同誌編集長の安藤貴之は、「やはり聖書というベストセラーの存在は大きい。それが読んでみると意外に面白い。宗教画と聖書の関連を理解している人も、意外に少ない」(2010年2月27日「キリスト新聞」)と話しています。

 『Pen』に続いたのが、新潮社が発行する季刊誌『考える人』の10年春号(第32号)。「シンプルな暮らし、自分の頭で考える力」を掲げる同誌は、05年に「考える仏教」、06年に「家族が大事――イスラームのふつうの暮らし」と題し、他宗教の特集も取り上げてきました。「はじめて読む聖書」と題する同号の特集は90ページにのぼり、新約聖書学者である田川建三へのインタビュー「神を信じないクリスチャン」をはじめ、エッセイや聖書を読むためのブックガイド、聖書を印刷する三省堂印刷を訪ねた手記などを掲載。アンケート「わたしの好きな聖書のことば」では、作家の角田光代、脳科学者の茂木健一郎、脚本家の山田太一、俳優の山崎努など、総勢三三人にのぼる多彩な顔ぶれが、印象に残った聖書の箇所とその理由をそれぞれ語っています。

 大震災のあった2011年、別冊で『仏教のチカラ』(11年8月16日号)、『禅的シンプルライフ』(10月29日号)を出してきたビジネス誌『プレジデント』は、「『ブッダ、聖書』の言葉」(11月14日号)を特集しました。副題は「超訳『運をつかむ』16の教え」。70万部を売り上げた『超訳ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)に次いで『超訳聖書の言葉』(幻冬舎)を著した作家の白取春彦が、ビジネスに役立つ聖書の「超訳」を紹介したほか、北城恪太郎(日本IBM最高顧問)、飯島延浩(山崎製パン社長)、日野原重明(聖路加国際病院理事長)、江上剛(作家)らが、聖書の魅力を語りました。

 2人の社会学者による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)が世に出たのは、ちょうど同じころ。発売から1カ月足らずで3刷、5万部の売り上げを記録し、その後も勢いは衰えることなく「新書大賞」に至ります。講談社の担当編集者は「著者が宗教家や信者でないのがポイント。信者でない人が抱く疑問に、橋爪さんが大胆に分かりやすく単純化して答えたのが当たった」(11年11月15日「朝日新聞」)と見ています。

 キリスト教出版界の反応はというと、業界外の出版社による「橋渡し」の成果を評価する声がある一方、「一般誌の特集だから売れたのであって、専門誌が二番煎じをしても意味がない」という冷めた見方もありました。ただ、一般誌でのキリスト教特集は、いずれも美術や聖書物語が中心で、国内の教会文化や神学者、信徒の実生活、宗教改革以後のプロテスタント各派が取り上げられることは稀な印象です。誌面では、どうしてもビジュアルとして映える部分に偏りがちにならざるを得ません。やはり、その辺りに私たち専門出版社が補うべき課題が残されているようです。

 朝日新聞は、相次ぐ雑誌のキリスト教特集や書籍の刊行について、「読まれるキリスト教」との見出しで大きく取り上げました(2011年2月21日付)。そこでは宗教学者の島田裕巳が「信仰心の薄い日本人にとって宗教への関心ではなく、『なぜこんなに真剣にキリスト教なる宗教を信じる人々がいるのか』という関心です。ミステリー小説への関心に近い」とし、作家の江上剛が「(小泉元首相と同じく)イエスの言葉も歯切れがよい、いわばワンフレーズ。政治も経済もリーダー不在の時代に、迷いを消してくれるものが聖書にはあるだろう、という期待の表れではないか」と指摘しています。

 こうした流れはサブカルチャーの世界でも顕著に表れました。イエスとブッダが立川でルームシェアするという斬新な設定の漫画『聖☆おにいさん』(中村光)は、宝島社「このマンガがすごい!2009」オトコ編一位を獲得して以降、2013年にアニメ映画化されるまで単行本の売り上げを伸ばし続けています。お寺、神社、教会の「息子」たちが織りなす漫画『さんすくみ』(絹田村子)も、女性誌の読者を中心にファン層を拡大。少女漫画界の大御所による『寺ガール』(水沢めぐみ)では、お寺に生まれた三姉妹がそれぞれの進路で葛藤する中、牧師の息子との恋愛模様もリアルに描かれました。他にも、『ぶっせん』(三宅乱丈)、『お慕い申し上げます』(朔ユキ蔵)、『住職系女子』(竹内七生)など、仏教系を中心に数々の作品が生み出されています。今後は、漫画を通して聖書やキリスト教に関心を抱く層も確実に増えていくことでしょう。

なぜ「応答」しないのか

 こうした動きに対し、業界の反応は極めて鈍い。生々流転の目まぐるしい世の中で、絶えず動じないという安定感も確かに大事でしょう。しかし、日々刻々と変わりゆく時代にどう対峙し、「時のしるし」をどう見極めていくかは、キリスト教にとっても重要な課題になり得るはずです。東日本大震災に対するキリスト教出版界の反応も、やはり遅きに失したと悔やまれてなりませんが、それはまた別の機会にゆずりたいと思います。このような「鈍さ」の理由として、さまざまな要因が考えられますが、一つは「外」に厳しく「内」に甘い体質が挙げられると思います。

 カトリック御受難修道会の来住英俊神父は『カトリック生活』(ドン・ボスコ社)での連載「〝キリスト者〟と〝思想〟の交差点」で、『ふしぎなキリスト教』への沈黙を貫くキリスト教界への違和感を表明しています。

 『ふしぎなキリスト教』への無関心が示す現実は、「カトリック教会は、他人と一緒の土俵なら出て行って相撲を取ろうとするが、自分の土俵に他人が入って来ると無視する」ということである。私はそれを卑怯と思うのだ。
 「キリスト教とは何か」という問題は教会固有の土俵……そこへ、たまたま、二人の社会学者が入ってきて、「私たちも相撲を取りたい」と言った。歓迎すべき事態である。しかし、教会の応答は、事実上、「あんたたちが相撲を取りたければ、勝手にそのへんで取ればいい……」というものだった。
 そもそも、30万部売れた本を無視するということは、「教会外の人間がキリスト教について書いたり読んだりしていることには何の価値も認めない」と言っているようなものである。教会外の知識人(プラス読書家)は、教会は対話に興味のない自閉的な集団だという印象を深めるだろう。
 教会が応答しないのは、熟慮の上での決定ではあるまい。単なる慣性だと思う。……原因を推測することはできる。一つは、「なんか面倒なことになるんじゃないか」という不安である。…戦後の教会は言論の修羅場に慣れていないので、そこに漠然とした不安があるのではないか。(『カトリック生活』2012年10・11月号)

 確実に潜在的なニーズはある。しかし、それに応え得るだけの意欲と体力が、今日の業界には残されていないのでしょうか?


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