キャンプを「収容会」にしないために(総督)
夏本番。学校が軒並み夏休みへ突入するこの時期は、教会関係者にとって「キャンプ」シーズンの始まりでもある。少子化の影響もあってか、泊りがけの行事は年々減少傾向にあるものの、やはり「〇〇キャンプ」や「夏期学校」の名で教会文化として根強く残っている。教会学校に通う子どもたちにとっても楽しみの一つかもしれない。
天幕を張って野営するという行為自体、旧約聖書にも頻出する通り、起源ははるか古代ローマ以前にまでさかのぼる。キャンプに教育的意義が見出されたのは19世紀後半。以来、「一定のプログラムのもとに野外で共同生活を行い、大自然の中で学習と活動を通してお互いに人格を高め合っていく組織的な野外活動」として、今日までその役割は受け継がれてきた。
日本では1920年代に初めて教育的意図をもったキャンプが実施され、90年以上の長きにわたって、YMCAやボーイスカウトをはじめ多くの教会、学校が主催し、子どもたちが参加してきた歴史がある。
「修養会」と称する研修を毎年の恒例行事にしているキリスト教系学校も少なくない。内容としてはキャンプと似ているが、普段の授業時間ではできないような課外学習を組み込んでいる場合が多い。寝食を共にしながら絆を深めるというのも、大きな目的の一つ。
本紙3月11日付でフェリス女学院中高校出身の「お笑いジャーナリスト」たかまつななさんが、「多感な時期にこういう話題(『友だちとは』『信じるとは』『生きるとは』など)を本音で話した経験は、今の活動にもとても活きている」と証言している通り、その教育的意義は今も変わることがない。今どき相部屋で寝ることも、電気、ガスのない不便な生活を体験することも貴重なはず。
しかし、一部生徒の間では密かに「収容会」と呼ばれ、すこぶる評判が悪いこともまた事実である。人里離れた「施設」に隔離され、建学の精神やらキリスト教の神髄やらについて缶詰め状態で叩き込まれる。外部から偉そうな先生が来て、延々と講釈を聞かされ感想を書かされ、挙げ句、人前で発表させられる。半ば強制的に「収容」される身にもなってほしい、と。
無論、当初は「行きたくない」とか「修学旅行の方がよかった」と愚痴をこぼしながらも、「行ってみたら充実していた」「友だちと仲良くなった」という感想は期待できるし、教会主催のキャンプであれば、「献身」を決意したという成果も事欠かないだろう。
それらを一定評価してなお、主催する大人たちが自己満足に陥りがちであることも重々自覚しておくべきである。人は非日常的環境に置かれればテンションも上がるし、日常では決してしない言動をとることもある。近ごろの純真無垢な若者たちなら、もっていき方次第で洗礼の一つや二つ、「受けます!」とも言い出しかねない。
映画『ジーザス・キャンプ』でも描かれた熱狂をどう評価するのか。それが功を奏する場合だけでないことぐらいは知っておいていい。海外生活で洗礼を受けた「帰国者クリスチャン」が、日本でも教会生活を送れるよう十分なフォローが必要であると同じように。
優等生的な感想を書かせて悦に入るのではなく、参加者のニーズをくみ取り、モチベーションを維持させる配慮も不可欠である。普段の生活を通し、身の丈に応じて伝えられることはいくらでもある。
(2018年8月1日付「キリスト新聞」掲載)
【総督】 名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。
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