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集団ケンシンに待った!(総督)

 教会文化の中には、「愛と奉仕と献身」という〝三種の神器〟……もとい〝伝家の宝刀〟を振りかざして、異論を唱えようとする者を黙らせるという伝統が根付いている。かつて当欄でも「『奉仕』という名の甘え」と題して、その暴力性について指摘したことがあった。今回は「献身」について、語弊を恐れず言わせてもらおう。

 キリスト教系の団体・企業ではありがちだが、せっかく使命感を持ち、スキルも身に付け将来有望と目されていた若手が「献身」して牧師を志すために辞めていってしまうというケース。言うまでもないが、牧師になることだけが「献身」の手段ではないし、「一教会の牧師なんかになったらもったいない!」と言いたくなる事例も多々見受けられる。

 絶対数が少ないために「牧師にならない?」「神学校はどう?」というプレッシャーを一身に浴び、苦笑いでスルーしながらも「まんざらでもない」と内心思っている教会の若者諸君。ちょっと待った! 安易に考えないでほしい。

 牧師にならなくても宣教のわざに仕える方法はいくらでもある。教会だけが「現場」ではない。文書伝道だってSNS宣教だって立派な証しの手段になり得るし、みんなが牧師になってしまったら誰が教会を支えるのか。

 むしろ専門職としての技術と知見を生かしつつ教会「外」でバリバリ活躍できる人材をこそ、教会は熱心に育てなければいけないのではないか。もちろん牧師が尊い働きであることは間違いないが、業界全体のボトムアップを考えれば、いずれ閉鎖されると分かっている教会に専従スタッフを配属するなどコスパが悪すぎる! せめて複数の教派、教会、牧師による共同牧会などを検討してほしい。

 すでに毎年の入学者が1人いるかいないかという瀬戸際の教派神学校がいくつもある中で、その維持になけなしの献金を費やすよりも、他の有効な使い道がもっとあるはずだ。いずれ何らかの形で統廃合せざるを得ないのは自明。規模が小さくなったからこそできる協力体制もある。

 牧師の志願者が減り続けて教会が困っていることも重々承知。しかしそれは、これまで日本の教会が牧師依存体質から抜けられなかったことのツケでもあり、もっと自立した信徒を育てなければいけなかったと反省するしかあるまい。そして、自立した信徒は、信徒のまま現役の「社会人キリスト者」として活躍してほしい。

 信徒教育における「献身(神学校への進学を決心)させたらいっちょあがり」的な風潮は、「洗礼さえ受けさせればいっちょあがり」的な思考にも通じる。だから「献身」や「受洗」が目的化してしまい、教会も神学校もその後のフォローをことごとく怠ってきた。その結果が今日の惨状である。

 本紙2017年11月21日付の座談会で「就活から逃げたんじゃないかという葛藤は当初ありました」と打ち明けてくれた現役神学生がいた。

 明確なビジョンと戦略があるなら、ぜひ牧師として旧態依然とした業界を「中から」変えてほしい。ただ、牧師になることでできなくなること(制約)の方が増えそうなら、やはり別の道で自身の賜物を最大限生かす選択肢を考えてほしいと思う。すでに我々は、1人のマンパワーも無駄にできない窮地にいるのだ。

(2018年2月21日付「キリスト新聞」掲載)

【総督】 名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。

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